第2話「高名な依頼人」第5部

 不老ふろう翔太郎しょうたろうの、いつもながらの演説口調に、まるるんさんはびっくりした様子だった。助けを求めるように、奥の真琴まことさんへと視線を向けたけれど、不老真琴さんはというと、にやりとした笑みを返しただけだった。その笑みは、不老翔太郎にそっくりだった。さすが、きょうだいだ。血は争えない。

「ハラさんたち三人だけの会話を耳に挟んだりしませんでしたか? どんな些細な一言でも構いません」

「そうねえ……」

 まるるんさんは人差し指を眉間に当てて、首を傾げた。絵になる人だ。

「ほんとに他愛のない話ばっかり。三人のなかでも、とくにユウジさんがわたしの動画を結構見ていてくれていて『あの回が面白かった』とかあ『あの料理を実際に作って食べてみた』なんて言ってくれて、とてもうれしかったな。あとは、食べ物の話ばかりしてた気がする」

「ほかに何か思い出せませんか? もう一度、さきほどの動画を見て、考えてください」

「もう何十回も見たんだけどなぁ……」

 そう言いながら、まるるんさんはノートパソコンで同じ映像を再生し始めた。

 とある場面でまるるんさんが小さく「はっ」と息を漏らすのが聞こえた。

「ストップ!」

 その瞬間、鋭く不老が声を放つ。まるるんさんは動画を停止させた。ちょうど畳の上に置かれたバックパックの映像で一時停止されていた。

「今、何かに気づきましたね?」

 まるるんさんは、ちょっとためらいがちに口を開いた。

「気づいたっていうか……ほんとうにつまらないことを思い出したんだけど……ハラさんたちのバックパックがなんだか重そうだった」

 不老翔太郎の両眼が鋭く光った。

「不思議ね。なんだかちょっとずつちょっとずつ小さいことが、頭の奥からよみがえってくる気がする」

 まるるんさんの表情が少しずつ晴れていく。

「続けてください」

「ハラさんたちって、三人とも旅慣れているみたいで、荷物は小さくまとまっていた。けれど、三人が背負っていたバックパックが、大きさの割に重そうだったのよね。何か重いものが入っていたみたいだった」

「その中身は見ていないんですね」

「ええ、見ていない。悔しいなぁ」

 まるるんさんが残念そうに唇をゆがめた。

「ほかに何か甦ってきた記憶はありますか?」

「そうねえ……何か引っかかったのよね。けれど、それがわからない。何か小さいことが、ごくごく小さな何かが、トゲみたいな記憶のカケラが、わたしの心のどこかに一瞬だけ引っかかったの」

 まるるんさんの言葉に、不老はうれしそうな笑顔を見せた。

「あの……思いついたんだけど……」

 小さな声を出したのは、本郷ほんごうあずさだった。

「何、梓ちゃん? わたしの記憶が蘇る方法、見つけてくれたの?」

「うまくいくかわからないんですけど……あの日、まるるんさんが山小屋まで行くまでの道筋をもう一度たどって再現してみたら、何かイメージが浮かぶんじゃないかなって……」

 本郷梓の声は尻すぼみになった。けれど、その隣のキム銀河ウナがぱっと顔を明るく輝かせた。

「梓、ナイス・アイディア! まるるんさん、ネットでまるるんさんが小屋まで行く道筋を見れますよね」

「そっか! ヴァーチャルに道中を再現できるわね。さすが梓ちゃんに銀河ちゃん、二人とも名探偵!」

 まるるんさんが、笑顔の前で親指を立てて見せた。本郷梓も金銀河も、誇らしそうに顔を見あわせている。

 まるるんさんがノートパソコンを操作すると、航空写真がディスプレイに表示された。トラックパッドの上をまるるさんの細い指が走り、緑で覆われた航空写真がぐーっとズームアップする。画面の中央に、灰色の四角い構造物が拡大された。山小屋の屋根だった。画像の右下に表示されたデータによると、一昨年の九月に撮影された写真のようだった。ちょうど今と同じ季節だ。

 山小屋は、東西に蛇行して流れる川の南側に拓けた平地に建っているのがわかる。その脇の川沿いには白い岩が露出した平らな川原がある。川の北側の対岸は低い崖になっており、さらにその向こうに広がる山肌を、濃緑色の森がゆるやかに覆っている。

