第2話「高名な依頼人」第4部

 ぼくとキム銀河ウナ本郷ほんごうあずさはお互いにすがるように顔を見合わせた。

 不老ふろう翔太郎しょうたろうはというと何が面白いのか、唇の端を上げ、隙間から白い歯が見えている。

「もっとも、温かい食事云々……というのはあとから作られた話のようだがね」

 不老が冷静に言ったが、それでもゾッとした気分は消えなかった。

 まるるんさんによれば、山小屋オーナーの西さんは、その朝にハラさんたち三人から山小屋の鍵を返却してもらう予定だった。しかし西さんが訪れてみると、山小屋は施錠され、三人の姿も車もまったく見当たらなかった。そこで西さんは、テントで寝入っているまるるんさんに声をかけたのだった。

 寝ぼけ眼のまるるんさんと西さんは、合鍵で山小屋を開けた。室内は暗く、しんと静まり返っていた。屋内へと足を踏み入れた二人は、呆然とした。

 そこは、まったくのもぬけの殻だった。屋内には誰一人いない。それだけではない。奥の六畳と八畳の和室に、人が寝た形跡がなかった。寝具も使われた様子がない。キッチンでシチューやパエリアを作った痕跡すら、きれいに消えていた。

 さらに驚くことを、オーナーはまるるんさんに告げた。

「西さんは、土曜の朝に山小屋の鍵の受け渡しのときに会ったのが、ハラさんたちとの初対面だったって言うの」

「えっ? 知り合いだったんじゃないんですか?」

 金銀河が身を乗り出す。

「それが、違ったの。西さんは、てっきり三人がわたしの知り合いで一緒にネット配信をするメンバーだと思い込んでいたみたい」

 すると、不老がまるるんさんに顔を向けた。

「山小屋を利用したり、キャンプをするのは無料ではありませんよね。その料金は?」

 まるるんさんはうなずいた。

「西さんのご厚意で、わたしがキャンプする分には、とくにお金は要らなかったの。けれど山小屋の使用は、高くはないけれど、有料。ハラさんたちがネットで申し込んだのが月曜で、木曜には西さんの銀行の口座に振り込まれていたそうなの。だからハラさんたちは、料金を踏み倒そうとしたわけじゃなかった」

「あの、それじゃあ……」

 控えめに声を出したのは、本郷梓だ。

「実際にハラさんたち三人に急用があって、すぐに帰らければならなくなった可能性もありますよね」

「それはわたしも真っ先に考えた。けれど、その後もまったく連絡がつかないのはおかしいわよね。『先日は、急に帰ってしまってすみません』とか、事情をちゃんと説明するのがふつうでしょ」

「三人の連絡先を、西さんはご存知なんですよね?」

 金銀河の問いに、まるるんさんは困ったような表情になった。

「事件の前――いえ『事件』と呼んでいいのかな?――西さんは、ハラさんとは電話とメールで何度かやりとりをしたそう。電話は、いつもハラさん側からかかってきて、しかも番号は非通知だったそうなの。メールは、日曜以後まったく返信がない。とても不審じゃない?」

「小屋の鍵は返却されたんですか?」

 金銀河がさらに訊ねる。真剣な表情はまさに「探偵」そのものだな、とぼくは思った。

「うん、三日後、つまり水曜にはメール便で送られてきたそうよ。でも、鍵が入っていただけで、メッセージも何もなし。差出人の住所は架空のもので実在しなかった」

「とても不思議な出来事だけど……実際には犯罪が行われた形跡はないんですね? だとしたら、なぜ……?」

 金銀河が眉間に皺を寄せて、自分自身に問いかけるようにつぶやいた。きっと脳をフル回転させて、推理しているのだろう。ぼくも我が虹色の脳細胞を働かせようとしたけれど、一ミリもわからない。

