第1話「逆転の図工」第6部(解決編)

 四時間目が終わった。ぼくはキム銀河ウナの席を見やった。クラスメイトと楽しげにおしゃべりしている。ぼくのほうを見向きもしない。

 今朝、あんな形で金銀河を無視して、小本こもと瑠衣るいの事件を選んでしまった。だから、完全に嫌われてしまったのかもしれない。

 心臓がぎゅっと冷たい指で摑まれたような気持ちになる。

 けれどそのいっぽうで、逆転された絵の「謎」がぼくの気持ちをざわつかせ、熱く沸き立たせる。

 有松ありまつ篤志あつしが歩み寄ってきた。明らかに不満そうな面持ちだ。

「まだ事件は解決してないんじゃん? 妹がうるさいから、とっとと犯人見つけて欲しいんだけどな」

「でも不老は、事件じゃないなんて言い出してるよ」

 ぼくは、少し離れたところの不老ふろう翔太郎しょうたろうの横顔にちらっと視線を送った。

「直接訊いたら?」

「だから、あいつって話しかけづらいじゃん!」

 怒った口調で有松篤志は唇を歪めた。

 と、その瞬間だった。扉から小さな人影が飛び込んで来たかと思うと、それは有松篤志に体当りした。

「痛えっ!」

「ちょっとお兄ちゃん! 早く事件を解決してよ!」

 有松ありまつ侑愛ゆあが、小さな拳で兄の胸を叩いた。

「俺じゃなくて、不老に言えよ!」

「お兄ちゃんの嘘つき! 全部うまくいくって言ってたじゃん!」

「それは……」

 助けを求めるような視線を、有松篤志がぼくに向けた。ぼくは笑いをこらえるのに必死だった。妹には頭が上がらないらしい。

「不老……ぬうっ!」

 振り返って呼びかけようとしたが、すでに不老翔太郎はぼくの真後ろに立っていた。近い。あまりにも、近い。大いに焦る。

「有松きょうだいが仲違いしないよう、一肌脱ぐとしようか」

 不老翔太郎は得意げな笑みを浮かべていた。

「事件を解決したんだね!」

 ぼくが言うと、不老は肩をすくめた。

「事件なんてはじめからなかった、と僕は言ったはずだ」

 ぼくは教室内を振り返った。

 もう金銀河の姿はなかった。

御器所ごきそ君、気がかりなことがあるなら、あえて僕と一緒に来る必要はないよ。君には君の、大事な用があるんじゃないのかい?」

 不老の問いに、ぼくは一瞬だけ、つばを飲み込んだ。

「まずは、眼の前の謎を解かなきゃ!」

 ぼくたちは言い、不老とともに教室から駆け出した。


「さて、お集まりの諸君」

 不老翔太郎は四年二組の教室を見回した。

 とは言うものの、教室にはぱらぱらと数名の生徒が残っているだけだった。小本瑠衣の姿もあった。諦めたような、面倒くさそうな、ふてくされたような表情だった。とても被害者には見えない。

 不老翔太郎は教室に向かって、声高らかに言った。

「今回の『事件』をおさらいしよう。一人の生徒の絵だけが、いつのまにか逆転されている。それも一度だけではない……確かに、奇妙な事件のように思える。しかも、もっと奇妙なのは、『被害』に遭ったはずの小本瑠衣さん自身が、それをまったく苦にしていない様子だ」

「だって……!」

 小本瑠衣が口をとがらせたが、不老は手を上げて制した。

「それに、担任の須田すだ先生も、今回の事件を気にしている様子がない。それどころか、まるで犯人を弁護しているかのようにも思える」

「ええっ、須田先生が犯人なの?」

 声を上げたのは、有松侑愛だった。

 不老はかぶりを振り、背後の掲示板を振り返った。小本瑠衣の絵は、逆さまに貼られたままだった。

「まず、そもそもの発端となった、この絵に戻ろう」

 不老はまたしても、軽々とした身のこなしでロッカーに上がり、素早く、しかしていねいに画鋲をはずした。

 床に降り立つと、不老は小本瑠衣の絵を顔の前に掲げた。

「小本瑠衣さんが、八月十六日の午前、別荘のバルコニーからL湖を見て描いたものだ。間違いないね?」

 不老が顔を向けると、小本瑠衣はうなずいた。

「調べてみたが、たしかにその日のL湖付近の天候はよかった。この絵に描かれているように、青空と青い湖面が見られたことだろうね。そこで、御器所君。君のスマートな電話を借りるよ!」

