第2話「高名な依頼人」第1部

不老翔太郎が、また消えた。

 いや、消えたという表現は正しくない。学校を三日連続で休んだ。風邪や体調不良とは思えない。夏休み直前の数日間、不老は学校に姿を見せなくなったこともあった。その間、不老は学校をサボって「事件」を探っているらしかった――ぼくを抜きにして。

「また、勝手に事件を追いかけてるんだね。ズルい」

 金曜日の昼休みに声をかけてきたのは金銀河だ。

「不老君の家、行ったことある?」

「そういえば……ないなぁ」

 訊かれてはっとした。不老翔太郎という男に一学期の始業式に出会って、もう半年近くたつ。けれど彼の家に行ったことはない。不老翔太郎が普段、どんな生活をしているのか、ぼくはまったく知らなかった。

「突撃してみよっか?」

 金銀河は挑むような目つきだった。

「へ? 不老の家に? 今、不老が家にいるかどうかわからないよ。それに、不老がどこに住んでるのかも、知らない」

 ぼくが答えると、金銀河はあきれたような表情になった。

「御器所君も知らないの? じゃ、萱場先生に聞けばいいじゃん」

「個人情報は教えてくれないんじゃないの?」

 不老翔太郎のプライヴェートを知る機会は、これまで何度かあった。けれど、ぼくはあえて知ろうとしてこなかった。知りたい気持ちがないわけじゃない。むしろ逆だ。不老翔太郎という謎めいた――ときどき腹が立つけれど――人間を、もっと知りたい。けれど、知るのをためらう気持ちがずっとあった。あまり近づきすぎてはいけないような気がしていた。

「ねえ御器所君、梓と連絡とってる?」

「へ?」

 突然話題が変わって、ぼくは間抜けな声を漏らした。

「まさか梓を無視してるってこと、ないでしょうね!」

 梓というのは、ぼくたちとはべつの小学校に通う、同じ六年生の本郷梓のことだ。金銀河の親友で、何度か一緒に事件に関わったことがあった。夏休みが始まったばかりの頃に「フラン姫の失踪」事件を一緒に解決――正確には、すべての真相を暴いたのは不老翔太郎だったけど――して以来、会う機会を逃したまま、二学期になってしまった。

 金銀河は両手の拳を腰にあてて、ぼくを見下ろした。あらためて、ぼくのほうが十センチ以上も背が低いんだな、と痛々しいほど自覚する。美人に見下されると、ちょっと悔しいけれど、それでいてちょっとうれしいような……複雑すぎる感情で気持ちをかき乱される。

「もうっ、どうして男子って鈍感なのかなぁ? 友だちが助けを求めてるっていうのに!」

「助け? 事件が起きたの?」

 金銀河は大げさにため息をついた。

「そうじゃなくて、ほら、〈東秀ゼミ〉の謎があるでしょ。梓の友だちの五年生の子が〈東秀ゼミ〉に入りたがってるんだって」

 〈東秀ゼミ〉とは、正しくは〈東亜秀修ゼミナール〉。去年この街にできて、受験生たちに――正確にはその親たちに――人気が上昇している塾だ。けれど、ただの塾じゃない。その経営の背後には、ぼくの家と同業者――つまり、世の中的に言うと「反社会勢力」、もっとストレートに表現すると「ヤクザ」が関わっている。その事実を、ぼくたちはつい数日前「逆転の図工」事件を調べていくうちに知ることになったのだ。

 しかも〈東秀ゼミ〉の背後にいる反社会勢力〈中村組〉とぼくの家〈御器所組〉とは、数ヶ月前に一触即発の「戦争」になる直前だった。そのときに起きた「二つの署名」事件では、ぼくはほんとうに生きた心地がしなかった。

 その上〈東秀ゼミ〉に関わる「謎」については、ぼくたちの担任の萱場先生も密かに探っているらしい。

 いろいろなことが一気に混線しまくっている。ぼくの頭は破裂しそうだ。

「まずいなぁ、実にまずい」

「まずいでしょ? だったらわたしたちが先手を打って動き出すべきじゃない?」

 金銀河の圧が、いつも以上に強すぎる。

「う、うん。そうかもね……」

 ぼくは完全に押し切られてしまった。


「おやっさんには内緒にしますよ。けど、こういうことは今回っきりにしてくださいね」

 SUVのハンドルを握るキヨさんが飄々とした口調で言いながら、汗だくの顔を助手席のぼくにちらっと向けた。キヨさんの丸々とした顔には、少し楽しんでいるような笑みが浮かんでいた。

 キヨさんは我が家〈御器所組〉の若い衆の一人だ。元力士という経歴どおり、体がものすごく大きい。キヨさんとは一緒に「学校の怪談」事件の現場に出向いたことがあったけれど、それはまたべつの話だ。

「次の信号、右折してください」

 後部座席から指示を出すのは金銀河だ。その隣には本郷梓が小柄な体を縮めて、緊張した様子でちょこんと座っている。黒縁眼鏡の奥の瞳が、心配そうに金銀河を見ていた。金銀河はランドセルを、本郷梓は紺色のトートバッグを膝の上に抱えている。