 思わずぼくの口をついて言葉が出た。

「やっぱりその人たちが、礼儀知らずで常識のない人たちだったんじゃない? 『事件』とは違う気がするんだけど……」

「実につまらない!」

 ぼくの口から出た言葉は、不老翔太郎によってぶった斬るように遮られた。不老は、心底呆れ果てたように、首を振っている。

「きみの虹色の脳細胞なるものは、なんと凡庸な働きしかしないものか。失望を禁じえないよ」

「何でもかんでも事件に結びつけるのって、違うんじゃないの? たしかに奇妙かもしれないけれど、どこにも『被害者』がいないじゃん」

 ぼくが言うと、まるるんさんもやさしくうなずいた。

「そうね、わたしと西さんは不思議に思ってるけど、誰にも迷惑はかかってないかも。小屋の使用料もちゃんと支払われているし、きれいに清掃されていたし、わたし自身もキャンプで楽しい思いはできた。ネット配信用の動画素材も、それなりに撮影できた。確かに、御器所ごきそ君が言うとおりかもね」

 やさしい笑顔をまるるんさんから向けられて、ぼくの体中の血管が一気に拡張したみたいだった。冷房が効いた部屋のはずなのに、急激に全身が熱くなって、顔が真っ赤になったのが自分でもわかった。

「彼を甘やかさないでください。御器所君には、僕の伝記作家としての自覚がいまだに欠落しているんです」

 不老翔太郎が一気に冷や水をぶっかけてきた。ぼくは不老をにらみ返した。一度だって、ぼくが不老翔太郎という男の「伝記作家」になったと認めたことはない。

「ちょっと男子たち、真面目になりなさい!」

 金銀河は冷ややかにぼくと不老翔太郎をにらみつける。隣の本郷梓は、困った様子でぼくたちとまるるんさんを交互に見やっている。

「不老君、この前わたしたちのことを『探偵団』と呼んだよね。謎を解くのが探偵の役目じゃないの? まるるんさんの体験には被害者が今のところいないように見える。けれど、背後にはほんとうの事件が隠れてるかもしれないし、これから被害者が現れるかもしれない。その謎を解決するのがわたしたち『探偵団』の役目じゃないの?」

 金銀河の両眼には真剣な光が宿っていた。思いもかけない真剣な眼差しに、ぼくは虚を突かれてしまった。

 すると、本郷梓が口調で、控えめに口を開いた。

「『謎解き』って、人の不安を取り除くことだと、わたしは思う。探偵っていうのは、人を助ける役目じゃないのかな?」

 本郷梓の言葉は静かだったけれど、力がこもっていた。

「ほんと、梓の言うとおりだよ。無駄にしていい時間なんてないんだから」

 どういうわけか、金銀河の両眼の奥が少し悲しそうな光をたたえているように見えた。

 不老は、大きく息を吐いた。

「銀河さん、梓さん、謝るよ。僕たちは探偵だ。探偵らしく、謎に向き合わなければいけない」

 ぼくははっとして不老の顔を見返した。不老翔太郎の口から謝罪の言葉を聞いたのは、はじめてのことだった。

 不老は気を取り直すように、まるるんさんに顔を向けた。

「まるるんさん、三人の謎の人物が、きっと映像に映っているでしょう。見せていただけませんか」

 けれど、まるるんさんは表情を曇らせた。

「そう思ってわたしも撮影素材をすみからすみまで何度もチェックしたんだけど、全然映ってなかった。三人から撮影許可がもらえなかったから、あの日は気を使って撮影したのよ。だから、ハラたちの声さえも入ってなかった」