「あ、スマホは教室の……」

 ランドセルに入れたままだったはず、と言おうとした。しかし次の瞬間、不老の手に、すでにぼくのスマートフォンがあるのがわかった。

 いったいいつの間に? あいかわらず、不老翔太郎の掏摸の腕前は恐ろしい。

 いや、感心してしる場合じゃなかった。

 不老は画面をすばやく操作すると、くるりとそれをぼくたちの顔の前に突きつけた。

「さあ、君の眼には何が見える?」

 そこには、写真が大写しになっていた。美しい湖を撮った風景だった。

 ぼくは声を上げた

「あっ、これってこの絵で描かれてた風景だね。あっ、絵に描かれてた赤い建物って、こんなに立派な屋敷だったんだ。まるでお城みたいだ」

 晴れた明るい陽光の下、深緑色の森と赤い建物が湖面に反射して、とても絵画的だ。

「絵と完全に同じ画角ではないが、湖の南側の別荘地から北側を見たストリート・ビューの映像だ。おそらく小本家の別荘のバルコニーからも、この写真とかなり近い風景が見えたはずだ」

 不老が早口でまくしたてる。

 地図アプリのストリート・ビューでさえこんなに綺麗なのだから、実際に眼にしたら、さぞや感動的な風景だろうな、と思った。

 不老はぼくのスマートフォンの画面を、絵の脇にかざした。

「まだ気づかないのかい、御器所君?」

 ぼくは不老のかざしたスマートフォンの画面に顔を近づけた。

「あっ! なるほどね!」

 背後で鋭い声が上がった。

 振り返って、驚いた。

 いつの間にかそこにいたのは、星崎ほしざき雄之介ゆうのすけだった。

「え……? な、なんで?」

 どういうわけか、ぼくは必要以上にうろたえてしまった。けれど、星崎は、昨日のファミリー・レストランでの別れなどなかったかのように、にこにこと笑顔をぼくと不老に向けている。

「この絵とスマホの画面では、赤い館の位置が逆だよ」

 星崎雄之介が声を上げると、不老が大きくうれしそうにうなずいた。

「そのとおりだよ、星崎君」

 たしかに言われてみれば、そのとおりだった。

 小本瑠衣の絵では、湖の右側に赤い館が描かれていたが、スマートフォンの画面上では、湖の左側に見えている。

 ぼくははっとした。脳内で火花が飛び散るのを感じる。

「そういうことだったんだ!」

 不老の手からぼくのスマートフォンをもぎ取った。画面上の赤い館を拡大した――湖の水面に反射した、赤い館の像だ。

 そして、ぼくはスマートフォンの画面をひっくり返す。

 すると、まさに小本瑠衣の描いた絵とそっくりな構図が現れた。

「つまりこの絵って……逆さまじゃなかったんだ! 湖の実際の風景じゃない。湖に映った景色だったんだね!」

 ぼくは勢い込んで言った。不老は楽しげにうなずく。

「そのとおり。僕たちが勝手に『逆さま』だと思っていた。しかしそれは逆だった。掲示された絵は、逆さまにされたんじゃない。『正しい向き』に直されていたんだよ」

 静かな湖面に映った景色。まるで鏡のように静かな水面――文字通りの「明鏡止水」だ。

「最初から、この絵には重大な手がかりが隠れていたんだよ。僕の眼が節穴だとのそしりは免れないね」

「手がかりって何?」

 星崎が訊く。

「四か所の画鋲が、同じ穴に刺されていたこと。それに、裏側に書かれた小本瑠衣さんの名前だ」

「名前? 誰だって自分の絵には自分の名前を書くよ」

 ぼくが言うと、不老はふっと笑みを浮かべて、絵の上下を変えることなく、ゆっくりと絵を裏返した。

 画用紙の裏側には「四年二組 小本瑠衣」という細い鉛筆書きの文字。

「そっか! 名前も『正しい向き』で書かれていたんだ!」

 星崎雄之介の指摘に、ぼくもようやくハッとした。

「そこに答えがすでに秘められていた。すぐに気づかなかった僕は、ほんとうに愚かだったよ。したがってその事実から、最初にこの絵を『逆さま』いや、『正しい向き』に壁に貼った人物は明らかだ。絵を最初に貼った人物とは――」

