第三話 今度は、

 ——桃花!!!


 バッと目を開けてそう叫んだつもりだったけれど、声は出ていなかった。


 僕は急いで起き上がり、枕元に置いてあるスマートフォンをタップして時間を確かめた。

 7月26日、夏休みの前々日。

 時刻は6時21分。目覚ましが鳴る時間よりだいぶ早く目覚めてしまった。かと言って二度寝する気など全く起きない。目を閉じたら、再びあの恐ろしい夢の中に引き摺り込まれてしまいそうで。

 最早、瞬きの一瞬ですら目を閉じるのが怖い。その一瞬、まぶたの裏に彼女がまさに死ぬ場面が切り取られて再生されるんじゃないかと考えてしまう。


 背中や額に嫌な汗がじっとりと滲んでいる。たらり、と垂れるのではなくいつまでも肌に張りついてくるタイプの、どこか粘度のあるもの。不快だ。


 ……なんだこれ、なんだこれなんだ、これ。


 現実との境が曖昧になるくらいリアリティのある夢。細部までくっきり見える、わかるくらい創り込まれていた。

 どういう設定だったんだろう。夢の中でまた僕は夢を見ていた、ということになるのだろうか。

 脳がフル稼働していたからか全く休んだ気がせず、頭から爪先まで謎の疲労感があった。


 僕は頬を思いっきりつねった。鋭い痛みが走る。それと共に「これは現実なんだ」という安堵からじわりと目の奥が熱くなるのを感じた。


 汗と頭の疲れ、そして嫌な夢を洗い流したい。

 僕は部屋から出て洗面所へ向かった。今日も今日とて家の中は静かで、足音だけがよく響く。自分以外に人がいないと話しもしないため、この家はしばらく人の声を聞いていないのではないだろうか。そろそろ話し声が恋しくて寂しくなっているかもしれない。

 小窓から朝日が細く射し込んでいる。その光を受けて見ないふりをしていた埃たちがチラチラときらめいている。一見すると、ドラマとかに出てきそうな幻想的な光景だが、……そろそろちゃんと掃除しなくては。


 ざば、ざばといつもより気持ち多めに水を掬って顔を洗う。寝巻きの襟元が濡れるが、そんなことはどうだっていい。

 タオルで顔を拭きふと鏡を見ると、いつもより顔が明るい気がする。目に力が入っているというか、漫画とかでいうハイライトがある、みたいな感じだ。あれが夢だとわかった安心感はかなり大きいのだろう。


 それはそうか。誰だって、目の前で人が死ぬ夢など見たくないだろう。

 ——ましてや、その死んでしまう誰かがだなんて。


 夢の中で見ていた夢の中では、僕たちは名前で呼び合う「仲の良い幼馴染」だった。

 それが覚めた夢の中では、挨拶すらしない「距離の遠い幼馴染」。

 だが現実はどちらとも違う。幼馴染であるというのは変わらないけれど、そこに「恋人」という新たな関係の名前が加わっている。


 僕たちが付き合い始めたのは高校生になってからだ。

 それまでは「仲の良い幼馴染」。お互いのことは下の名前で呼び合い、テスト勉強を一緒にしたり、まあ2人きりではないがどこかへ遊びに行ったりしていた。まさに夢の中で見た夢のような関係だった。

 

 変化を持ちかけてきたのは、桃花から。

 高校1年生のときの、夏休み前日。桃花の16歳の誕生日。

 学校で会ってお祝いの言葉は伝えたけれど、用意していたプレゼントを持って行き忘れたため放課後に家まで届けに行ったのだ。玄関先で渡して、また改めて『おめでとう』と伝えて帰るつもりだった。


