第1話「逆転の図工」第4部

 しかし結論から言えば、ぼくたちは「鍵」を見つけることができなかった。

「べつにどうでもいいんだよねえ」

 小本こもと瑠衣るいは、彼女の家の玄関前でそっけなくぼくたちに答えた。メルヘンチックな可愛らしいデザインの新しい一戸建て住宅だ。小本瑠衣の口調は、まるで他人事のようだった。

「いいってことないよ! 誰かの嫌がらせだよ? しかも二回も!」

 星崎ほしざき雄之介ゆうのすけが口をとがらせた。けれど、小本瑠衣は被害者でありながら、なぜか迷惑げな表情だ。

「では、ほんとうに君は自分の絵が何者かに逆転されていても、その真相を知りたいと思わないんだね?」

 不老ふろう翔太郎しょうたろうが鋭く小本瑠衣を見つめた。が、小本瑠衣はその強い目線にたじろぐことはなかった。

「だから、そんなのどうでもいいの! 嫌がらせとかいじめとか思ってないから」

 小本瑠衣の答えははっきりしていた。

 強がりだろうか? ぼくは考えた。「自分はクラスでいじめられてなどいない」「自分に嫌がらせをする子なんかいない」――そう自分で思い込もうとしているんじゃないだろうか?

 だったら、なんとなくその気持ちはぼくにも理解できなくはない。

 自分は「ふつう」の生徒の一人だ――そう信じたいという心理は、ぼくにだってある。ぼくの家族がきわめて特殊な家であることは、物心ついた頃から痛いほど毎日感じていたし、そんなぼくとぼくの「家」へ向ける周りの大人たちの目線の冷ややかさも、ずっと感じ続けて生活している。

 さすがにぼくをいじめるような生徒はいない。けれど、それは逆に「我が家」の特殊性を裏返しでもあった。〈御器所ごきそ組〉組長の息子をいじめようと思う生徒なんているはずがない。

 ぼくは学校が嫌いじゃない。なんとか「ここは自分の居場所のはずだ」「ぼくはみんなと同じふつうの生徒のはずだ」と思い込んで、そう装って、これまでの小学校生活を送ってきた。少なくとも五年生の頃までは、そんな「うずき」を絶え間なく胸の奥のどこかで感じながら、毎日生活していたのは確かだ。

 小本瑠衣もまた、そんな思いを背負って学校生活を送っているんだろうか?

 だとすれば、突然自宅に現れた六年生たちに心を開いて、奥に隠れた本音を見せてくれるはずがなかった。一度築かれた心の壁は、厚くて簡単には崩して倒すことなんて、できるはずがない。

