夢、うつつ
第一話 夢か、
テンテケテントン テンテケテントン
「——…………ッは」
軽やかなリズムの電子音が、僕の意識を引き上げる。
体はまだ夢の海に沈んだまま、水面から顔を出して大きく息を吸った。体が重い。どれくらい深くまで潜っていたのだろう。
このまま浮遊していたら、また瞼が閉じてしまいそうだ。早く、陸に上がらなければ。
また夢に引き摺り込まれないように僕は身を起こし、ベッドから降りた。
スマートフォンをタップして目覚まし時計を消し、寝巻きにしている中学生の頃のジャージのポケットにしまって部屋を出た。
家には僕以外誰もいない。シーンとしている、とはまさにこのことかというくらい静かだ。ひた、ひた、と素足でフローリングを踏む、どこか湿った音だけがついて回る。
僕はまず洗面所で顔を洗った。蛇口を捻って水を出し、手で受ける。すごく冷たい、というわけではないけれど、夢の不気味さを洗い流すには丁度良い。
ふう、と息を吐いて顔を上げると鏡に自分の顔が映る。父親か、母親か。それとも隔世遺伝的に祖父母か。誰に似ているのかわからない顔立ち。
……そういえば、夢に出てきた佐久桃花も未だに誰似なのかわからないな。幼馴染だから、最低でも10年は関わりがあるはずなのに。
佐久桃花。
佐久。
桃花。
夢の内容は起きてから5分経ったら忘れてしまう。そんな話を聞いたことがあるけれど、僕はさっきまで見ていた内容をはっきりと覚えていた。
夏休みの前日に彼女が、自殺してしまう夢。
場面は夏休み前々日、テスト返しから始まる。それがまたリアルで、夢と現実の境がわからなくなりそうだ。
だけど、ひとつだけ現実とは違う部分があった。
僕は佐久桃花のことを下の名前で呼ばない。幼馴染ではあるが、それはただ単に保育園からずっと同じなだけだし、別に家同士の関わりがあるわけではない。夢のように、放課後に勉強を教えてもらったり、誕生日を祝ってお菓子パーティーを企画するほど仲は良くなかった。
なんなんだろうなあ、と頭を掻きながらキッチンに移動して冷蔵庫を開けた。昨日の夕飯の残りの白米、そして卵を取り出す。ラップがかけられたお茶碗をそのまま電子レンジに入れ、ボタンを操作して温める。終了を知らせる音が鳴ったら扉を開けてほかほかになったご飯を取り出し、箸で窪みを作ってそこに卵を割って落とした。
卵かけご飯と箸、醤油をテーブルに運ぶ。椅子に腰掛け、手を合わせてから卵かけご飯に醤油を垂らしてかき混ぜた。
ぷつっ。
ぐーるぐる、ぐるぐる。
白、オレンジがかった黄色、濃い茶色が混ざり合っていく様子を見ながら、僕はまた頭の中で今朝まで見ていた夢を再生していた。
夢は自らの願望を映し出す、とも言うらしい。
じゃあ僕は佐久と仲良くなりたいと思っているのか?
いや、例えそうだとしたら最後に彼女が自殺する意味は?
あれ、願望が反映される夢って、好きな人が出てくる場合だったっけ?
考えれば考えるほど、思考が絡まっていく気がする。たかが夢だ。そうだ、深い意味なんてない。
僕はそう自分の中で完結させて、空になった食器を流しに運んだ。時刻は7時26分。そろそろ着替えて学校に向かわなければ。
歯を磨き終えたら自分の部屋に移動し、クローゼットを開けた。
半袖のワイシャツに袖を通し、ボタンを留めていく。息苦しくないように1番上だけ開けておく。
スラックスを履きベルトを締め、靴下を履いたら準備完了。鞄を持って家を出る。
いつもの通学路を歩いていると、途中で「佐久」と表札が掲げられた一軒家が目に入った。ここが例の佐久桃花の家である。
相変わらず大きな家だなぁ、なんてぼーっと考えながらのろのろと歩いていると、そこの木目調の扉が開いて佐久が出てきた。
あ、と思ったが、バッチリ目が合ってしまう。先に逸らしたのは彼女の方だった。一見すると気の強そうな大きな吊り目を伏せ、扉の鍵を閉める動作をする。
ここで無視するのもな、と思ってした僕の会釈は、彼女には見向きもされなかった。
佐久はスタスタと早足で僕を追い越し、数歩前を歩いていく。学校まで特に回り道などもない。また僕が彼女を追い越すのも気まずい。あと15分はこの微妙な距離を保って歩かなければならない。
……気まずい。
幼馴染って、こんなに気まずいものだっただろうか。軽く「おはよう」くらいの挨拶もさせてくれないものか。
そもそも、どうして僕と彼女は一切会話をしなくなったんだったか。
保育園の頃は、誰彼構わず一緒に遊んでいた。そこに佐久の姿もあった、気がする。当時は「桃花ちゃん」「巡くん」と呼び合っていた。
小学校では、どうだっただろう。この辺りの地域はそこまで子どもが多くないから、クラスは多くても3つくらいしかなかった。だから保育園と同じような感じでクラス関係なしに色々な人と遊んでいた。その頃もまだ関わりはあったが、高学年に上がった頃から「玉置くん」と呼ばれるようになったと思う。それに合わせて僕も「佐久」と呼び方を変えた。
中学校からだったろうか、全然話さなくなったのは。話したとしても必要最低限。それで高校は挨拶すらしなくなった、と。
——仲良くなりたい願望、ねえ……。
僕は歩くたびに規則正しく揺れる佐久の後ろ髪を眺めながら、また頭の中で夢を再生していた。
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