 そこでわざとらしく不老は言葉を切り、みんなを見回した。

「絵を貼ったのって、わたしだけど」

 右手を挙げて答えたのは、なんと小本瑠衣自身だった。

 不老は満足げにうなずいた。

「そのとおり。ほかの誰にもありえなかった。自分の絵の正しい向きを知っているのは、描いた小本瑠衣さん本人しかいないんだ」

「じゃ、誰もいじめたりしてないんだ!」

 有松侑愛が声を上げた。

 不老翔太郎は、そんな様子を見ながら、冷ややかな声で続けた。

「ところが翌日、小本瑠衣さんにとって意外なことが起きてしまった。むしろそちらが『事件』だったかもしれないね。有松侑愛さんをはじめとする生徒が『何者かによって絵が逆転されてしまった』と善意から言い始めたんだ。小本瑠衣さんにとっては意外で、困った事態だったろう。わざわざ真相を告げるのには、たいへんに面倒な状況になってしまった」

「瑠衣ちゃん! へんなこと言ってごめんね!」

 有松侑愛は叫ぶように声を上げた。

 不老翔太郎は小本瑠衣に視線を向けた。彼女は恥ずかしそうに、消え入りそうな様子で床に視線を落としたままだった。

「しかしそこで、小本瑠衣さんには思いがけない助っ人が現れたんだ。その人物は、小本瑠衣さんの性格を知悉しているし、もちろん、画用紙の裏側に書かれた名前の向きから、この絵が明鏡止水のごとき湖面に映された逆転した風景を描いた絵なのだと見抜いたんだ」

 すると有松侑愛が身を乗り出した。

「その人って、須田先生のことだね!」

 不老は笑みを浮かべつつ、うなずいた。

「いかにも。須田先生は、最初こそ、誰かが悪意を持って絵を逆転させたのかと疑っただろう。しかしこの絵のほんとうの構図に気づいた。そこで昨日、音楽の時間に須田先生は、小本さんの絵を『正しい向き』に戻しておいたんだ。絵を傷つけないように、貼り直すときには慎重に、画鋲を同じ穴に刺すことも忘れなかった。小本さんにしか描けない、素晴らしい作品だからね」

 小本瑠衣は、ほっとしたような表情だった。これまで、真相を知りながら、自分からは言い出せなかったんだろう。

「瑠衣ちゃんの絵、やっぱりすごい!」

 甲高い声を、有松侑愛が放った。ぴょんぴょん跳びはねるようにして、小本瑠衣に駆け寄って抱きついた。二人は笑いあい、じゃれあっている。

 ほんとうに事件なんて存在しなかった。

 加害者もいなかったし、被害者もいなかった。

 事件や謎ばかり求めているぼくたちは、火のないところに煙をむりやりに立てて、謎のないところに事件を強引に作ったりしているのかもしれない。それは、ひるがえって見れば人が不幸になるのを待ち望んでいるかのようだ。人から見たらひどく冷たくて傲慢で傍若無人な人間に見えているのかもしれない。

 有松侑愛が、飛び跳ねながら声を放つ。

「不老君って、ほんとにすごいんだね! まるで、『見かけは子ども、頭脳は大人』みたい!」

 すると得意げに、星崎雄之介が鼻を高くした。

「そうさ、翔ちゃんは名探偵なんだよ!」

 不老翔太郎は、右の眉毛をぴくりと上げた。

 ぼくまで誇らしい気分になってしまう。

 ふと横を見ると、星崎雄之介もまた、ぼくに笑みの混じった視線をよこしていた。

 やっぱり、ぼくたち二人とも同じ気持ちを味わっているんだろう。


 けれど、それですべてが終わったわけじゃなかった。

「まだ謎は残っているよね」

 昇降口に向かって廊下を歩きながら、ぼくは不老の顔をのぞきこんで言った。

「外来種の侵入のことかい?」

 不老翔太郎は表情を変えなかった。

「十三年ゼミが日本に侵入してきたわけじゃないし、萱場かやば先生たちが外来種の侵入を知りながら、隠しているわけでもない。もしかして不老って、その謎の真相もつきとめてるんじゃないの?」