「もう帰ってくれる? 勝手に『事件』とか怖い話をしないで!」

 小本瑠衣は、本気で困った表情だった。

 不老翔太郎は、じっと彼女を見やった。

「君は、自分が描いた絵を誰かに勝手に触られても、まったく気にしないんだね」

 不老の問いに、小本瑠衣は答えなかった。ふてくされたような面持ちのまま、今にもぼくたちの前でピシャリと自宅のドアを閉めそうだった。

「最後に一つだけ質問に答えてくれたまえ」

 不老が訊くと、小本瑠衣は大きな眼をぱちくりさせた。そりゃそうだ。こんな言葉づかいをする小学六年生なんて、不老翔太郎のほかに出会ったはずがない。

「君の絵のモチーフとなった風景は、どこ?」

「モチ……?」

 小本瑠衣はますます怪訝そうな顔になった。不老の言葉を説明しようと口を開きかけた。けれど、その前に星崎雄之介が割り込んだ。

「つまり翔ちゃんが言うのは、家族旅行の絵は、どこの風景を描いたのか、ってこと」

 ようやく納得したように、小本瑠衣はうなずいた。

「L湖。おじいちゃんの別荘に、毎年行ってるの」

 L湖とは、昔から有名なリゾート地だ。ぼくも低学年のころに、何度か行ったことがある。冬は近くにあるスキー場でにぎわい、夏は涼しい避暑地として人気の土地だ。

「おじいちゃんの別荘から観た風景を描いたんだね」

 不老が訊ねると、小本瑠衣はうなずいた。

「絵は現場で描き始めたのかな? それとも自宅に帰宅してから、記憶を頼りに描いたのかどっち?」

 早口に訊ねる不老に対して、小本瑠衣が怪訝そうに眉間に皺を寄せた。

「『一つだけ質問』って言ったじゃん!」

 が、不老はその右の眉をぴくりと動かしただけだった。じっと小本瑠衣に鋭い視線を向けている。

「別荘のバルコニーで半分描いて、あとはママのスマホ借りて写真撮って、それを見ながらおうちで描いたの」

 あきらめたように、小本瑠衣は答えた。

「バルコニーで描き始めたのはいつ?」

「ねえ! 質問、全然一つだけじゃないじゃん。なんでそんなこと訊くの? 瑠衣、ほんとうに自分で描いたんだもん。ウソついてないもん!」

 今にも泣き出しそうな声だった。

しょうちゃん、もういいじゃん、かわいそうだよ!」

 たまらずに声を上げたのは星崎雄之介だ。ぼくもまったく同じ思いだ。

 けれど、不老は構わずに身を乗り出した。

「ほんとうにこれで最後の質問だ。君が絵を描いたのは、何月何日? そしてその日の何時頃なのかな?」

 小本瑠衣は、ほとんどおびえたような表情で不老翔太郎の顔を見上げた。そして、小さな声で、

「おじいちゃんの別荘に行った二日目……だから八月の十六日……描いたのは、朝ごはん食べてからすぐ後……」

 少し震える声で答えた。

 不老はというと、満面の笑顔で指を起用にぱちんと鳴らした。

「なるほど、実に参考になったよ。君の言葉にはウソはない。そして、真実の言葉には必ず真相への鍵が隠されている。その鍵の発見が望まれようと、望まれていなかろうともね」

 不老翔太郎は早口でまくしたてると、くるりと小本瑠衣に背を向けた。

 小本瑠衣はというと、不老とぼくたちに、まるでアルファ・ケンタウリ星人とファースト・コンタクトした宇宙飛行士のような目線を向けながら、逃げるようにして、玄関のドアを乱暴に閉じてしまった。

「悪いことしちゃったみたい……」

 ぼくはつぶやいた。すぐ脇で、星崎雄之介が何度もうなずく。

「さあお二方、すぐに学校に戻ろう!」

 不老翔太郎は、けろりとした表情で言い、足早に歩き始めた。

 思わず、ぼくたち二人は顔を見合わせた。

「不老って、前からあんな感じだった?」

 ぼくが小声で訊ねると、星崎雄之介は、ゆっくりとかぶりを振った。

「前よりも、もっと過激でヤバくなってるみたい。『探偵』って恐ろしいね。『翔ちゃんの伝記作家になる』なんて前に言ったけど、やっぱり僕にはしんどいなぁ。一君にまかせたほうがいいかも」

 伝記作家だって?

 もちろん、ぼくにだって無理だ。

 不老翔太郎という超絶変人に振り回される者同士として、ぼくは星崎雄之介に対して、小さな絆みたいなものを感じてしまうのも事実だった。


 不老翔太郎という男に汗腺は存在しないんだろうか?

 ぼくはすっかり汗で全身びしょびしょになってしまった。額からこぼれ落ちる汗が眼に入る。痛いことこの上ない。なのに、不老はというと、彼の周りだけ涼しげな風が吹いているかのようだった。平然としていて、まったく表情を変えていない。

 ふたたび校門をくぐったときには、すっかり疲れ切ってしまった。まだまだ夏の凶暴さは収まっていない。日差しが強すぎる。

「さて、実に興味深い光景じゃないか、星崎君!」

 唐突に不老翔太郎が言う。

 彼の目線をたどった。職員用出入り口に二つの影があった。一つは、六年二組の前山まえやま先生、もう一つは短髪で細身の白衣姿――理科部顧問の築地つきじ先生だった。二人の声は聞こえなかったが、若い前山先生が築地先生に、強い口調で詰問しているかのようだった。

