1.出会いは空の下

 それは、ある意味運命の瞬間だったのかもしれない。


 よく晴れた、そう、本当によく晴れた日の放課後。

 校庭には、まだ四月だというのにほとんど花を散らしてしまった桜の木。

 そのうしろ。

 高く青い空に、小さな飛行機が一本の白線を引いて飛んでいく。

 靴を履くのに手間取っている柳生を待ちながら、俺は見るともなしにそれを見上げていた。


「お待たせ……あっ」

「あ?」

「やば、ノート忘れた」


 言いつつ、柳生はやっと履き終えた靴を脱ぎ始める。


「そんなの、置いてきゃいいだろ」

「課題用のノート」

「明日学校来てからやれば?」

「そしたら木津は、誰のノート写すの?」


 靴を片手に、柳生は笑う。

 いたずらっ子のような表情に、わざと舌打ちを返せば、柳生はケラケラと笑って来た道を戻っていく。

 一つ息を吐いて、脱いだ靴を乱暴に下駄箱へ突っ込む。

 そして上履きをつっかけて、ヤツの背中を追った。


 各部活動の音が響く廊下を進む。

 どうやらまだ日直が中にいるらしく、教室のドアは開いたままになっていた。

 そこから中を覗き込んで、俺は固まる。


 ドアのちょうど対角線上。

 ベランダに通じるドアが開いて、カーテンがはためいている。


 そしてその奥。


 ベランダの柵に体を預けていた女子が、不自然に傾く。


 上履きを履いた足が、徐々に、浮いて――。


「……っ!」


 隣を、風が横切った。

 柳生が勢いよく駆け出したのだ。

 投げ出された鞄が、廊下にぶつかる。

 その鈍い音で我に返った俺も、慌てて走り出した。


 足音に気づいた女子がこちらを振り返る。

 その拍子にバランスを崩したのか、細い体が更に傾いた。

 丸い瞳を大きく見開いたその顔は、よく知っていた。

 一連の動作から想像される行為とはかけ離れたその人物に、驚いた俺は足を止めてしまう。


 落ちる。


 こわばった表情と目が合い、俺が落ちるわけではないのに心臓が暴れ出し、息が乱れ、そのくせに足は動いてくれない。


 肩が柵の向こう側に行く、その直前。


 柳生の手が、彼女の腕を掴んだ。

 落下が、止まる。


「木津……っ!」


 呼ばれてやっと、俺の足は役割を思い出したようで。

 床を蹴って、ベランダに辿り着く。

 柳生が掴んでいるのとは逆の腕を掴み、二人で踏ん張ってやっと、彼女の体をベランダの内側に引き込めた。


「ご、ごめんなさい……」


 足に力が入らないのだろう。

 ぺたりとその場にへたりこんだ彼女は、体を震わせながらも俺と柳生を見たあと、頭を下げた。


「間に合ってよかった」


 同じくその場に座り込んでしまった柳生が、へにゃりと笑う。


 死のうとしたのか。


 喉元まで出かけた言葉を、なんとか飲み込む。


「どうして、ベランダにいたんだ」

「……空、綺麗で。近くで見たいな、と思って」


 彼女は眉を八の字に寄せて、困ったように笑う。


「確かに、今日の空はなんだか、飛べそうな感じの空だよね。突き抜ける、みたいな」


 柳生は言いながら、呑気に空を見上げる。

 彼女は迷うように、えっと、と声を漏らしてから、控えめにうなずいた。


「飛ぼうとしたのか」

「まさか。空を見上げてたら、頭クラッとしちゃって……本当に、ごめんなさい。二人が来てくれてよかった」


 戸締まりしなくちゃ。


 そう言って立ち上がろうとした彼女は、けれどまだ手足に力が入らないようだ。

 仕方なく右手を差し出すが、彼女はキョトンとした表情で俺の手を見つめてくる。


「手」

「手?」

「貸す」

「あ……ありがとう」


 遠慮しているのか、そっと小さな手が俺の手のひらに乗る。

 男とは違う柔らかくて小さな手に一瞬驚いたが、すぐにその手を握って勢いよく引き上げた。

 そこから彼女は手を伸ばして開いたままの窓のさんを掴み、それを伝って器用に開いたドアから教室に入った。

 空になった手を、思わず見てしまう。


 住む世界が違うと、ずっと思っていた。

 いつも男女問わず色んな人の輪の中にいる彼女。

 対する俺は、いわゆる人相の悪い面をしているからか、そういった輪とは関わることがなかった。

 柳生はまた違うのかもしれないが、それでも今はずっと教室の隅で本を読んでいるか、俺といるかだ。


 教室の光と影。


 別にいじめがあるわけでも、嫌がらせをされているわけでもない。

 ただ、なるようになった。

 それだけだ。


 いつも笑顔を絶やさない彼女が。

 いつだって楽しそうに笑っている彼女が。

 自殺を試みるだなんて、そんなわけがない。

 だからきっと、本当に空を見上げていただけなのだろう。


「木津、木津」


 男子にしては高めなくせに、どこか落ち着いている声が俺を現実に引き戻す。

 視線をそちらへ投げれば、へらへらした笑顔で柳生が手を伸ばしていた。


「僕にも手、貸して」

「……」

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