 ぼくの質問に、不老はぴくりと右の眉を上げ、不意に立ち止まった。

「星崎君、あらためて質問するが、前山まえやま先生が萱場先生に問い詰めていたのは素数ゼミのことだと断言できるかい?」

「ええっ? だって……翔ちゃんがそう言ったじゃん」

「いや、君は『素数ゼミ』という単語を使用してはいなかったよ。星崎君、思い出してくれたまえ。君自身が口にした言葉だよ。君はこう言ったんだ。あのとき『何スーゼミ』という表現をした」

「言ったかも……ね。それで?」

「君は、間違いなくそう言った。だから僕は、その単語から導き得る仮説のひとつとして、『素数ゼミ』を提案したに過ぎない。しかし、いつの間にか『素数ゼミ』が唯一の解となっていた」

「じゃあ、前山先生が怒ってたのって、ほかのセミだったのかな」

 ぼくはつぶやいた。

 昇降口の下駄箱にたどり着くと、そこには一つの細身で長身のシルエットが見えた。

「遅いよ! ずいぶん待ったんだからね!」

 シルエットが声を放った。

 両の拳を腰に置いて、すらりと長い脚を誇るかのように立っていたのは、金銀河だった。

「君と何らかの約束をした覚えはないよ、銀河さん。それとも新たな事件かな?」

 不老は、満面の笑みで金銀河に歩み寄った。

 が、金銀河はさらに挑むように続けた。

「不老君じゃない」

「ほう?」

 不老は右の眉をびくんと二割増しで上げる。

「わたしが待ってたのは御器所君! ねえ、わたしのこと、避けてる?」

「いや、まさかそんな、避けるわけないよ……」

 ぼくは、しどろもどろになってしまう。

「ほう! これはこれは、なかなか興味深い展開だねえ」

 不老が、ぼくと金銀河を交互に見やった。

 金銀河は、ぼくのすぐ背後に立っている星崎雄之介を認めると、少し頬のあたりをこわばらせたようだった。

「さて星崎君、お邪魔しては悪いから、ご両人でみっちり語り合っていただくとして、僕たちは先においとましよう」

 不老はぼくをちらっと見ると、にやりと笑みを浮かべた。

「いいえ、不老君も聞いて。それに星崎君、だっけ? あなたにも聞いて欲しい」

 金銀河の両眼は、思いの外、深刻な光をたたえていた。

「えっ? ぼ、僕も?」

 星崎雄之介があせった表情になった。彼もまた、美人に呼び止められることに慣れていないようだ。

「あの、えっと、どうも、はじめまして。えー、お控えなすって! お、遅れせの仁義、失礼さんでござんす。て、て、手前、生国と発しまするは帝都東京……」

「星崎君、カタギの銀河さんに仁義を切る必要はない」

 冷静すぎるほど冷静な口調で、不老翔太郎が言う。

「あ、そっか。どうも、はじめまして。姓は星崎、名は雄之介と発します、いまだ世間知らずの若輩者でござんす。以後、面体めんていお見知りおきくださいまして、向後きょうこう万端ばんたんお引き回しのうえ、よろしくお頼んもうします」