 星崎雄之介が、ぽつりと言葉を漏らした。

「あの白衣の先生、何者?」

「築地先生っていうんだよ。夏休み前に、ぼくと不老がホラーな事件に出くわしたんだけど、その事件の関係者だよ」

 ちょっと得意げに、ぼくは答えた。

 星崎雄之介はうなずいた。けれど、その面持ちは決して納得しているようには見えなかった。

「何か君は知っているね、星崎君」

 不老の眼に光が宿った。

「えっ?、そんなことないよ。だって転校してきたばっかりだし」

「しばらく会わないうちに、深い洞察力を磨いたんだねえ、星崎君」

「え? 何言ってんの、翔ちゃん!」

 と、そのときだった。ぼくたちが話している眼の前で、前山先生が怒った表情のままくるりと背中を向けて、校舎の奥へと姿を消した。

 残された築地先生は、頭を掻き掻き、しばしうなだれていたけれど、うなだれながら校舎の中へ入って行った。

「まさか、築地先生と前山先生が不倫してて、別れ話がもつれてる……なんてことはないよね?」

 ぼくが言うと、不老翔太郎はあきれたように眼をぐるりと回した。

「君はいい意味で変わらないね、御器所君!」

 まったく褒められた気がしない。


 ぼくの眼の前に、夕張メロンブリュレパフェが置かれた。高さは三十センチを超える。実に見事な美しい風景だ。もしもぼくに小本瑠衣みたいな絵心があったなら、間違いなくこの芸術的な姿を淡い色の水彩画として描いたはずだ。

 でも幸か不幸か、ぼくには絵心がない。絵を描く前に、すぐさまその完璧なフォルムにスプーンを突っ込んで、破壊する。

「ほんとうに君は悩みがないんだねえ」

 向かいから余計なことを言うのは、不老翔太郎だ。かまわずにパフェをねじるようにすくって、口に放り込む。なんという甘美!

 ぼくの隣の星崎雄之介の前には、「桃とミルクのふわふわかき氷」が置かれている。向かいの不老翔太郎にいたっては、まったく信じられないことに、ホットのブラック・コーヒーを美味そうに飲んでいる。

 昼過ぎのファミリー・レストランは八割方席が埋まっていた。

「ねえ不老、絵の事件の真相、もう気づいてるんじゃないの?」

 スプーンでメロン・シャーベット部分をすくい取って口に入れた。きーんと冷えた幸せの塊が、舌から血管のなかに染み込んでいく。

「まさか。僕を買いかぶりすぎだよ。しかし、ほんとうに『事件』と呼ぶべきかどうか、悩みどころだね」

「どういう意味?」

 星崎雄之介が、桃とミルクのふわふわかき氷を口に入れた。彼の顔が甘味でゆるむのがぼくにもわかった。パフェも美味しいけど、あのかき氷を頼むべきだっただろうか? ぼくの口の中で、唾液がますます湧き出てきた。星崎雄之介が、ぼくにスプーン一杯おすそわけしてくれたりしないだろうなぁ……

「被害者はほんとうにいるんだろうか? 被害者が存在せず、加害者だけが存在する事件などあり得るだろうか」

 不老翔太郎はホット・コーヒーのカップを中空に持ち上げたまま、立ち上る湯気越しに遠くを見つめていた。

 が、ふと我に返った様子で、不老は星崎雄之介に眼を向けた。

「前山先生が何を話していたか、覚えているかい?」

 唐突すぎる質問に、星崎は眼を白黒させた。

「うちのクラスの前山先生が? 話って何の話?」

「昨日は話半分で君は帰ってしまったじゃないか。ぜひ教えてくれたまえ」

 不老翔太郎は、熱々のホット・コーヒーを顔色一つ変えずにごくりと飲み込んだ。

「そういえば前山先生、今朝も廊下で萱場かやば先生とすれ違うとき、にらんでるみたいだったなぁ」

 星崎雄之介は、スプーン山盛りのふわふわかき氷を口に放り込んだ。うらやましい。

「じゃあ、昨日は前山先生がどんなふうに怒ってたか、覚えてる?」

 ぼくは訊いた。

「えーと……はっきり全部聞こえたわけじゃないよ。萱場先生が何かを秘密にしてることに怒ってたみたいなんだ。小声だったけど、『どうして教えてくれないんですか』とか『勝手な行動』とか……ああ、そうそう、それ以外にヘンなことも聞こえたっけ」

