いいんだよ。

「好きです」


 正直な言葉。

 心臓は暴れているけれど、心地よい苦しさだった。


 十八歳のあの夜からずっと、どうして柳生くんだから連絡をしたくなるのか、考えていた。

 考えている間に、また電話をしたり、柳生くんや木津くんと勉強をしたり、受験があったり、東京の物件を探したり……いろんなことがあった。

 無事三人共進路が決まった状態で迎えた、卒業式。

 柳生くんへの想いは、気づけば淡い恋心に変化していた。

 それを自覚した私は、言わないでいるよりは、と告白することを選んだのだ。


 柳生くんは、どこか悲しげな笑みを浮かべた。

 その表情だけでもう、なにも言わなくても答えなんてわかってしまう。


「僕たちはさ、友達であって、それ以上でも、以下でもない。できればそういう関係を、今後も続けていきたいかな」


 田所さんさえよければ、だけど。

 そう、柳生くんは言った。

 ずるい。

 拒否権なんて、あるはずがないのだから。

 私はただうなずいた。

 こうして私たちの関係は、友達のままになった。



 卒業してからも、まだ地元にいた頃はよく二人に会っていた。

 上京してからは、木津くんとはメール、柳生くんとは電話のやりとりをよくしている。

 よく、とは言っても、お互い生活がある。

 最初の頃こそ毎日のようにしていたコミュニケーションは、梅雨に入る頃には週に一回、あるかないかくらいになっていた。

 それでも、他の子たちと比べたらかなりの頻度ではあったのだけれど。


 案外、大学生活にはすぐ慣れた。

 バイトも、まあ、なんとかなっている。


 一人暮らしを始めたことで、一人でいる時間が急激に増えた。

 それ自体は特に、良くも悪くもないことだ。


 バイトから帰ってきて、課題を終え、することがなくなれば本を読んだ。

 すごく集中できているときは大丈夫だった。

 だけと、バイトで大きな失敗をしてしまったときや、大学での友人との間で些細なトラブルがあったときなんかは、本に集中することができず、そればかりが頭の中を占領してしまう。


 自分なりになんとかストレス解消法を見つけようと、色々試した。

 お散歩、軽い運動、湯船につかる、アロマを焚いてみる、瞑想……。

 合わないと感じるものもあれば、これだ、と思うものもあった。

 それでも、効き目の限度はあって。

 十のストレスが加えられたとして、八のストレスが解消されても、二のストレスはそのままで、それを何度も繰り返していれば、溜まっていくわけだ。

 塵も積もればなんとやら。

 それでも、二か月耐えた。

 耐えて、耐えて……決壊した。


 ミスを連続してしまい、職場で注意を受けた。

 普段だったら、反省をしたあと、気持ちを切り替えられただろうに、ずっとそのミスが頭の中にこびりついて消えてくれず、それだけでなく、そこから連鎖するように昔のミスや、職場以外での失敗を思い出してしまう。

 そうなってしまうと、もう駄目だった。

 物を詰められるだけ詰めたパンパンの袋の下部に穴をあけたような、そんな状態。

 次から次へとあふれ出て、それに従って穴もどんどん広がっていく。

 それは、家に帰ってからも止まることはなく、次第に悪化していった。


 もう嫌だ、こんなになにもできない役立たずなんて、いっそ死んでしまえばいいのに。


 心の奥にいる感情が、囁く。


 これは、まずいかもしれない。

 そう思って、私はその場でうずくまる。

 頭がかき回されるような感覚。

 実際はそんなことないのに、視界が揺れているような気がした。

 

 死にたい。

 消えてしまいたい。


 その二つの言葉が脳内を埋め尽くしていく。

 嵐だ。

 しかも、とびっきり大きい。

 真っ暗闇の中、吹き荒れる感情に流されてしまわないように、すがるように必死に自分を抱きしめて地面に伏せる。

 そうしていないと、今にも死んでしまいそうだった。

 死ぬための行動を、してしまいそうだった。 


 もう大学生なのに。

 あと数年で二十歳なのに。

 世間一般的な大人の年齢になるのに。

 どうしてこんなにも、うまく生きていけないのだろう。


 うんざりとした感情が、嵐をより強くしていく。


 いつまでこれが続くのだろう。

 いつまで私は、この感情を抱え続けるのだろう。


 終わりが、見えなかった。

 今のこの衝動が終わっても、また感情に襲われるのだろう。

 私はあと何回それを耐えればいいのだろう。

 十回?

 二十回?

 それとも百回?