 がっつりと仁義を切らずにいられないのが「極道」の性というやつだ。星崎雄之介は、見事にやりきった。

 金銀河はさすがにぽかんとして眼を見開いていた。が、すぐに気を取り直し、ぼくに訊ねた。

「御器所君、受験するんでしょ?」

 唐突な質問だ。

「中学? 一応する予定だけど」

「どこの塾に行ってるの?」

 ただの好奇心ではないようだ。詰問する口調だった。

「塾には行ってないけど」

「じゃ、家庭教師?」

「ううん、まあ……その……自分で」

「独学で? 信じられない!」

 ぼくだって、まだ自分がほんとうに私立中学を受験するのかどうか、信じられない。

「じゃ、新しい塾の噂は聞いてないんだ?」

「新しい塾?」

「まさか、御器所君の家が関係してないでしょ?」

「へ? うちの組? 塾に?」

 金銀河の話が飛躍しすぎて、ますます混乱する。

 口ごもっていると、割り込んできたのは星崎雄之介だった。

「この街で、極道が新たに塾経営を始めたってことだね」

 とても冷静な口調だった。

 一言一言が、あまりにも単刀直入すぎる。というか、まさに単刀がずばっと心臓に直に突き刺さって奥まで入ってしまうような、ショッキングすぎる言葉だ。

 金銀河は、少しほっとしたような、肩から重い荷物を下ろしたかのような顔になった。

 あらためて、ぼくははっとさせられる。

 金銀河はカタギなんだ。ぼくや星崎みたいな、極道者とはそもそも住む世界が違う。

 不老翔太郎が静かに口を開いた。

「ねえ星崎君、君は最初から知っていたんだね」

 鋭い視線を星崎雄之介に向けている。

 星崎は、ゆっくりとかぶりを振った。

「今になって、やっと気がついたんだ。黙ってたわけじゃないよ。僕はほんとにセミのことだと早合点してた。翔ちゃんに間違った推理をさせちゃったんだ」

 子どもっぽい彼の顔が、いつのまにか大人びて、そして少し遠い存在のように見えた。

「ちょっと待って。二人とも、何の話をしているの?」

 金銀河が怪訝そうな声を挟む。星崎雄之介は、深刻そうな面持ちで続けた。

「〈東亜とうあ秀修しゅうしゅうゼミナール〉。僕の親が以前に加わってた〈中村組〉が経営に関わってる塾だよ」

 すぐさま、不老が声を上げた。

「もちろん、その塾は略称〈東秀とうしゅうゼミ〉と呼ばれているんだろう。『素数ゼミ』ではなく、ね」

 前山先生が萱場先生に問い詰めていたという「去年入ってきたばかりのナントカゼミ」とは、ぼくの家と同じ「反社会的勢力」が経営する塾のことだったのだ。

「そう! 〈東秀ゼミ〉のことを話そうとしてたの! やっぱり、怪しい塾だってことを知ってたのね!」

 金銀河は、ぼくたちに向かって身を乗り出した。

 前山先生が萱場先生につめよっていたという「去年入ってきたばかりのナントカゼミがおかしい」という台詞は、ナントカゼミではなくて〈東秀ゼミ〉だったのだ。

 昨夜、母さんから聞いた言葉を脳内でもう一度反芻する。

 うちの〈御器所組〉と戦争直前まで行った〈中村組〉が、この街へまた進出している。その〈中村組〉が裏で経営に関わっている塾。そしてその塾について調べているらしい萱場先生と築地先生――

 何か大きくて薄暗い塊が、ぼくたちのすぐ背後でゆっくりとうごめき始めたかのようだった。

「御器所君も星崎君も、なんだかとっても怖い顔してる。ねえ、ほかに何を隠してるの? わたしにも教えて!」

 金銀河の両眼の奥に、不安の光が宿っていた。

 ぼくも、思わずつばを飲み込む。冷え冷えとした感覚がぼくを包む。九月の激しい残暑を忘れそうになるほどだ。

 いや、その「薄暗い塊」は、今になってうごめき始めたわけじゃない。ぼくたちの知らないあいだに、ずっと前から少しずつ、とっくに動き出していたんだ。

「ははっ!」

 出し抜けに、大きな声が上がった。

 声の主は、やっぱりと言うべきか、不老翔太郎だ。不老のよく通る声は、まるで鋭いナイフの刃であるかのように、ぼくの頭を覆う黒くて暗い霧を、一気に切り裂いた。

「御器所君、星崎君、俄然、面白くなってきたね!」

 心底楽しそうな満面の笑顔だ。

「でも……」

 不安げな表情をぼくに向けながら、星崎雄之介がつぶやくように言う。

 けれど、不老翔太郎の両方の眼には、まったく曇りがなかった。

「まだ説かれていない謎が僕たちを待っているんだ。実にワクワクするじゃないか?」

 疑うことを知らない、まっすぐな不老翔太郎の言葉だった。

「そっか、じゃあ、謎を解くのは翔ちゃんだけじゃない。僕たちも探偵なんだ」

 星崎雄之介が、ぱっと顔を輝かせる。

「つまり……少年探偵団?」

 ぼくが言うと、不老は人差し指を顔の前に立てた。

「君の価値感は意外に古臭いんだねえ。ジェンダー観のアップデートが必要だよ。今なら、少年少女探偵団と呼ぶべきだ」

 そう言って不老は目配せした。

「えっ、わたしも?」

 金銀河が眼を丸くする。

「無論だよ。謎に立ち向かえるのは、僕たち以外に誰がいる?」

 そう、これからどんな謎が立ちふさがって来るのかわからない。けれど、その謎に立ち向かい、解決することができるのは、ぼくたちだけだ。

「さあ、実に面白い二学期が今から始まるぞ」

 不老翔太郎が、高らかに宣言するように言った。


「逆転の図工」完

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