第1話「逆転の図工」第5部

 もやもやした薄暗い雨雲のような何かが、ずっとぼくの脳みそを膜のように覆っている。読みかけの探偵小説のページをめくっても、眼が文字の上を上滑ってしまって、内容がまったく頭に入ってこない。このタイミングで「虚無きょむへの供物くもつ」なんていう、タイトルからして難しそうな小説を読み始めるべきじゃなかった。

 ――そんな家の人とは仲良くできない。

 星崎菫さんは言った。その言葉が、ぼくの脳みその襞のあいだをうごめいている。

 慣れているはずだった。

 ぼくは〈御器所ごきそ組〉組長の長男だ。周りから見たら、とても特殊な人間だ。確かにぼくは、ぼくの「家」に守られてきた。けれど、ぼくの「家」のせいで、ぼくはこれまで「友だち」と言える人とめぐり会うことができなかった。六年生の始業式までは――

 そう、不老ふろう翔太郎しょうたろうという男と出会うまでは。

 「あの子とはつきあうな」「御器所の子は怖い」「一緒に遊んじゃダメ」――そんな台詞を大人たちがささやいているのが、これまで何度も間接的にぼくの耳には届いていた。

 大人たちの言葉は、ぼくみたいな子どもには聞こえていないと、大人たちは思い込んでいるのだろう。けれど、全部ぼくの耳に届いていた。それらの言葉は、ぼくにすべて突き刺さっていた。そしてまた、そんな大人たちの言葉を、同級生たちは素直に受け取るのだ。そしてみんなは、何もぼくに面と向かって言葉を発することなく「御器所ごきそはじめ」という変わった生徒、特殊な生徒、変な生徒……から静かに遠ざかっていく。ぼくみたいな存在に、あえて近づこうとする勇気ある生徒なんていない。

 そんなことを、ぼくは五年生まで嫌というほど体験してきた。

 ぼくは、慣れているはずだった。

 不意に、ぼくの部屋のドアがノックされた。母さんが入ってきた。お盆の上には、間違いなくとてつもなく美味しそうなお菓子が載ったお皿が載っている。

「焼きプリンを作ってみたの。感想を聞かせて。固めに仕上げるのに、特にこだわったのよ」

 一気に脳内の雲は晴れた。

 スプーンを摑む。はち切れんばかりの焼きプリンのつるつるの側面に、その先端を突き刺した。

 不意に、ぼくはスプーンを置いた。

「ねえ、〈中村組〉のこと、知ってる?」

 母さんの表情が一気にこわばるのがわかった。懸命に笑顔を作っているけれど、緊張感が走ったのを、ぼくは見逃さなかった。

「どうしてそんなこと知りたいの?」

「軒下の仁義を切った星崎ほしざき君の家が盃を受けてた組って、〈中村組〉だったよね。そう名乗ってたでしょ。〈中村組〉とうちの組のあいだに、何かあったの?」

「そんなこと、知らなくていいの」

 母さんは、大人の言葉で答えた。

 大人の言葉は、嫌いだ。

 ぼくは母さんをじっと見返した。

「星崎君の家は、もう組から抜けたんだって。もう堅気なんだ。極道じゃないんだよ。だから……ぼくらとはつきあえないんだって、そう言ってた」

 母さんは、ふっと悲しげに息を吐いた。

「人にはいろいろな考えがあるわ。人の気持ちを無理矢理に変えることはできないの」

「じゃあ、ぼくはずっと日陰者でいろっていうの?」

「あなたには苦労をかけません」

 またも、母さんは大人の言葉を発した。

「でも、うちだって……〈御器所組〉だって、もう解散するんだよね。いいつまで我慢しなきゃいけないの? 後ろ指さされるのは、もう嫌だ!」

 ぼくの剣幕に、母さんは少し驚いた様子だった。が、すぐに真顔になった

「すっかり大人になったのねえ。いいでしょう、話すわ」

 そう言って、母さんは居ずまいを正した。

「春先に、うちの組が騒がしくなったことがあったわね?」

 覚えている。「二つの署名」事件のときだ。西の方から来た組と「戦争」になるかもしれない、というので、我が家に緊張が走ったことがあった。

「そのときに攻めてきた組って……?」

「そう、それが〈中村組〉だったの。お父さんが取り組んでいるお仕事のやり方が気に入らなかった。古い人たちね。わたしたちのクリーンでオープンな方法をやめさせようと介入してきた。お父さんがちゃんと話し合って、手打ちにはなった。けれど、まだ火種が残っているわ」

「また戦争になる?」

 母さんは苦笑して首を振った。

「昭和のヤクザ映画の見すぎ!」

 ヤクザ映画マニアの母さんにだけは、その台詞を言われたくない。

「今はそんな時代じゃないわ。でも、わたしたちの存在が、これまでつらい思いをいろいろな人にさせてしまったことは否定できない。星崎君の家も、そんな家族の一つね」

「でもそれって、うちの組のせい? ぼくのせいじゃないよ!」

「そう、あなたのせいじゃない。だから、お父さんは決断したの。これ以上、わたしたちは不幸にならないし、ほかの誰も不幸にさせない。星崎君の家の人たちも……あなたのクラスの生徒たちも、先生たちも、みんな」