 山小屋の南側には、川と平行に道が延びていた。町道のようだ。まるるんさんは、この道路を東から車に同乗して山小屋にやって来たとのことだ。

「ストリート・ビューで駅から山小屋までの道を再現してみるわね」

 まるるんさんがノートパソコンを操作する。

 ローカル線の駅舎は、木造の三角屋根を頭にかぶった可愛らしい建物だった。確かにこれは、映像的に映える。

「駅の前の道を右に……えーっと、地図で方向を読むのって苦手なのよね」

 ノートパソコンのディスプレイ上では、まるるんさんが歩いたルートを少しずつ画面上で、片側一車線の市道を西へと進んだ。

 不老翔太郎は、微動だにせずにパソコンのディスプレイを凝視している。もうこの場に不老の心はないかのようだった。

 画面の中、西へ進むと、道路の左右に一気に緑が増え始めた。左側、つまり南側に盛り上がるように雑木林が広がり始めた。山深くへと進んでいるのがわかる。

「こうやってみんなと見てると、まるで宝探しの探検にでも行くみたいね」

 まるるんさんが独りごちた。

「まさにこのルートを進む車内でどんな話をしていたのか、甦ってきた記憶はありませんか?」

 不老が問うと、まるるんさんははっと顔を上げた。

「そういえば……バカバカしくてどうでもいい話だけど……」

「どんなことでも、決してバカバカしくありません」

「さっき『食べ物の話ばかりしてた』って言ったよね。『食べ物』って、果物の話だったのを、今思い出したわ」

「果物? 具体的には?」

 不老が身を乗り出す。

「それが……悔しいな、思い出せない。そのとき『最近、食べてないな』って考えたんだっけ。こんなこと、ほんとうに役に立つ?」

「もちろんですよ」

 不老がうなずく。すると口を開いたのは金銀河だった。

「まるるんさん、自動車のなかで撮影はしていなかったんですか?」

 まるるんさんはうなずいた。

「そう、三人は顔出しNGだったから、撮れなかった……あ、ちょっと待って」

 不意にまるるんさんが何かに気づいたかのように、ポケットを探った。

「スマホで何枚か車窓からの風景は撮ったっけ。すっかり忘れてた!」

 まるるんさんはスマートフォンの画面をぼくたちに向けた。ぼくたちはいっせいに覗き込む。

 一枚目は、助手席側から撮影されたフロント・ウィンドウ越しの風景だった。右手に青々とした田んぼ、左手にはこんもりとした雑木林が見える。

「ハラさんたち三人が写り込まないように気をつけて撮ったから、三人の姿の写真はないわよ」

 まるるんさんが車内で撮影したのは、合計八枚の写真だけだった。五枚はフロント・ウィンドウから見えた風景、あとの三枚は助手席側のサイド・ウィンドウから撮影された外の風景だった。

「ごめんね。全然役に立たなかったわね」

 まるるんさんは肩をすくめた。

 が、不老翔太郎はにっこりと笑みを浮かべた。

「そんなことはありません。どんな細部にも手がかりは隠れています。例えば一枚目と二枚目の写真を見せてください」

 まるるんさんは怪訝そうな表情で、スマートフォンの画面に、フロント・ウィンドウからの眺めを写した写真を表示した。

「そっか。この写真を撮った場所はわかるわね。ほら」

 まるるんさんはパソコンを操作した。ディスプレイのストリート・ビューに映し出されているのは、スマートフォンで撮影された写真とほとんど同じ画角だった。

「いいえ、写真からわかるのは場所じゃありません。まるるさんが乗せてもらった車です。車体のボンネットの色は赤、そして画面の隅にはダッシュボードの端が写っています。車種は――」

 不老の言葉をぼくはさえぎった。邪魔されないように、一気にぼくは言った。

「GランダーのVクラス。ぼくたちがキヨさんの運転でここまで乗ってきた車のワンランク小型版だね。カラーは『赤』じゃなくて『シャイニング・メタリック・パールレッド』」

 ぼくは得意げに顔を上げた。不老翔太郎の顔を見やる。不老は大きく右の眉を上げた。

「素晴らしいよ、御器所君! きみもたまには見事なひらめきを見せてくれるじゃないか!」

 不老が声を上げる。一言余計だけれど、悪い気分じゃない。

 ぼく自身は車の色の名前に興味はなかったけれど、何度もノリ兄ちゃん――うちの〈御器所組〉若い衆の一人で、まだ免許を取れる年齢でもない――からSUVのカタログを見せられて、詳しすぎる解説を聞かされたことがあった。だから、長々しい車の色の名前をいくつも覚えてしまった。

「ほんとに! わたし、自動車に全然詳しくないから『赤い車』としか覚えてなかった。ありがとう!」

 まるるんさんの言葉に、ますますいい気分になった。

「この『シャイニング・メタリック・パールレッド』が採用されたGランダーは、去年の秋に発売された新しいモデルなんだ。車種が限定されるから、持ち主はさらに限られてくるはずだよ」

「やるじゃん、御器所君!」

 金銀河が言い、拳で軽くぼくの肩を叩いた。一気に恥ずかしくなってしまう。顔から汗が吹き出した。ごまかすために、紅茶をぐいと飲み干す。紅茶も熱くて、さらに汗が出た。

「わたしの写真に、もっと手がかりが隠れてたりするのかな?」

 まるるんさんがぼくたちを見回した。しばしの沈黙のあと、本郷梓が控えめに口を開いた。

「あの……五枚目の写真なんですけど……もう一度見せてもらえますか?」

 すかさずまるるんさんがスマートフォンの画面に写真を表示させた。それは、助手席のサイド・ウィンドウからの風景だった。緑色にこんもりと生い茂る雑木林が画面の八割を占めている。画面左端には雑木林の間を縫うように、山の奥へとつながるだろう林道らしき土の色が見えた。

「この場所も特定できるわよ!」

 まるるんさんが勢い込んで、ノートパソコンを操作し始めた。が、本郷梓は懸命に首を振った。

「違うんです。ほら、画面の右側、よく見てください!」

「森しか見えないけど……」

 まるるんさんが首を傾げた。と同時に、不老が鋭い声を上げた。

「なるほど、僕の眼は節穴だったよ!」

「どういうこと?」

 ぼくは訊いたが、不老には無視された。

「その画面じゃ小さい。まるるんさん、パソコンで今の写真を拡大して見せてください!」


第6部につづく

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