「どんな?」

「前山先生、なんとかいうセミのことを怒ってた」

「セミ? もう九月だし、セミは鳴いてないなぁ」

 ぼくはパフェを口に放り込みながら言った。

「だから僕もヘンだと思ったよ。でも、前山先生は、やたら怒った口調で、萱場先生に問い詰めてるみたいだった」

「セミのことを?」

 まったく話が見えてこない。当の星崎雄之介自身にも、見えているわけではなさそうだった。

「『去年入ってきたばかりのナントカゼミがおかしい』とか……」

「ナントカゼミ? どんなセミ?」

「あ、思い出してきた! なんとかシューゼミ、えーと、なんとかスーゼミだったかな? ハスーゼミ……じゃない。何スーゼミとか言ってたんだ」

「ソスーゼミじゃないのかな?」

 不老翔太郎が口を挟む。星崎雄之介は首を傾げた。

「あー、そうだったかもしれないなぁ」

「へ? ミンミンゼミとかクマゼミとかアブラゼミは知ってるよ。けど、ソスーゼミなんて聞いたことない。昆虫図鑑でも見たことないよ」

 ぼくが言うと、不老は不敵な笑みを浮かべた。あ、これはヤバいな、と思ったときには遅かった。

 不老翔太郎は、一気呵成に喋りだした。

「御器所君も、セミの生態について最低限の知識は持っているはずだね。あえてここで説明するまでもないが、セミは無脊椎動物の節足動物門昆虫綱頚吻けいふん亜目セミ科セミ亜科に属する昆虫であり、したがって不完全変態だ。幼虫の姿のまま長期間を地中で過ごし、時期が来れば地上に出て脱皮して成虫になる。樹液をおもな食料として、オスが求愛のために腹部内部の発音筋を振動させることによって発音膜から特有の『鳴き声』を発する……といった程度の知識は無論、御器所君も持ち合わせているはずだね」

「えーっと……たぶん、知ってる」

 ちらっと星崎に眼を向けたら、彼は笑いを必死に押し殺していた。

 不老は構うことなく、まくしたてた。

「セミは幼虫の時期が長いのは知っているだろう? アブラゼミやミンミンゼミならば三~四年。クマゼミなら四~五年、ツクツクボウシなら一、二年間、幼虫として地中で生活すると言われている」

「成虫になってからの人生……えーっとセミ生って、ものすごく短いんだよね」

 ぼくは口を挟んだが、不老は聞いているのかいないのか、さらに早口で質問をぶつけてきた。

「君たちは当然、素数とは何かを知っているね?」

「ソ、ソスー?」

 ぼくが目を白黒させていると、すかさず星崎が声を放った。

「素数か! 自分自身と1以外で割り切れない整数のことだよね。2とか3とか5とか!」

 不老は感心した様子も見せず、表情を変えずに続けた。

「北米大陸に生息する素数ゼミとは、幼虫の期間を素数の年だけ過ごし、地上に出てくるセミの総称なんだ。具体的には、13年ゼミ、もしくは17年ゼミが知られている。彼らは13年もしくは17年間、地中で幼虫として暮らし、13年ごと、17年ごとに地上に現れて成虫になる」

「へえ! セミが算数を知ってるの? っていうか、なんでわざわざ素数を選んだの?」

 ぼくは裏返った声をあげてしまった。不老翔太郎は右眉をぴくりと上げた。

「いいかい、御器所君。もしも12年ゼミがいたとしよう。彼らは12年ごとに、成虫になる。たとえば今年成虫になったとしたら、その子の世代は12年後に成虫になる」

「ぼくだって、そのくらいはわかるよ。で、12年ゼミと13年ゼミの何が違うんだ?」

「セミの餌は樹液だね。いかなる生物であっても、その餌となるものは無尽蔵ではなく、限りがある。ライヴァルとは競合したくはない。さて御器所君に質問だ。12の約数は何だい? 実に初歩的さ」