 それで足りるのだろうか。

 私はあと何年生きるんだろう。

 きっと、長く生きれば生きるだけ、回数は積みあがっていく。

 それこそ、途方もないくらいに。


 苦しい。

 死にたいと思いながら、生きていることが。

 死にたいと思ってしまうことが。

 死にたいけれど、それだけの感情でないことが。

 生きたい理由だって、今はあって、楽しみな未来だってある。

 それを、すさまじい勢いで飲み込もうとしてくる。

 高い高い波。

 強い強い暴風。

 いくら見上げても顔が見えないくらいの巨人。

 例えるのならそういう、とてもじゃないがなにも持たない私には太刀打ちできないもの。

 必死に身を潜めて、耐えて、はやくどこかへ行ってくれますようにと祈り続けるもの。

 強い、弱いはあれど、死にたい、という感情は、いつだってそういうものだった。


 嵐が去っていく。

 凪が訪れる。

 ようやくだった。

 だけどそれだって、いつまた感情に襲われるかわからない、かりそめのようなものだった。


 もう、終わらせてしまいたい。


 いつも胸の奥にいる感情とは違う、本音だった。

 何度も何度も感情の波に曝されて、いつそれが終わるのかもわからないことに、疲れ果てていた。


 手を伸ばせば、硬い感触に触れる。

 スマホだ。

 持ち上げて、操作する。


 柳生くんの声が聞きたかった。


「もしもし、どうしたの?」


 数コールで聞こえてきた声に、ほっと息を吐く。


「疲れちゃって」


 なにを話そうか。

 そう考えている間もなく、口が動いた。

 今通話してはいけなかったかもしれない。

 そう思いながらも、通話を切ることができなかった。


「疲れちゃったの?」

「うん」

「なにかあった?」

「……あと何回、死にたいって思うんだろうって」


 柳生くんの声は、優しくて、太陽の香りをいっぱい蓄えたタオルみたいに、温かだった。

 安心してしまう声なのだ。


「生きたくないわけじゃないの。でも、何度も何度も死にたいって思ってしまう。どうしたらいいのかな。もう、死にたいって思いたくないのに」

「どうしたら、か。一番いいのはきっと、そういう専門家がいるところに行くことだけどね」

「病院、とか?」

「あとは、カウンセリングを受けてみるとか」


 調べたことはある。

 ただ、調べていけばいくほど、病院との相性というものがあることがわかってきて。

 相性のいい病院に当たるまでいろんなところに通うしかないけれど、大学生にそんなお金はない。

 親には絶対に言えなかった。

 心配をかけたくないし、自分の娘が死にたい、なんて言ったらきっと傷ついてしまうだろうから。


「難しいや」

「うん、僕も言いながらそう思ってた」


 小さく笑う声は、静かに寄り添ってくれるようなそれで、私も少しだけ笑ってしまう。

 その声は、かすれた息みたいで、今の私には体力があまり残っていないのだと自覚した。


「だいぶお疲れみたいだね」


 どうやら柳生くんにもすぐにわかってしまうレベルだったようだ。


「みたい。ごめんね、こういうこと言われても困るよね」

「大丈夫。吐き出したくなったらいつでも言ってって言ったのは僕だし」

「ありがとう」

「いえいえ。死にたいって思うことに疲れちゃったんだよね」

「……環境にも恵まれていて、たぶん、他の人から見たらそう思う要素はないはずってこともわかっているんだけどね」


 わかっているからこそ、苦しかった。

 そんな環境にいる自分が、死にたいと思ってしまうことが。

 申し訳なくて、苦しかった。


「ありきたりな言葉ではあるけど、なにかしらのことに対して他人が持つ感情なんて、人の数だけ種類があるからさ。一つの感情しか抱いちゃいけないなら、感情なんてそもそも必要ないと思うし」

「極論だね」

「極論だよ。でも、そうでしょ。生きている状態で、死にたいって感情を抱くことが間違いなら、そんなバグを作ったまま放置している神様が悪い」

「暴論?」

「だね」


 笑い声が、スマホ越しに重なる。

 茶化しているわけではない。

 でも、意味もなく重い雰囲気にしたいわけでもない。

 そんな柳生くんの気持ちを感じるから、笑うことができたのかもしれない。


「まあ、バグであってもなくてもさ」

「うん?」

「死にたいって気持ちを抱いたまま生きてても、僕はいいと思うよ。他の誰かが、そんなの駄目だって言っても、僕はいいと思う」


 まっすぐな声。

 気づかうための言葉ではなく、本心からの言葉だとわかるものだった。


「……いいのかな」

「いいよ。生きたいって少しでも思ってくれているのなら、僕はそれでいいと思う。ただ、真逆の気持ちを抱えることになるから、苦しいと思うけれど」


 じんわりと、言われた言葉が広がっていく。


「……そっか、いいんだ」

「当然でしょ。だから、生きててよ。十年先、二十年先、なんなら百年先もさ」

「そこまで長く生きてるかな」

「生きるんだって。疲れちゃったら、僕や木津がいるし、いつでも疲れたーって言いに来てくれていいし」

「ずっと甘えることにならない?」

「いいよ。代わりに、僕らが疲れたときは、田所さんにも言いに行くから、覚悟してて」


 思わず小さく笑ってしまう。

 聞こえたみたいで、笑わないの、とスマホから声が飛んできた。


「頑張るよ」

「無理はしないでよって言うと、なんか途中で力尽きていいよ、みたいになるな。そうじゃなくて」

「休み休み?」

「そうそう。……あ、そうだ。ならさ、三人が三十歳になったら、皆でお祝いしよう」

「お祝い?」

「ここまでお疲れさまでしたーって」

「三十歳になったら、なんだ?」

「そ。二十歳はたぶん成人式で会えるだろうし、社会人になったら毎年お祝いするのは忙しくて無理でしょ」

「確かに」


 今でさえ大変なのだ。

 大学を卒業して働くようになったら、きっともっと大変になるだろうし、忙しくもなるだろう。


「木津くんがいないところで決めちゃっていいのかな」

「僕が説得するし、そもそも嫌とは言わないと思うよ」


 だから、約束だよ。


 そんな会話をした。


 その数か月後のことだった。

 

 柳生くんが、事故にあったと聞いたのは。

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