第2話「高名な依頼人」第2部
広くて豪華な日本庭園を抜けて、朱色の壁が鮮やかな和洋折衷の三階建ての建物にぼくたちは通された。ここ〈紗禄奇庵〉には、夏休み前に一度だけ訪れた経験があった。そのときと同様、一階部分の広い洋間には、ふかふかの安楽椅子に腰かけた数名の女性がお茶を飲んだり、本を読んだりして、くつろいでいた。なかには、熟睡する赤ちゃんを抱っこしながら、うたたねしている人もいる。この館では、女の人たちが多くくつろいでいる。けれど、いまだにここが何のための館なのか、ぼくにはよくわからなかったけど。
はじめてここに来た本郷梓は、あたりを驚きの眼で見回していた。部屋の奥の立派な暖炉や、天井からさがる豪華なシャンデリアに、うっとりとした視線を向けている。
「素敵な場所……!」
本郷梓が思わず感嘆の声を漏らしそうになると、不老はすばやく振り返り、唇の前に人差し指を立てた。慌てて両手で口をおさえる本郷梓のしぐさが、とても可愛らしい。ぼくの胸の奥がきゅっとしめつけられるような気分になる。
ぼくたちが案内されたのは、三階の奥にある洋間だった。大きな明かり取りの窓から、陽光が差し込んでいる。少し波打っている古風なガラス窓の外側は、バルコニーになっているようだった。八畳程度の広さだが、この部屋にも立派な暖炉があった。部屋の中央に置かれたロー・テーブルの周りに安楽椅子が四つ置かれている。少し離れた窓際にはソファがあった。そこには、髪の長い、真っ白なワンピースを着た、びっくりするくらいにきれいな人が腰かけている。
不老真琴さんだった。
「ハジメ君、まさかショウちゃんを追いかけてここまで来ちゃうなんて思わなかったわ」
真琴さんにじっと正面から見つめられると、ついついぼくの顔は熱くなってしまう。
「あ、いやその、ぼくじゃなくて、えーと……」
真琴さんはにっこりと微笑んだ。真っ赤な唇がまぶしいくらいだ。
「そうか、銀河ちゃんなのね、ハジメ君以上にショウちゃんにご執心なのは」
「ち、違いますっ。ご、ご執心とかじゃなくて、事件の謎を解決しないといけないから、不老君が……」
いつになくうろたえて、金銀河が首をぶんぶんと左右に振る。
「ふふふ、銀河ちゃん、夏休み過ぎたら、すっかり大人っぽくなったわねえ。背も伸びたでしょ? わたしの推理では、銀河ちゃんが中学を卒業する頃には、身長は175センチ。モデル事務所からのスカウトが黙っていない美人さんになってるわね。ショウちゃんもそう推理するでしょ?」
金銀河が柄にもなく顔を真っ赤に火照らせていた。不老翔太郎はというと、右の眉をぴくりと上げただけだった。
「くだらない。推理とは呼べないね。あまりにも旧弊なルッキズムにとらわれた偏見だよ。古い価値観に染まりきった旧世代の『おっさんの発言』にほかならないね」
「あら、わたしが『おっさん』と言うの? 実に辛辣ね。けれど、ショウちゃんが眉毛を動かすのは、心理的に動揺したときだけじゃなくて? ハジメ君、そうでしょ?」
「は、はあ……確かにそう……かもしれない、です」
突然、話題を振られてあせってしまう。美人と話すことには慣れていないのだ。
不老翔太郎がぼくをぎろりとにらんだ。ぼくは苦笑いしてごまかすことしかできない。
「そちらの女の子は『はじめまして』ね。わたしは不老真琴です。いつも弟のショウちゃんがお世話になってます。よろしくね」
そう言って真琴さんは、本郷梓に手を差し伸べた。真琴さんのとてつもなく艶めいた微笑みを目の当たりにして、本郷梓の顔は真っ赤に染まっていた。
「あの……わ、わたし、ほ、ほ、ほん――」
本郷梓はすっかり狼狽して、両眼が今にも泣き出しそうなくらいに潤んでいる。
今日の女子たちは、二人ともどこかヘンだ。
「本郷梓ちゃん。はじめまして」
「は、は、は、はじめ、まして」
本郷梓は不老真琴さんをうっとりと見返している。
「塾に行くはずだったのに、わざわざ急にこんなところまで来てもらって、ごめんなさいね。この前の塾の到達度テスト、塾のクラスで算数の成績が落ちちゃって悔しいかもしれないけど、国語が一位なんだから自信持っていいわよ」
真琴さんが妖艶な笑みを浮かべた。が、そこに不老翔太郎が割り込んた。
「確かに。算数の順位がトップ五位から落ちてしまったのは残念だね」
さらに真琴さんが続ける。
「今日も塾に行く直前まで、算数の復習をしていたのよね。慌てて家を出たところで、銀河ちゃんに捕まった、といったところかしら?」
「勉強中には、〈コスモス・カフェ〉でテイクアウトしたミルクティを飲んでいたね」
不老が張り合うように続けると、真琴さんは笑顔で頭をゆっくりと振った。
「いいえ、違うわ。勉強のおともは、ほうじ茶オレよね。しかもホットの」
ぼくも本郷梓も金銀河も、あっけにとられて二人のやりとりを見守っていた。
「あのぉ……」
ぼくは二人に声をかけた。
「もう頭がいっぱいいっぱいだ。説明してよ」
不老翔太郎は肩をすくめると、一気呵成に早口にまくしたてた。