 ぼくはむっとした。馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。

「1と2と、えーっと……3、4、6、12! そのくらいわかるよ!」

「上出来だ。もしも12年ゼミがいたとしよう。今年12年ゼミが成虫になったとしたら、その子どもの世代は、同じ12年ゼミの次世代だけでなく、今年成虫になった6年ゼミの孫、すなわち2世代後、4年ゼミの3世代後、3年ゼミの4世代後、2年ゼミの6世代後、1年ゼミの12世代後と、同じタイミングで成虫になる。もう一度言うが、餌は限られているんだ。あまりにも競合する敵が多すぎはしないかい?」

「は、はあ……」

 ぼくは算数が苦手だ。けれど、なんとなくわかる気がする。

「成虫になる周期の約数の個数が多ければ、それだけ競合する相手は多いことになるね。逆に、約数の個数が少ない――もっとも少ない素数であれば、競合する相手は限られる。今年成虫になった13年ゼミのライバルは、同じく今年に成虫になった13年ゼミ――もしくは、現実に存在しないが――26年ゼミ、39年ゼミ……しかいない。生存する上でたいへんに有利だ」

「へえ、セミって賢いんだねえ!」

 星崎が声を上げると、すかさず不老が冷ややかに言った。

「それは違うよ、星崎君。そう誤解してしまうところこそが、我々ホモ・サピエンスの愚かしいところさ。生物は目的を持って一方向に進化しているわけじゃない。我々が認識し得る進化とはランダムかつ多様な分化を経たのちの『結果』に過ぎないんだ」

「えーと、そういう難しい話は今してないんだけど……」

 ぼくの言葉を見事に黙殺し、不老は早口で語り続ける。

「かつてはラマルクの提唱した『用不用説』に代表されるように、獲得形質は遺伝すると信じられていた。しかしダーウィンの『自然選択説』以後、生物が一つの目的に向かって能動的に姿かたちを変えるなどという考えは、完全に否定されているよ」

 ぼくはため息をついた。星崎雄之介は苦笑いしている。彼は言った。

「それで、素数ゼミって日本には生息していないの?」

「ああ、13年ゼミも17年ゼミも、生息地は北米大陸に限られている」

 そう答えた不老翔太郎は、右の眉をぴくりと動かした。人差し指を伸ばし、唇に当てると瞑想するような表情になった。

「星崎君、前山先生は『去年入ってきたばかり』と言っていた……間違いないね」

「うん、確かそう聞こえた」

 そのとき、我が虹色の脳細胞がキラキラと電撃を放った。

「そっか! 外来種ってことなんだ。日本に生息していないはずの素数ゼミが、去年入り込んできたんだよ!」

「しかし、そんな事実は聞いたことがないし、環境省のサイトでも報告されていないね」

 不老が、スマートフォンの画面にタッチしながら、冷静に言う。

 え?

 スマートフォン?

「またか!」

 声を上げた。

 不老翔太郎はの掏摸すりの能力は、ほんとうに恐ろしい。罪悪感のかけらも見せずに、そのままぼくから掏摸取ったスマートフォンを操作し続けられる感覚もまた、恐ろしい。人間として、何かが決定的に欠落しているとしか思えない。

 ぼくは不老からスマートフォンをもぎ取った。ため息まじりに言った。

「まだ素数ゼミのことが報告されていないだけかもしれないよ」

 不意に、星崎がはっとして眼を見開いた。

「前山先生って、去年からこの学校に赴任して来たんだよね。ということは、この街のことをまだよく知らないはず」

「続けたまえ」

 興味を惹かれた様子で不老が言う。

「前山先生は、素数ゼミがこの街に生息してることに気づいたんじゃないかな? そこで、外来種が侵入していることを萱場先生に話した。昨年この街に来た前山先生でも素数ゼミの存在を見つけられたんだ。萱場先生はもっと前から知っていたに違いないよ。ところが、萱場先生はとっくにそのことを知っていながら、保健所にも環境省にも、どこにも報告しないで、今まで何の対策も講じようとしなかった。先生なのに、環境問題のことなんか全然気にしてない。だから前山先生は、萱場先生に対してすごく怒ったんだよ」