「一応、映像素材を拝見させてください」

 不老は食い下がる。

「いいけど、二時間近くあるわよ」

 まるるんさんはリュックからノートパソコンを取り出し、トラックパッドの上にほっそりとした指を走らせた。動画編集ソフトを立ち上げ、次々に早送りで動画を映し出した。

 空き地へと進んでいく手持ちカメラの映像。

 固定カメラで撮影された、まるるんさんが手際よくテントを設営する姿。

 雑木林を通り抜け、空き地から川原へと移動する主観映像。

 輝く木漏れ日。

 白くて滑らかな岩肌がむき出しの川原と、陽光を反射しながらゆったりと流れる透き通った水。

 川の中を泳ぐほっそりとした魚の影。

 対岸の森から、川面へ青々と枝を伸ばしている木々。

 テントに戻り、コンロに点火して食事の支度をし始めるまるるんさんの姿。

 素朴だけど、美味しそうなキャンプ料理。

 早送りで、三十分近くかかったが、まるるんさんが山小屋前の空き地に着いてからの様子が細かく撮影されている。ほんとうに緑豊かできれいな場所なんだな、と映像から伝わってくる。観ているだけで、涼やかな気分になった。

 けれど、まるるんさん以外の人の姿はまったく映っていなかった。

「約二時間の映像素材を編集して、ナレーションと字幕、音楽を入れて約十五分の動画にする予定だったの。今回は、ひょっとするとお蔵入りかな」

 まるるんさんはため息をついた。

「ほんとうにこれだけですか? 動画に使用する予定ではない、NG映像があるんじゃないですか?」

 不老翔太郎が冷静に言う。

 すると、まるるんさんはハッとした。

「そうそう! 忘れてた。ハラさんたちは映ってないけど、山小屋のなかでうっかりカメラのボタンが押されて撮れちゃった映像がほんの少しだけあったっけ」

 ディスプレイに映し出されたのは、手ブレのひどい和室の一角をとらえた動画だった。長さは十五秒ほど。部屋の片隅の畳の上に、三人のものと思われるリュックや筆記具などが整然と置かれているのが見える。

「止めてください」

 不老がするどく声を発した。まるるんさんが映像を一時停止する。

「一コマずつ見せてください」

 不老の指示に従い、まるるんさんはキーを操作し、映像をコマ送りで再生した。

 毛羽立った畳の上、壁際に三つのリュックが並んで置かれている。二つは赤、一つは黒と黄色のツートン・カラーだ。そのリュックのすぐ隣には緑色の手帳のような冊子と、ていねいに折りたたまれた紙、革製のペンケースと思しきもの、箱型をした方位磁針、そしてまた几帳面にたたまれたタオルなどが見て取れた。じつに整然としていて、ハラさんたち三人の性格がわかるようだった。

「身元の手がかりになりそうなもの、何か映ってる?」

 まるるんさんがため息まじりに言った。

 ぼくは不老のほうをちらりと見やった。けれど、不老は安楽椅子の上で両腕で膝を抱えてモニタを凝視し、微動だにしなかった。

「どう、ショウちゃん? 推理の糸口は見つかったのかしら?」

 それまで黙っていた真琴まことさんが、面白がるように口を開いた。

「まだデータがない。データがないのに理論づけるのは大きな過ちだよ」

 すると真琴さんは、ぼくたちに視線を向けた。

「わたしは、みんなの探偵としての実力を信じてるわよ。誰かさんみたいに、現場に這いつくばって虫眼鏡でカーペットをなめるように調べるだけが探偵じゃないでしょ?」

 真琴さんの笑みに向かって、不老翔太郎はぴくりと眉を動かした。

「安楽椅子探偵ですね!」

 本郷梓の口から、探偵小説用語が飛び出したのは意外だった。不老も興味深そうに視線を向けた。

「そうよ。今のみんなの手に入る手がかりを総動員して、できる限りの推理を組み立ててみたらどうかしら?」

 真琴さんの優しい言葉に、金銀河と本郷梓の顔が同時に、安堵したようにほころんだ。

 不老も、面白がるような表情になっていた。両手をごしごしとこすりあわせている。そしてまるるんさんに向き直った。

「ハラさんたち三人について、まるるんさんが覚えていることを教えて下さい。服装、外見、持ち物、喋り方、仕草、どんな些細なことでもいいんです。一見して無意味で些末に思えることにこそ、真実への鍵が隠されているものなのです」


第5部へつづく

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