 金銀河の行動は、びっくりするほど素早かった。ぼくはただ言われるがままだった。いつにも増して、今日の金銀河は大胆だった。一度自宅に帰ることもなく、ぼくの家の前まで直接押しかけて来た。そして〈御器所組〉の組内でいちばん暇そうにしていたキヨさんを捕まえて、車を出してくれるように頼んだ――キヨさんのほうがタジタジになったくらいだった。〈御器所組〉の若い衆に、そんなことをできるのは父さんだけのはずなのに。

 金銀河の指示で、車は途中で本郷梓のマンションに急行させられた。そこで、ちょうど塾へ出かけようとしていた本郷梓を、半ば強引に車に乗せて合流させたというわけだった。

「なんかごめんね」

 ぼくは謝ったけれど、当の本郷梓は逆に楽しそうな笑顔を見せて、

「みんなと一緒に事件を解決できるなんて楽しみ! こういうの、待ってたんだ!」

 そこまで言ってくれて、ぼくはホッとした。二人の美人に囲まれるのは、決して悪い気分じゃない。ぼくは頬がにやけそうになるのを、必死に押し殺した。

 ぼくたちを乗せた車は住宅街を駆け抜けた。

「〈東秀ゼミ〉の話を、もっとちゃんと友だちから聞いてからでよかったんだけど……」

 本郷梓は、心配そうに言葉を漏らした。

「そんな悠長なこと、言ってられない。あの塾で何か犯罪が行われてるかもしれないんだよ。不老君、きっとその謎を知ってるんだよ。わたしたちに隠してるなんて、許せる?」

 金銀河はかなり怒っている様子だ。

 ぼくは、もっと不安だった。

 一度きりしか来たことがないのに、金銀河は場所をしっかり頭に入れていた。前回は車で連れて来られたのだけれど、今日はこちらから乗り込もうというのだ。しかもカタギじゃない〈御器所組〉の車に乗って。

「不老君がいなくても、居場所を聞き出してやるから! もういい加減に、いろんな謎を中途半端なままにはしておけないよ」

 金銀河の表情は決意に満ちていた。ちょっと怖いくらいだ。

 いったい、どうして急にこんなにもぐいぐいと突き進み始めたんだろう?

 このときのぼくは、まだ金銀河のほんとうの気持ちを知らなかったのだ。

「ここ! 停めてください!」

 金銀河が鋭い声をキヨさんに向けて放った。

 フロント・ウィンドウの向こうに、確かに見覚えのある光景があった。高い塀が続き、その向こうには青々と茂る木々がの梢が見える。塀のそこここで、小型の監視カメラが黒い眼を光らせているのがぼくにはわかった。

 カタギの家じゃない――我が家と同様に。

「ほんとうに……ここなんですかね? ヤバくないっすか?」

 キヨさんが心配げな声を漏らした。ぼくがここにはじめて来たときも、同じ印象を抱いたのを思い出す。

「前に来たときは、大丈夫だったよ」

 ぼくはキヨさんに耳打ちした。

 と、そのときだった。黒塗りの大きな門がゆっくりと音もなく左右に開き始めた。その光景もまた、ぼくの家に似ている。

 が、門の向こうに立っているほっそりとした人影を見た途端、車内の全員があっけにとられた。

「ふ、不老!」

 ぼくは真っ先に声を上げた。

 不老翔太郎が、強い日差しの下で、涼し気な表情でぼくたちの乗った車を見つめている。

「アポなしで押しかけてくるのは感心できないねえ」

 いきなり金銀河が車のドアを開け、跳び出した。本郷梓もそのあとを追う。二人は、つかつかと不老翔太郎に向かって駆け寄った。

「影でこそこそ隠れてる不老君に、そんなこと言われたくないわね」

 金銀河が、不老の胸元に人差し指w突きつけた。不老はぴくりと右の眉を上げた。

「不老、今までどこで何をしてたの?」

 ぼくも車を降りて訊ねた。が、不老はにやにやしたままだった。

「探偵たる者、極秘の捜査をする必要もあるのさ。いつか僕の伝記作家たる御器所君にも、話せるときが来るかもしれないね」

「今、わたしたちに話しなさいよ!」

 金銀河の剣幕に対して、不老はふたたびぴくりと眉を動かした。

「いつか近いうち、必ず話すよ」

 不老翔太郎はそう言いながら、ぼくに視線を向けた。その真面目な顔つきを見ていると、ぼくもそれ以上文句を言い立てる気持ちにはなれなかった。

 不老は続けた。

「さて、君たちの話を聞こうか。そのためにわざわざ〈紗禄奇庵〉まで来たんだろう?」

「しゃーろっきあん?」

 ぼくが口を挟むと、不老はぴくりと眉を動かした。そうか、この屋敷にはそんな名前がついていたのか。

「いいかい、この〈紗禄奇庵〉の一階は、おしゃべり厳禁だ。一度来たことがあるなら、知ってるね」

 不老はほほえみながら言うと、広い日本庭園の奥へと歩き出した。キヨさんには、屋敷のかたわらの駐車場で待ってもらうことにし、ぼくたちは不老のあとを追った。


第2部につづく

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