「梓さんのバッグから塾のテキストが覗いていることには、すぐに気づいただろうね。塾に行こうとしていたことは容易にわかる。几帳面な梓さんには珍しく、算数のテキストだけがほかのテキストと逆を向いて入れられている。つまり、直前まで算数の勉強に熱中していて、慌ててトートバッグにテキストを入れて家を飛び出したんだ」
「じゃあ、本郷さんのテストの成績のことは?」
ぼくが口を挟むと、本郷梓が恥ずかしそうに、おずおずと声を漏らした。
「塾で、上位五位に入ると金色のシールがもらえるんだけど……」
口ごもる本郷梓のあとを引き継ぐように、不老翔太郎は続けた。
「梓さんのプリントを入れたクリアファイルには、先月までのシールが貼られているのがバッグの隙間から見て取れる。国語のシールは貼られているが、今月分の算数のシールがないということは、上位五位から落ちてしまったんだね」
「じゃあ、なんでミルクティなの?」
金銀河が割り込むように訊く。
「算数のテキストに、栞代わりに紙片が挟んであるね。これは〈コスモス・カフェ〉のストローが入っていた紙袋だ。急いでいたから、手近にあった紙を使ったのさ。角に茶色い染みが付着している。僕はミルクティだと推理したんだが――」
そこで真琴さんがあとを引き取った。
「そこがショウちゃんが探偵として経験の浅いところよね。あの紙袋がストローのものよりも少し幅広いことに気づいてない。あれはストローではなくて、マドラーの入っていた紙袋なのよ。〈コスモス・カフェ〉ではホットの〈ほうじ茶オレ〉をテイクアウトすると、紙袋入りのマドラーが付いてくる。まだまだ推理力の鍛錬が必要ね」
本郷梓も金銀河も、美しい不老真琴さんの姿にぽおっと顔を上気させて、見とれている様子だった。
なんだか、悔しい――いろいろな点で。
不老翔太郎は、ぼくたちを見回して冷静に言った。
「さて、わざわざここまで出向いてくれたけれど、僕が今のところ話せることは何もないよ。例の塾をめぐる件に関しては、まずは静観するのがいちばんだ」
「でも、何かの企みが進行中なんだよ! 梓だって心配してる」
金銀河が食い下がるように言うと、隣の本郷梓も、おそるおそるといった様子で、不老翔太郎に向けて顔を上げた。
「〈東秀ゼミ〉って、わたしの友だちが入る予定の塾なの。怪しいことが起こってるなら、それを食い止めないと……」
しかし不老は微笑んで、人差し指を顔の前に立てた。
「大丈夫だよ。今すぐに事件が起きるわけじゃない。今は、待つんだ。こちらから動かなくとも、必ず相手が動き出す。いいかい、あらゆる謎というものは、解かれるべきであるし、そして、すべての謎は解かれたがっている。解かれるときを待っている。そのタイミングを待つんだ」
不老の自信満々の笑みに、ぼくたちは毒気を抜かれてしまい、言い返す言葉を見つけられなかった。
真琴さんが、ゆったりとした声で言った。
「せっかくみなさん来てくださったのだから、ゆっくり休んで行ってね。お茶とケーキを用意してあるわよ。ちょっと待ってて」
真琴さんが優雅な仕草で立ち上がり、洋室のドアを開いて出ていった。「ケーキ」という単語がぼくの鼓膜を震わせた瞬間、自然と口の中に唾液があふれて今にも唇の端からこぼれそうになってしまうのは、我ながらどうにかならないものか、と思う。
「御器所君、ニヤニヤしすぎ」
すぐ脇で金銀河が冷ややかにぼくを見下ろしてたしなめる。
数分後、真琴さんが銀色の大きな盆を手に、部屋に戻ってきた。お盆よりも、その上の白い皿に載せられたもののほうが、ぼくにはピカピカとまばゆく輝いて見える。
「さあ、どうぞ」
真琴さんがテーブルにフルーツ満載のケーキと、紅茶のカップを並べながら、不老翔太郎に向かって言った。
「ショウちゃん、さっき、珍しくいいことを言ったわね。『すべての謎は解かれたがっている』って。いい謎があるのよ」
「ほう?」
不老は真琴さんの言葉を聞くや、ぱっと眼を見開いた。
ぼくはお構いなしに、輝かしいケーキの皿に手を伸ばした。
おお、マスカットと巨峰がたっぷりと載ったチーズケーキだ! 唾液で口の中がいっぱいになる。
金銀河と本郷梓のほうへ顔を上げた。ぼくを白い眼で見ているかと思ったけれど、二人の女子もまた、ぼくと同じように目を輝かせている。
安心して、心置きなくケーキにフォークを突き立てて、口に運ぶ。ぶどうの酸味とチーズクリームの甘味が混じりあう。鼻腔いっぱいに甘い香りが充満する。ああ、これ以上の幸せがあるだろうか!
ぼくが感動しているあいだに、真琴さんがみんなを見回した。
「今日は、ほかにもお客様が来ているの。わたしの古い友だちで、奇妙な経験をしたと言っているけど、どう? その謎を解決する気はあるかしら?」
真琴さんが言うや否や、不老翔太郎の眼が輝いた。
「無論だよ! どうしてその話をさきに言ってくれない?」
第三部へつづく
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