望まない嘘。
「ちょっと今日、木津のところ行ってくる」
そう言って、柳生くんは出かけて行った。
一人で散歩をして、コーヒー片手にクロワッサンを食べながら、今日はどう過ごそうかな、と考えていたときだった。
大家さんから電話がきたのは。
「ごめんなさいね、突然。たまたまそこまで来る予定があったものだから」
人好きのする笑みを浮かべながら、大家さんは我が家にあがる。
出来れば私の家で話したいことがあるのだそうだ。
最近はどう?
風邪はひいてない? 大丈夫?
なんて会話から始まって、私のお母さんの話、最近あった大家さんの笑い話、これがおすすめ、あれは体にいい、なんて話をサラサラと大家さんはしていく。
話し方が上手で、どれだけ聞いていても聞き飽きないどころか、もっと話を聞きたいと思ってしまうところが、大家さんの凄いところだ。
気を使うことなく、自然と聞き入ってしまう。
十七時を知らせるチャイムがなったとき、二人して驚いてしまったくらいだ。
「あらいっけない。こんな長居するつもりなかったのに。ごめんなさい、気を使わせちゃったでしょう。予定とか、大丈夫かしら」
「いえいえ、今日は予定、なにもなかったので。逆に、お話たくさん聞けて、楽しかったです」
そう返せば、大家さんは嬉しそうに目尻を下げて笑った。
「ありがとう。本当はもっとずっと楽しいお話をしていたいのだけど。そろそろお暇しないとだから、その前に、大事な話をするわね」
言って、大家さんはぐるりと部屋を見回す。
「一緒に住んでる彼……柳生さん、だったかしら? ご在宅ではないのね」
「今日は、友人の家に行っているようです。もう少ししたら帰ってくるかと思うんですけど」
「あら。じゃあ、それまでにこのお話は終わらせましょう」
大家さんは立ち上がると、柳生くんの部屋をたずねてくる。
こちらです、とドアをさせば、大家さんは躊躇なくドアノブに手をかけた。
思わず慌ててその手を止める。
「すみません、流石にそこは、他人の部屋なので開けるのはちょっと……」
「……私の考えが正しければ、あなたが心配するようなことはないわ」
大家さんは、私を見ると、安心させるように微笑んだ。
でも、その目は笑っていない。
こんな表情をする大家さんを、初めて見た。
「心配って例えば」
「プライバシーの侵害、とかそれに近い類ね」
「いやでも、駄目ですって他人の部屋なので――」
必死で止めるも、大家さんの力のほうが強くて。
えいっと開けられてしまえば、空っぽの部屋の中が見えた。
そう、本当に、空っぽだった。
私が彼に部屋を貸すために入った、そのときのまま、ほこりだけがうっすらと積もっている。
ただひとつ違う点をあげるとすれば、机の上にポツン、と私があげたコーヒーのアソートセットだけが寂し気にいるだけ。
多少は出るであろう、誰かがそこで暮らしている空気、というものは、欠片もなかった。
「……本当は、あなたのお母さんから、言わないでほしいって言われていたのだけど」
胸が騒ぐ。
聞きたくないと体の奥底から心が叫んでいるのに、私の腕は上がらず、ただただ立ち尽くしている。
空白の行方不明期間。
頑なに私の前で物を食べない。
別れを受け入れている瞳。
そして、写真に写りたがらない。
薄々気づいてはいたんだ、本当は。
第一、あの柳生くんが、私や木津くんに行先も告げず、行方不明になるはずがない。
ずっと、優しい嘘に包まれていた。
だけどその現実は、到底受け入れられるはずがない。
「柳生さんは、大学一年生の夏に、交通事故で亡くなっているのよ」
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