「へええっ?」

 聞き間違いかと思った。

 しかし、そうじゃない。

「『クラスの生徒』って誰? 『先生』って、萱場かやば先生のこと?」

 勢い込んで訊いた。

 けれど母さんは、立ち上がってドアに向かった。

「話しすぎちゃった。お父さんに叱られるかも。焼きプリンの感想は、明日でいいから聞かせて」

 母さんは部屋から出て行った。

 ぼくは、スプーンで母さん手作りの焼きプリンをすくった。口に入れる。

 とてつもなく、美味しかった。


「また事件なんだってさ!」

 教室に入るや否や、有松ありまつ篤志あつしがめんどくさそうにぼくに告げた。顎で廊下を示す。そこには有松篤志の妹の侑愛ゆあが、両手に小さな拳を握って、今にもぴょんぴょん飛び跳ねそうな勢いで、ぼくたちの教室を覗き込んでいた。

「ねえ御器所君!」

 不意に呼びかける声は、キム銀河ウナだった。

 なんだか、それだけで気持ちが浮き立って、胸の奥が暖かくなる。

「あ、えーと、話があるんだったっけ? 昨日はごめん」

「御器所君って――」

 金銀河が問いかけようとした刹那だった。

「さあ行くぞ、御器所君!」

 ちょうど登校してきた不老翔太郎が、満面の笑みで割り込んでくる。

「あ、いや、今ちょっと――」

「銀河さん、僕には御器所君が必要なんだ。しばし彼をお借りするよ。さあ御器所君、事件が眼の前にある。急ごう」

 金銀河からの相談事と、不老翔太郎と解決すべき事件。

 どっちを選ぶべきだろう?

 どちらがぼくにとって、うれしくて楽しいことなのだろう?

 答えは決まっている……はずだった。

 ぼくは言った。

「ごめんね、あとで話を聞くよ!」

 不老翔太郎の背中を追って、ぼくは駆け出していた。


 もちろんぼくたちが向かったのは、四年二組の教室だった。

「見て見て!」

 有松侑愛が教室に駆け込み、壁を指差した。

「あ、やっぱり!」

 ぼくは思わず声を漏らした。

 小本こもと瑠衣るいの絵だけが、またしても逆さまになって壁に貼られていた。

 不老は無言のまま教室の後ろのロッカーに歩み寄った。ひらりと舞うようにして、ロッカーへと登る。そして昨日と同様、ていねいに四隅の画鋲を外す。またロッカーから音もなく猫のように降り立つと、ぼくへ画用紙を差し出した。