『……ねえ、アイスいらない?』


 じゃあまた、と振ろうとした僕の手を掴んで、彼女は僕の顔をじっと見つめた。

 何かを伝えたそうに潤んで揺らぐ瞳。

 いつもより更に下がった困り眉。

 赤く染まった耳、頬。当時は「そんなに暑いのかな」なんて間抜けなことを考えていたっけ。


『……食べる』


 招かれるままに彼女の家に上がり、ダイニングテーブルに向かい合わせで座ってアイスを食べた。カップのバニラアイス。冷凍庫から出したてでまだ固いそれを削りながら口に運ぶ僕を、桃花はただじっと見ているだけだった。アイスとスプーンはテーブルの上に。彼女の両手は膝の上に。柔らかくなるまで待っているのかな、なんて思ったけれど、僕がもう少しで食べ終わりそうというときまで彼女だけ時間が止まったかのように動かなかった。

 僕が最後のひと口分を掬おうとしたそのとき。


『私、巡のことが好き』


 今度は僕が動けなくなる番だった。

 スプーンを持って口を開けたまま桃花の顔を見つめた。かなりの阿呆面になっていたと思うけれど彼女は真剣な表情を崩すことなく僕の顔を見つめ返してきた。


『……』

『…………』


 じわじわじわじわ

 ぶーー……ん ぶーー……ん


 開いた窓から入ってきた蝉の鳴き声。

 必死に仕事をする扇風機。

 阿呆な僕は真っ白になった頭で、あぁ夏だな、なんて、そんな当たり前のことしか考えられなかった。


『…………わ、私と、付き合ってくれませんか……』


 彼女の前に置かれたアイスは真ん中だけが形を保って周りはぐずぐずに溶けてしまっていた。

 そして僕のひと口分だけ残されたそれも、固体でいることをやめてしまっていた。

 僕の頭も、暑さと、熱さで溶けていて。


『……はい』


 こうして僕たちは付き合うことになった。

 あのときのことは、2年経った今でも鮮明に思い出せる。まるで映画を見ているかのように。


 そんな、僕にとって特別な存在である桃花が死んでしまう夢なんて、悪夢以外の何物でもない。


 早く頭の中から消したい。

 彼女に会って安心したい。

 朝食を食べ、歯を磨き、制服に着替え、荷物を持って家を出る。感情がエンジンとなって体を速く動かし、いつもより早い時間に家を出ることになった。

 早く行ったからといって、桃花に早く会えるかどうかわからないのに。


 いつもの通学路。

 暑そうにシャツの袖をまくりながら歩くサラリーマン。

 元気良く歩く柴犬。引き摺られる飼い主。

 日陰で怠そうに横たわってあくびをする野良猫。

 もうすぐ、君の家。

 

 彼女の苗字の表札が掲げられた大きな一軒家の前まで来た。

 ……タイミング良く、桃花が出てきたりしないだろうか。

 いや、チャイムを鳴らしても良いのか……?

 

 どうしよう、どうしようと動けなくなっているうちに、木目調の扉が開いて存在を確かめたかった彼女が出てきた。


「あれ、巡?」


 彼女は僕を見つけた瞬間、ぱっと顔を輝かせた。

 入道雲が浮かぶ夏空と同じくらい、爽やかで、きらきらとした表情。

 急いで鍵を閉めると僕の元へ駆け寄ってきた。なんだか、さっきすれ違った元気な柴犬を思い出す。


「おはよう!」

「おはよう」

 

 生きている。

 彼女が僕の前にいる。

 こうして隣を歩くことができている。


「……巡、いつもより元気ない?」


 今日はテスト返しだねという話、昨日の夜ご飯の話、コンビニの新作のアイスの話……。なんでもないことでも楽しそうに話していた彼女が、いつもより喋らない僕を心配して尋ねてきた。


「あー、えっと……」


 悪い夢を見た後、その内容を誰かに話すと実現しなくなる。

 こんな話を聞いたことがある。


 でも、「あなたが死んだ夢を見たよ」なんて言われたら嫌な気持ちになるよな。


 そう思った僕は、「テスト返しが心配なんだよね」と誤魔化すことにした。

 それに対し、「巡なら大丈夫だよ」と笑って言ってくれる桃花。


 大丈夫。

 夢を言葉にして吐き出さなくたって、実現しないんだから。

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