KHM021 / 第二章 銀リスとガラスの讃美曲
第1話 はじめまして、魔女のおにーさん
空気は少しだけ冷たく、陽光はほのかなぬくもりをはらんでいる。
真っ白なシーツの波の狭間で、アンナは両腕を伸ばした。薄い生地を何枚も重ねて作られた
夜明け色の髪を持つ彼だ。
「髪、結んでさしあげたいわ」
青年がやや不満そうに
「そこまで長くない」
「でも、結べないほど短くもないでしょう」アンナは試しに青年の髪を後ろにまとめてみた。「ほら、わたくしの指の長さくらいかしら。ちょっとだけ余るもの。花束につかうリボンで結んだら、とびきり美しくなるはずよ」
普段は隠れている耳元と首筋が見えるのも
「アンナ」
低い声で名前を呼ばれて、アンナはどきりとしてしまう。めったに笑わない青年が、少しだけ満足そうに頬を緩めたものだから、心臓がいっそう早く鼓動を打った。
「ルーさま……あの……」
「意識してくれているようで何より」青年は流し目でアンナを見つめたまま、今度は
「まっ、待たせるって……なにを……?」
「分からない?」
まるで子供が甘えるような口ぶりなのに、瞳の奥では夜を知る大人の
ましろの花弁をとおしたように、春の朝の空気は
それから。
*****
「んんん……ルーさま……駄目よ……」
「……アンナ・ビルツ」
「んふ、駄目だったら……えへへ……わたくしにだって心の準備ってものが……」
「アンナ・ビルツ!」
「ぴゃ!?」
ぱん、と耳元で手を叩かれて、アンナは飛び起きた。ぐしゃぐしゃに乱れたベッドのうえで、よだれまみれの枕を抱えた彼女は二度ほど目をしばたたかせる。
「は、え、ルーさま? えっ?」
「お目覚めになられたようで、なにより」
黒シャツとズボンをきっちりと身に着けた青年――ルーは、ベッドのそばで腕を組んだ。
カーテンの隙間からは光が漏れている。どうやら、朝らしい。そのことはわかったのだけれど、アンナはまじまじと腕の中の枕と、彼を見比べた。
「ルーさま、わたくしと一緒に寝てらっしゃったわよね……?」
ルーが半眼になった。
「……何の話だ」
「えっ! だ、だって、こんなにベッドも乱れてるし」
「君の
「それに、ぎゅっと抱きしめてくださったりとか、わたくしの名前を呼んでくださったりとか、き、」先ほどまでの光景を思い出して、アンナは頬を赤らめた。「ききききキスとか!! それからそのあとのっ! あのっ!! ルーさまの指先が、わたくしのっ! ぴょあ!?」
ルーが無言でカーテンを引き、差し込んだ春の光がアンナの目を直撃した。思わず枕に顔を
「先に
「あう……ルーさまったら、つれないわ……」
「冷めた紅茶を飲みたいのなら、どうぞご自由に」
「そんな……! 紅茶を人質にとるなんて、あんまり……あっ、そうだわ」
扉を半分開けたルーが振り返った。アンナは乱れた夜着の胸元を押さえ、
「ご興味があるなら、わたくしの着替えをご覧になってもいいのよ……?」
「……一生眠ってろ」
「きゃあ、ルーさま! そんなゴミを見るような目をなさらなくても! 思わず胸がときめいちゃうわ!」
ばたんと扉がしまる音が春の空気に響く。アンナは遠ざかる足音を笑顔で聞き届けた。
それから心の中だけで数えること、三つ。
「今ので大丈夫……のはずよね?」
ベッドから飛び降り、おろおろしながら取り出したのは、『
そっけない異性には、あざとかわいさで
「んんん……顔の角度も、言葉選びも間違ってないはず……はずだけれど……」
アンナは本で鼻先を隠しながら、ベッドの
ううん、これはなんというか。
「雰囲気づくりがいまいちって感じだねえ」