 ぼくだって星崎雄之介に負けるわけにいかなかった。身を乗り出して、不老と星崎の二人を得意げに見やると言葉を挟んだ。

「萱場先生が外来種の侵入を黙殺していたことに気づいた前山先生は、次に何をすると思う? 当然、生物に詳しい先生に相談するはずだよ。だからさっき、築地先生と話していたんだ」

 星崎雄之介がぱっと顔を輝かせた。

「なるほどね! 一君、すごい推理だよ! さっき校舎の前で二人が言い合いをしていたということは、築地先生もやっぱり萱場先生と同じように素数ゼミの侵入を知っていたのに、何も行動していなかったんだよ、きっと」

 ぼくの虹色の脳細胞が、頭蓋骨の下でピカピカと火花を散らすのを感じた。

 夏休み中に起きた、あの「学校の怪談」事件を思い出す。萱場先生は、何かぼくたちに隠している様子だし、その隠し事は、今でもわかっていない。築地先生もまた、見た目は優しく慈愛あふれるお坊さんのように見えるけれど、「学校の怪談」事件では奇妙な活躍をした。一筋縄では行かない先生だ。

 謎がいろいろとつながっていく! ぼくは自分の推理力に、震えた。

「ねえ不老、この推理は的を射てるんじゃない? きっと鍵を握ってるのは築地先生なんだ」

 勢い込んで言った。ぼくの鼻の穴が二割増しで膨らんでいたかもしれない。

 が、不老はというと、一向に感動した様子がなかった。涼しい顔をして、暑いコーヒーのカップをあおった。

「確かに、面白いといえば面白い。築地先生にあたってみる必要があるかもしれないが、先に話を聞くべきは、須田先生だね」

「へ? 須田先生? 四年二組の?」

 またわけのわからないことを言い出す。

 ぼくはため息をつき、眼の前の夕張メロンブリュレパフェにスプーンを刺した――つもりだった。

 信じられない。いつの間にか、パフェが消失している!

 これこそ事件だ。いったいぜんたいいつの間に、ぼくの胃袋の中へパフェは収まったのか?

 ちょうどそのタイミングで、ぼくたちのテーブルに影が落ちた。ちょうどいいタイミングだ。

「あ、すいません。『桃とミルクのふわふわかき氷』を一つ――」

 言いかけた言葉を飲み込んだ。

 立っていたのは、店員さんではなかった。

「元気そうだね、翔太郎君」

 すらりと背の高い女の人だった。膝丈の紺色のショートパンツに、白い半袖ブラウス姿だった。髪は短く、まるで少年のようだ。唇がとても赤いのが印象的だ。

すみれさんも、すっかり大人ですね」

 不老の顔が心なしか紅潮しているように見えたのは、ぼくの気のせいだろうか。

「あ、ぼくは――」

 自己紹介をしようとした。けれど、菫さんと呼ばれた女性は、ぼくに鋭い視線を向けた。

「知ってるわよ。君がはじめ君ね。〈御器所組〉の」

「え……」

 冷房よりもはるかに冷えた視線だった。ぼくの体温まで一気に冷える気がした。

 女性の笑みが、鋭くぼくに突き刺さる。

 それは、敵意だった。冷たい怒りと嫌悪の込められた、暗い笑みだった。

「わたしは、雄之介の姉の菫。星崎菫」

 そう言って菫さんは、星崎雄之介に顔を向けた。

「さ、雄之介、行くよ」

「あ……お姉ちゃん……」

 申し訳無さそうな表情をぼくと不老翔太郎に向けながら、不承不承星崎雄之介が立ち上がった。

「翔太郎君の元気そうな顔を見られてうれしいよ。でも、雄之介やわたしたちは、もう堅気なの」

 星崎菫さんは、不老の顔をじっと見ながら言った。

「わたしたちはもう、極道とは縁を切っているの。だから、堅気じゃない家の人とは、もう絶対に仲良くできない」

 去り際、星崎菫さんは貫くような視線を一瞬だけぼくに向けた。氷のような視線が、ぼくの胸の奥のほうに突き刺さる。

 申し訳なさそうな表情の雄之介を引きずるようにして、星崎菫さんはファミリー・レストランから去って行くのだった。


「逆転の図工」第5部につづく

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