第1話「逆転の図工」第3部

 放課後の四年二組の教室には、まだ六、七人の生徒たちが残っておしゃべりをしていた。ぼくたちが足を踏み入れると、いっせいに警戒した目線が向けられた。いきなり六年生が三人、勢い込んで駆け込んできたのだから、驚くのは当然だ。

「お兄ちゃん、こっち!」

 一人の女の子が手招きをする。髪はショートカットで男の子っぽい風貌だ。四年生にしては小柄な女の子だった。

 有松ありまつ篤志あつしがふてくされたような表情でその女の子を見やってから、ぼくたちをに合図した。

「ねえねえお兄ちゃん、瑠衣るいちゃんの絵を見て!」

 女の子はぴょんぴょんと飛び跳ねながら、有松篤志の腕にしがみついた。仲良しの兄妹のようだ。一人っ子のぼくは、ちょっとうらやましい気分になる。

「うっせーな、近すぎるんだよぉ!」

 モゴモゴと口ごもりながら有松篤志は声を漏らしたながら、妹に腕を引っ張られた。ぼくと不老ふろう翔太郎しょうたろうは、彼のあとを追った。

「ほら見て!」

 有松侑愛ゆあが指差したのは、教室の後ろの壁だった。教材を入れるためのロッカーが胸の高さまで並び、背後の壁の中央には小型の黒板。どの小学校の教室とも同じつくりだ。

 小黒板の左右の一面に、生徒たちの描いた絵が掲示されていた。おそらく「夏休み思い出」という宿題なのだろう。遊園地、動物園、家族で花火……それぞれの思い出がいろいな筆致で描かれている。四年生らしく拙い絵がほとんどだったけれど、中でも数枚は、びっくりするほど上手な絵もあった。描いた子に絵心があるのかもしれないし、夏休みの宿題なので、自宅で親に手伝ってもらったのかもしれない。ぼくにもその経験がないと言ったら嘘になる。

「この絵!」

 有松侑愛の差し伸べた腕の先には、一枚の絵があった。

 画用紙には、山と湖、そして真っ赤なお城のような建物が水彩絵の具で描かれていた。青と緑、黄色、紫……たくみにいろいろな絵の具を使って描かれた、見事な絵だった。人の姿は描かれていない。輪郭がぼやけ、全体的に淡いタッチだ。晴れた日に眼の前に広がる湖と、その向こうの木が生い茂った山。そしてもっとも目立つのは、画用紙の左側に描かれた、赤い色に染められた建物だ。揺らぐ湖の上に、陽炎のように赤色の西洋館と思しき建物が建っていて、まるでファンタジーの世界に入り込んだような気持ちにさせられる。四年生にしては……いや、それどころか小学生とは思えないほど上手い絵だった。

 ただひとつだけ、その絵にはおかしなところがあった。

 その絵は、上下逆さまに壁に貼られていたのだ。

「ほう、興味深いね!」

 ニコニコして言い放ったのは、もちろん不老翔太郎だ。

「ひどいでしょ! 瑠衣ちゃんの絵だけ、勝手に逆さまにした子がいるんだよ!」

「翔ちゃん、事件なら教えてよ!」

 いきなり背後から声が聞こえた。振り返ると、いつの間に現れたのか、そこには星崎ほしざき雄之介ゆうのすけが笑顔で立っていた。

「いいところに来てくれたよ、星崎君。複数の視点から事件を観察するのは重要だからね」

 不老翔太郎は、うれしそうに揉み手をした。

「さて、事件の経緯を教えてもらおうか。被害に遭った小本瑠衣さんはどちらかな?」

 不老が教室を見回すと、有松侑愛が「帰っちゃった」と一言答えた。

 不老の右の眉がぴくりと上がった。

「どうして? 被害者なのに?」

 星崎雄之介が不老に問いかけた。不老は静かに有松侑愛へ向き直った。

「わかっている限りの、事件の経緯を教えてくれるかな?」

「えっとねー……」

 有松侑愛の話はなかなか要領を得なかったが、まとめると以下のようなものだった。

 小本こもと瑠衣るいという生徒は絵が好きで、絵画教室にも通っているという。けれど少し変わり者で、一学期の頃から、クラスでも友だちがほとんどいなかった。有松侑愛は、そんな彼女のことをずっと気にかけていたが、当の本人は、べつにそれを苦にしている様子もなかった。それは、有松侑愛には理解できないことだった。

 お盆明けの出校日でも、教室中が久しぶりに再会した生徒たちがにぎやかにしている中、小本瑠衣だけは一人、ノートに絵を描いていた。

 昨日の始業式、生徒たちは夏休みの宿題を提出した。そのなかには、もちろん図工の宿題である「夏休みの思い出の絵」もあった。

 終業後に生徒たちは帰宅した。が、担任の須田すだ先生と〈掲示係〉の生徒二人だけは残って、夏休みの宿題の絵画を壁に画鋲で貼り付ける作業を二十分ほど行った。須田先生は、まさに「頼りにできるお母さん」といった雰囲気の五十代のベテラン先生だ。

「ふむ、掲示係の話を聞く必要がある」

 不老が言うと、一人の男子生徒が手を上げた。

「あ、掲示係って、俺! ちゃんと係の仕事やったよ!」

「もう一人の掲示係は?」

 不老が問うと、男子生徒からは意外な答えが返ってきた。

「小本だよ」

「ほう!」

 不老の眉がさらに上がった。

 ぼくは男の子に訊ねた。

「具体的にどんな作業をしたのか、教えて。誰がどこの掲示物を貼ったのかな?」

「いい質問だね、御器所ごきそ君!」

 不老が口を挟む。少し恥ずかしいが、悪い気はしなかった。

 男の子は答えた。

「俺が後ろの右半分で、小本が左半分。先生は、前の黒板の横の時間割とか貼ってた」

 すると、星崎雄之介が裏返った声を上げた。

「じゃあ、小本って子は、自分の絵を自分で壁に貼ったってことじゃんね!」

「作業が終わったらすぐに君たちは教室を出て帰ったのかな?」

「うん」

「そのときに先生は教室の施錠を――つまり、鍵をかけたんだろうね?」

「あっ、そうだっけ。先生が鍵をかけるところ、俺も小本も見てた。で、俺たち家が近いから、一緒に帰ったんだ」

 意外な証言だった。だとすると、今朝になるまで教室は鍵をかけられたままの密室状態だったことになる。誰にも絵をさかさまに貼り替えるチャンスがない。

「今朝、最初に小本さんの絵が逆転されていることに気づいたのは、小本さん自身なのかな?」

「ううん、わたしだよ!」

 有松侑愛が誇らしげに手を上げた。

「朝、みんなで絵を見てたときに気づいたの。だからびっくりして、それに腹が立っちゃって、大声で『瑠衣ちゃんの絵をいじったの誰ーっ?』って叫んじゃった」

 有松侑愛は、兄とは違ってずいぶんと大胆な性格のようだった。

「そのときの小本さんの――それからほかの生徒たちの様子は?」

「誰も、悪いことをして隠してるように見えなかったよ。瑠衣ちゃんももっと怒ったらいいのに、瑠衣ちゃん優しいから『騒がないでいいよ』って言い張ってた。けど、悪いことには悪いって言わないといけないよね!」

 有松侑愛の正義感が強いことはわかった。けれど、ぼくは必ずしもその気持ちに賛成できなかった。

「ぼくが小本さんの立場だったら、大ごとにして欲しくはないかな……」

 思わずつぶやいた。

「当然、その場で絵をもとに戻したんだろうね」

 不老が言うと、有松侑愛はうなずいた。

「うん。先生も怒ってた。誰がやったのかってみんなに訊いたけど、誰も答えなかった」

「そうだろうね。が、ご覧の通り今はまた絵がこの状態になっている。ふたたびこの絵が逆転されたことに気づいたのはいつのこと?」

「ついさっき! 〈帰りの会〉のあと。クラスのみんなは帰り始めてたけど、わたしたちしばらくおしゃべりしてたの。なんとなく後ろを見たら、また瑠衣ちゃんの絵が逆さまになってたの! わたしがまっさきに気づいたんだよ!」

 有松侑愛が得意げに答える。

「つまり、担任の先生もまだ知らないの?」

 口を挟んだのは星崎雄之介だ。

「言いに行ったよ。けど、職員会議があって、職員室に入れなかった」

 不老は腕組みをして、壁の絵を見やった。

「では小本瑠衣さんは、ふたたび絵が逆転されていることを知らないままに、もう帰路についてしまったんだね?」

「うん」

 ぼくは不老に向かって訊ねた。

「犯人が二度目に絵を逆さまにしたのは、いったいいつなんだろう?」

「それは二時間目さ」

 こともなげに不老は答え、ぼくは「へえっ?」と声を上げてしまった。星崎雄之介も、声こそ上げなかったが、眼を丸くしている。

「二人ともどうしたんだい、初歩的なことで驚くなんて? 夏休みボケがひどいね。黒板の横に時間割が貼ってあるじゃないか。今日のこのクラスの二時間目の授業は音楽だ」

 確かに、あまりにも初歩的だった。生徒たちが教室から出て音楽室に移動するタイミングでしか、誰にも見られることなく掲示された絵を逆転する機会はない。

「音楽室に移動するとき、なにか気づいたことはないかな?」

 不老翔太郎は、教室にいる生徒たちに向かって声を投げかけた。が、みんな一様に首を振るばかりだった。

 不老は続けた。

「三年生までは、担任の先生が音楽の授業を行う。けれど、この小学校では四年生から、音楽の授業は音楽担当の高岳先生が行うことになっているね。つまり、クラスの生徒たちはみんな教室を出て、音楽室に行くはずだ。そのときに教室を施錠したのは、須田みづき先生なんだろうね」

 不老の問いに、有松侑愛はうなずいた。

「教室の鍵は、音楽の時間のあいだ、誰が保管していたのかな?」

 不老が訊いたが、ぼくが割り込んだ。

「普通、教室移動するときには、学級委員が鍵を保管するルールになっているよ」

 すると星崎雄之介が声を上げた。

「じゃあ、学級委員だったら、誰もいない時間に教室の鍵を開けて侵入することができるわけだ!」

 しかし、有松侑愛の答えはとてもシンプルだった。

「ううん、須田先生がずっと鍵を持ってた。三時間目の始まる前に、先生がいちばん先に来て、教室の鍵を開けてくれたの。いつも音楽の時間はそうだよ」

 有松侑愛が答えた。

 つまり、唯一可能性のあった二時間目もまた、教室は完全に密室だった。生徒の誰も侵入することはできない。

「不可能犯罪じゃないか、不老!」

 ぼくは思わず口走っていた。

 不老翔太郎は、にやりと笑みを見せた。

「人間が行う行為に、不可能などありえない」

 そう言うなり、不老翔太郎はひょいとロッカーの上によじ登った。そして小本瑠衣の絵を留めた四隅の画鋲に顔を近づけた。いったいぜんたいどこに隠し持っていたのか、いつの間にかその手には虫眼鏡があった。不老は小本瑠衣の絵の表面全体を、なめるようにして虫眼鏡で観察し始めた。

「すごーい! 不老君ってまるで探偵みたい!」

 有松侑愛が声を上げた。兄の有松篤志はというと、呆れた様子で不老の姿を見ていた。

 不老は絵を留めた四隅の画鋲を慎重に抜き取り、絵を壁からはずした。ひらりとロッカーから降りると、絵の表と裏をなめるように虫眼鏡で観察している。

「何か手がかりはあった?」

 星崎雄之介が訊く。

「画用紙の裏側に、名前が書いてある」

 不老翔太郎は平然と答えた。

「そりゃあ当たり前だよ、誰だって自分の絵に名前を書くよ! 表に書くわけにいかないし!」

 ぼくは声を上げた。が、不老は右眉をぴくりと上げた。

「果たして当たり前なのだろうか……」

 何が言いたいのかわからない。ぼくは呆れながら、不老の手から小本瑠衣の絵を取って、ためつすがめつした。

 かたわらの星崎雄之介は、興味ありげに不老の顔を覗きこんでいる。

「翔ちゃんが何かひらめいたね! 被害者から話を訊かないといけないんじゃない?」

「そのとおりさ、星崎君! さすが、君は僕の推理のプロセスをちゃんと理解してくれているね」

「そりゃあそうだよ。翔ちゃんが名探偵だっていうことを最初に見抜いたのはぼくだよ?」

 得意げに星崎雄之介は言った。不老翔太郎は、唇の端をうれしそうにぴくりと動かした。

「いや、それにはいささかの事実誤認がある。僕の推理力を最初に認めてくれたのは、菫さんさ。ところで御器所君、壁にその絵を貼り直してくれるね。できるだけ、丁寧に」

 そのとき、ぼくは「あっ」と小さく声を漏らしてしまった。

「お、今度は一君がひらめいたの? 推理力って伝染するんだね!」

「この画鋲、みんな同じ穴に刺さってる……!」

「ご明察だ、実にいいところに気づいたね、御器所君」

 不老がぱちんと指を鳴らした。星崎がぼくの手の中の絵を覗き込む。

「ほんとだ、何度も抜いたり刺したりしたんだったら、穴が何か所かあるはずだけど、画用紙の四角には一個ずつしか穴がない! ってことは、同じ穴に画鋲が刺さったんだ」

 星崎雄之介は言い、ぼくも勢い込んで続けた。

「『刺さった』んじゃなくて、わざと刺したんだよ。つまり、犯人は絵を逆さまにするとき、わざわざ慎重に画鋲を同じ穴に刺し直したってことだよね! でも、どうしてそんなことをしたんだろう?」

 不老は顔の前に人差し指を立てた。

「画用紙に新たな穴を空けたくなかったのだろう」

「どうして?」

 ぼくと星崎雄之介は同時にハモって同じ質問を放った。

 不老翔太郎は、ぴくりと右の眉を上げた。

「そこに何かしらの鍵が隠されているに違いない。だからこそ小本瑠衣さんの証言が必要なのさ。さあ、早く絵をもとに戻すんだ。画用紙に余計な穴が空かないように、慎重にね!」


「逆転の図工」第4部へつづく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る