耳元で面白がるような男の声が聞こえて、アンナは飛び上がった。
振り返った先で、白銀の髪の優男がへらりと笑う。
「やあやあ、
「……何の御用ですの、アルヴィム先生」
「いやだなあ、そんなに
「なんでもありませ、あっ!」
アルヴィムはひょいと本を取りあげた。慌てて奪い返そうとするアンナを器用に避けながら、ページをめくる。
「いやー、恋愛指南書なんか読んで、ずいぶん成長したなあ」
「ちょっと! 横取りするなんて
「ふむふむ、本の真ん中くらいで結婚式の話になって、そのあとは夫婦円満の
「返してくださいっ!」
やっとの思いでアンナが本を奪い返せば、白銀のふわふわ男は面白いことを思いついたと言わんばかりににやっと笑った。
アンナは思わず後ずさる。
「……なんですの、その顔は」
「んんんー? そんな、俺はなにも考えてないよ? なんといっても清く正しい先生だからね。ただねえ、やっぱり過去、現在、未来をきちんと考えて計画をたてるべきじゃないかい。うん、俺はそう思うな」
「話が分かりにくいのだわ。もっとはっきりと、」
「ルーにも好きな女の子ができるかもしれないよね」
ぶすっと胸を刺すような言葉に、アンナはよろめいた。
その可能性は考えなかったわけではない。なんといっても、ルーは美しいし、近寄りがたい性格だけれど優しい一面もあるし、礼儀作法だって完璧だ。彼のそんなところにアンナの胸はときめくわけで、当然世の女性もほうっておかないだろう。
でも、でもだ。だからって。
「なにも……そんなにはっきりとおっしゃらなくても……!」
「君がはっきりしろと言ったんだよ、
「冗談ですの!? 本当に!?」
「本題はこっち」
いらぬ心配の渦に放り込まれたアンナを置き去りにして、アルヴィムは小箱と封筒を押しつける。
箱の中身は綺麗に修理された
というかこれ、一度開けて、もう一度閉めたんじゃないかしら。やけにそわそわしているアルヴィムを横目に見つつ、慎重に封をあける。詰め込まれた紙片、その最初の一枚に書かれている文字を読み上げた。
「わくわく! ルネ地方のんびり癒やし旅行にご招待……ご招待?」
「そういうこと!」アンナの指先から紙を取り上げたアルヴィムは、どうだと言わんばかりに改めて広げてみせた。「というわけで、明日から俺は旅行に行ってくるので!」
「えっ、わたくしじゃないの?」
「やだなあ、君には魔女たちの世話があるだろ。これは見せびらかしたかっただけ」
「……最低だわ……」
「そんなことはないさ。証拠にほら、引き継ぎ資料をきちんと準備しておいたからね」
「引き継ぎ資料って」
とんとんと、アルヴィムが残った紙束を叩くが、聞きたいのはそういうことではない。アンナは紙束を握りしめ、アルヴィムをじっと見た。
「お待ちになって。魔女さんたちが来るまでに、帰ってくるのではないの? 彼らに力の使い方を教えるのは先生の役目だったはずよ」
「それがねえ、そういうわけにもいかないんだな。なんといっても、旅行期間は一ヶ月と決められていてね」
「決められてるって、単に先生がそうしたいだけでしょう」
「おっ、さすが
「そんな雑な褒め方は結こ、うみゃっ」
とんっと肩のあたりを押され、アンナはバランスを崩してベッドに尻もちをついた。慌てて顔を上げたが、アルヴィムはいそいそと開け放した窓へ足をかけている。
「ちょっと、先生……!」
「それじゃあ、
ひらひらと振っていた片手を止めて、アルヴィムは笑顔で付け足す。
「魔女のなかに、ルー好みの女の子がいなければいいね」
アンナは男の顔面に向かって、思い切り枕を投げつけた。