「御器所君、君はどう観る?」

 ぼくは、あらためて小本瑠衣の絵をよく調べた。

「そうだね。やっぱり昨日と同じだ。画鋲で新しい穴が空けられてないから、犯人は絵を逆さまにしてから、またわざわざ同じ穴に画鋲を刺したんだね」

「そのとおり。君も多少は観察することを覚えたようだね」

 と、そのときだった。

 教室に、チョコレート色のランドセルを背負った小本瑠衣が入ってくるところだった。

 有松侑愛が声を上げる。

「また瑠衣ちゃんの絵、逆さまになってたんだよ! ひどいよね!」

「もうっ、そのままにしといていいよ!」

 小本瑠衣は諦めた様子だった。

 不老はぼくから絵を奪うと、軽々とロッカーに上がった。素早く、しかしていねいに画鋲を四隅に刺した。

 絵は、逆転されたままだった。

「これでいいんだね?」

 確認するように不老は言った。

「いやいや、ちゃんと直してあげなよ!」

 ぼくは言ったが、不老はぼくを完全に無視して、小本瑠衣へ質問を続けた。

「この絵を描いたのは、L湖の畔の別荘からだと言っていたね。別荘地は湖の南側に建ち並んでいるはずだが、君のお宅の別荘も同じ南側にあるんだね?」

「方角とかわかんない。ほかにも周りに別荘はあるけど」

「湖の脇に建っている洋館は、美術館だね」

「ヨーカン? あ、湖の向こうの、綺麗なお城みたいな赤い建物のこと? 行ったことないからわかんない」

「なるほど、実に貴重な証言だ。君の絵でも見事に描けているよ」

 不老はにやりと笑みを浮かべると、くるりとぼくのほうを向き直った。

「さて、まだ時間がある。理科室へ行こう」

「へ? ど、どこに?」

「萱場先生に直接訊いても、適当にはぐらかされるだけだろう。しかし、築地つきじ先生なら、まっすぐに答えてくれるはずだよ」

「な、何のこと? 理科室? 築地先生?」

 ぼくは声を上げたけれど、不老翔太郎は、つかつかと四年二組の教室から足早に出て行く。


 理科室は、やっぱり薄暗くて、ほかのどの教室よりも気温が低く、ひんやりとしているように感じた。

 どうしても、一ヶ月前にあの「学校の怪談」事件で体験したことが脳内に甦ってしまう。

 あの事件での恐ろしい記憶がよみがえって、理科室の扉を開く手が少しぷるぷると震えてしまう。

「築地先生、もうトリックはなしに願いますよ」

 不老が理科室の奥の、理科準備室に向かって呼ばわった。

 少しの間をおいて、理科準備室の扉が開いた。白衣姿でスキンヘッド、まさにお坊さんのようないでたちの「築地和尚」こと築地先生が現れた。

「どうしたんですか? もう一時間目の授業が始まります」

「いえ、まだ六分二十秒あります」

 不老は築地先生に向かって歩み寄った。

「この街に、今まで存在していなかった外来種が現れたことはご存知ですか?」

 不老の単刀直入な問いに、築地先生は眼を見開いた。

「ええっ、外来種? それはたいへんだ! いったい、どんな外来種なんですか? まさかヒアリみたいに毒を持つ種類じゃないでしょうね?」

 身を乗り出して、今にも不老に摑みかからんばかりの剣幕だった。こんなに感情をむき出しにした築地先生を見るのははじめてだ。

「噂に聞いただけです。築地先生も、その外来種のことをご存知なかったのですね?」

「えっ、今はじめて聞きました。どこで見つかったんですか? すぐに保健所に報告しないと!」

 いつも「住職」のように落ち着いた築地先生が、焦って視線を泳がせた。

 そこでぼくは割り込んだ。

「素数ゼミがこの街に侵入してるってことを、築地先生と萱場先生が隠してるって話を聞いたんです」

「か、か、萱場先生? 素数ゼミ? 情報量が多すぎます……えーと、つまり、アメリカの十三年ゼミや十七年ゼミが、この街で見つかったんですか? それを萱場先生が発見した?」

 慌てふためいている築地先生を横目に、不老がちらりとぼくを見やった。

 ぼくたちの推理は、完全に間違っていた。素数ゼミなんて、まったく関係なかったのだ。

「外来種の話でなかったのなら、昨日は前山まえやま先生に何を訊かれたんですか?」

 不老の唐突な問いかけに、築地先生は狼狽のいろを隠せなかった。

「それは……君たちに話すようなことではありません」

 築地先生もまた「大人の言葉」を使った。大人はいつも、ぼくたち子どもが、何もわかってないと思い込んでいる。だから大人たちは、ほんとうのことをぼくたちに話そうとしない。

 ぼくたちは、大人が思ってるほど「子ども」じゃないのに。

 すると不老はじっと真剣な眼で、築地先生を見返した。

「シンプルな疑問があります。築地先生と萱場先生は、ほかの先生たちに隠し事をしていますね。そのことに、前山先生は気づいたんですね」

 一瞬の間があった。が、その「間」こそが、明確にひとつの答えを示していた。

「それも、話すべきことじゃありません。ほら、もうすぐチャイムが鳴ります。教室に戻らないと」

「実に参考になりました」

 不敵な笑みを浮かべ、不老はそそくさと理科準備室の扉に向かった。ぼくも慌てて追いかける。

 が、扉のそばで不老は立ち止まると、くるりと築地先生を振り返った。

 顔の前に人差し指を立てた。

「あともう一つだけ。須田すだ先生が生徒に何かを隠していることはご存知ありませんね?」

 いったい何を言い出す? ぼくは不老の隣で眼を白黒させてしまった。

「須田先生? 四年二組の? いやいや、そんなことはないでしょう」

「須田先生の言動に、何か不審なことはありませんでしたか? どんなに些細なことでもいいんです」

「不老君が何を疑っているのかわからないけれど、須田先生は清廉潔白です」

 と自信たっぷりに言った直後だった。

 何かを思い出したのか、築地先生の眼に鋭い光が走った。

「清廉潔白……四字熟語。そういえば……!」

「四字熟語がどうかしましたか?」

「まったくつまらないことです」

「構いません。ぜひ教えて下さい」

「いやぁ、全然関係ないと思います。昨日の職員会議のあとで、職員室で何人かで雑談してたんですよ。国語のことわざや古い四字熟語を今の子たちにどう伝えたらわかってもらえるか、なんてことを。そのとき、須田先生が変わったことをつぶやいてらっしゃいました。『うちの教室には明鏡止水がある』って。『明鏡止水の境地』とは言うけど、『明鏡止水がある』という表現は変ですよねえ」

 その刹那だった。不老は指をぱちん! と鳴らした。

「そうか、そうだったのか!」

「何がわかったの?」

 不老はにやりと微笑んだ。

「御器所君、さあ戻ろう!」

 不老が言うなり、扉を振り向いた。

「もったいぶらないで、教えてくれてもいいじゃないか。事件の真相がわかったの?」

「事件なんて、初めからなかったのさ」

「へ……?」

 ぼくが不満の声を漏らしたときには、不老翔太郎はすでに理科室から姿を消していた。


「逆転の図工」第6部(解決編)へつづく

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