*****
「なにか気になることでもあるのか」
「いいえ、全然、これっぽちも」
「それは子供向けのおもちゃだと思うが」
ルーの冷静な指摘で、アンナはようやく自分が小さな黒い
朝食を終え、二人は屋敷の近くにある街を訪れている。
石造りの白壁、
そんななか、アンナたちは露店で青果と調味料を買い求めた。いよいよ明日、魔女を屋敷に迎えるためだ。
そのための食事の準備なのよ。ここまでの経緯を思い返して、アンナは再確認する。今は雑貨店にいるわけだけれど、それもちょっとした日用品を買い足すため。うん、そうだわ。まったくもってそう。
じゃあ、どうしてわたくしは杖なんか持ってるのかしら。
腕ぐらいの長さのそれを、アンナは試しに振ってみる。
ぽんっという軽い音ともに花束が飛び出した。
「わぁ……」
「…………」
「…………」
「……なにか気になることでもあるんだな」
だから上の空なんだろう、といわんばかりのルーの言葉に気恥ずかしくなって、アンナはぎゅっと杖を握りしめて笑った。
「な、なんでもないのよ! ほんとに、これぽっちも、ぜんぜん!」
「じゃあその杖は?」
「必要だなって思い出したの! なんというのかしらね! ええ、そう、最初の
余興ってなんなの、と早速自分の言葉の支離滅裂さに泣きたくなるが、アンナはやけくそ気味に支払い台へ向かった。馴染みの女店主が含み笑いする。
「良い恋人だねえ、アンナちゃん」
「こっ、恋人……」他人から言われるのは新鮮で、アンナは思わずじんときた。「え、わたくしとルーさま、ちゃんと恋人に見える……?」
背後でルーが咳払いした。店主は含み笑いをしつつ、意味ありげにアンナの後ろへ目配せする。
見ればちょうど、二階から彼女の夫が降りてきたところだった。一体何を察したというのか、
「ええ?」
「あっちは俺に任せろってさ」戸惑うアンナの腕をつついて、女店主は上機嫌で声をひそめた。「安心しな。男同士のほうが話しやすいってものさね」
「話しやすいって」
なにを、と問う前に、店主は杖をもって店の奥に引っ込んでしまった。新しいものと取り替えて、袋に詰めてくれるのだろう。気遣いはありがたいが、この状況で放り出されると手持ち
アンナはちらと脇に置かれていた姿見へ目をやった。天上から下げられた生成りの布と、足元に並ぶ小瓶の入った箱。それらに挟まれて、灰色の髪と薄青の目を持つ女がこちらを見返している。
紺色のフレアワンピースに
実際、店主は恋人と思ってくれたのだから。
「恋人……」
しみじみと呟いて、アンナは頬を両手でおおいながらうずくまった。嬉しくて顔が緩んでしまう。一方で、ちりちりと刺すような罪悪感もあった。だってこれは、アンナが強引にはじめた関係だ。
なによりもしも、明日来る魔女たちのなかに、ルーの好みの女性がいたら。
「んんん……焦りは禁物よ……」アルヴィムの余計な一言でぶりかえした不安をほぐすように、アンナはもみもみと頬を揉んだ。「だって、全員男の人っていう可能性もあるわけだし……女の人がいたとしても、ルーさまの好みじゃないかもだし……わたくしはルーさまのことが大好きだし……むむむ、そうね……もちろんルーさまの意志を尊重するのが大事だけれど……」
でも、どうかしら。あぁ見えて、ルーさまは優しいのよ。今だってさりげなく荷物を持ってくれているし、歩調もあわせてくれるし、なんだかんだで話も聞いてくれる。
例えば、彼が女の人に迫られたら? 女の人を傷つけないために、誘いを断らない可能性もあったりする……? えっ、もしかして押し切られちゃうってこと?
「えええええ! それは駄目! ぜったいに駄目、みゃうっ」
「っ、」
思わず立ち上がったところで、ごつんと頭を打った。涙目で顔を上げれば、ルーが
*****
彼女を喜ばせるならお揃いの
文句の一つでも言おうかと思ったが、涙目の彼女にルーは仕方なくため息一つに留める。
「う……ルーさま……ごめんなさい……」
「大丈夫だ。それより君は? 体調でも悪いのか」
「ん、それは大丈夫なのだけれど」
「けれど?」
「ルーさまが押し倒されないか心配で」
「押し倒……なんだって?」
思わず聞き返せば、立ち上がったアンナが実に真剣な表情で手を組む。
「あのね。ルーさまはとってもかっこよくて、綺麗で、ちょっとした気遣いも完璧で、それでいて人を寄せつけない孤独みたいなところも感じさせるから、かえってお近づきになりたくて、」
「端的に」
「ルーさまは乙女心をくすぐるのよ。女の子なら絶対に恋しちゃうし、そんなことになったら押し倒されちゃうわ」
ルーは
「……なんで僕が押し倒されるほうになってるんだ」
「えっ、じゃあルーさまが……押し倒して……くださる……?」アンナはかあっと顔を赤らめた。「えっ……ええっ……!? そんな! まだ日も高いのに! とっても積極的で熱烈で……っ! うみゅっ」
「妄想するな。鼻血を拭け」
道中で買いつけた紙ナプキンを押しつければ、アンナはすんすんと鼻をすすりながら「ルーさまのそういうところが心配なのよお……嬉しいけれどお……」と涙声で付け足す。
一体何が、そういうところなのかもわからないし、こうやって泣いている理由だって想像がつかない。泣く理由なんてないと、声をかけるのは簡単だけれど。
ルーは、何度目か分からないため息をついた。こうして自分が悩んでいる間にも、彼女は自分なりの結論を出して前に進んでしまうのだろう。ずいぶんと泣き虫で、感情を隠そうともしなくせに、アンナはそういうところだけが、ルーのよく知るアンナ・ビルツなのだ。
余計な
願うくらいなら、彼女を守るべきだと幾度繰り返したか分からない決意を確認する。
そこで顔をあげたアンナと再び目があった。ずれた眼鏡の隙間からのぞく青の目は、少しだけ涙で濡れている。雪解けのころの泉のように綺麗で、まぶしい。
「大丈夫か」
「ん、大丈夫よ」さきほどよりは
なにをいまさら、と思わず笑ってしまえば、アンナが唇を
だって確認しておかないと、ルーさまが女の人に押し倒されちゃうかもしれないんだもの。そんな彼女の斜め上の発言を適当にあしらったところで、女店主が包みを持ってやってくる。
おどろくほどに何もない日常で、けれどきっと、これがいいのだと、ルーは思う。
アンナの買ったおもちゃの杖の用途がついぞ分からない。そんなところも含めて。
*****
翌日、ビルツ
開け放した廊下の窓からは、暖かな風が吹き込む。
そんな二人は今、白と黒を基調とした正装に着替え、魔女たちを迎えた
それは、二人きりのささやかな時間が終わる瞬間。魔女たちと過ごす季節の始まり。
そして、少女の淡い恋心と、青年の穏やかな願いに嵐が吹く。
「……は?」
扉を開けて固まった。そんなアンナがなんとか絞り出せたのは、その一言だけだ。
軽食を並べたテーブルには、白いテーブルクロスがかけてある。向かいあって座るのは、白と黒の正装をまとった今年の魔女たちだ。
赤銅色のくせ毛をしきりにいじりながら、手元の紙束を何度も見返す青年。
ここまで三人。そして四人目――肩のあたりで切りそろえた黒髪に、愛らしい顔立ちをした少女が目の前にいる。
正確にいえば、ルーの前に。
さらに正確に言えば、彼の胸元をつかんで――少女はアンナよりも背が低いからそうするしかないのだが――、その頬に軽く口づけて。
……口づけて?
「……っ、な……!?」アンナはようやく我に返って、
「うるさいなあ、おばさん。ただの
「おば……っ!?」
アンナがぴしりと固まるなか、少女はルーから身を離す。ぽってりとした唇に指先をあて、
「はじめまして、魔女のおにーさん。ボクの名前はティカ。夜のお相手はいつだって募集中だから、気軽に声かけてね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます