第3話 ねぇ、そんな言い方ってないわ

 そしてそう、あの寝顔だわ。鉄格子てつごうし越しの青年の寝顔を思い出して、アンナはうっとりと白い息を吐いた。


 狩人の追跡を逃れ、客間のソファで夜明けをじっと待つばかりの時間だ。いつものようにビルツていは静まり返っているが、彼の寝顔を思い返しているアンナの頭は悲鳴と妄想でいっぱいである。


 大人の顔立ちはそのままに、疲れて眠ってしまった子供のようなあどけなさがにじむ横顔だった。かっこいいのに、危うい。守ってあげたいというか。んんん、勿論わたくしごときが守れるはずもないのだけれど! それにしたって、あの寝顔はとっても素敵だわ! やだ、待って、じゃあもしも万が一、眠りの君さまと朝までともにすることがあったら、あの寝顔を見れるという……きゃあああ! 破廉恥はれんち! 


「今の想像は破廉恥よ、わたく、し……」


 くたびれたクッションを抱えて身悶みもだえしていたアンナは、はたと言葉を切った。顔をあげれば、逆さに自分を見下ろす影がある。整った顔の男だった。剣呑けんのんに細められた目は灰をまぶした炎の色。そして右手には短剣。


 ソファを転がり落ちるようにして、アンナは間一髪で刃を避けた。ざくっという、なかなかに心臓に悪い音に肝を冷やしながら、慌てて口を開く。


「ち、違いますわ!? 眠りの君さま、わたくしはおかしな妄想なんて一つも! これっぽちもしてませんのよ!? ただその、夜をともにした後の朝というのかしら! 寝顔を見られる状況で王道なのは、やはりそういう時でしょう!? いや、そういうっていうのは、決していかがわしい意味ではなくて……みゃっ」


 クッションを突き出し、アンナは短剣を受け止めた。青年の浮かべている表情はしかし、どこかちぐはぐだ。怒りも苛立ちもなく、感情にとぼしい。なのにひたいにはうっすらと汗をかいている。


 アンナは、ずれた眼鏡の隙間から目を凝らした。短剣を握る青年の手首にこびりついているのは血だ。別の意味で、腹の底が冷たくなる。


「眠りの君さま、傷が開いて……っ」


 言い終わる前にクッションが裂かれた。アンナは仕方なく背を向けて駆け出す。


 ばたばたと廊下へ飛び出した。追いかけてくる殺気はどこまでも静かで、獣のように研ぎ澄まされている。〈王狼おうろう〉という言葉を思い出した。命令に逆らうことはできないという彼の言葉も。


 けれど、ここまで人が変わるなんてことがあるかしら。


 アンナは、瓶底眼鏡に手を伸ばした。もしも原因が魔女の力であるならば、この目で暴けるかもしれない。


 だって、わたくしの目は魔女殺しの目。彼を殺すことだって出来るわ。


 氷混じりの冬風が吹き込んだように、冷たくて乾いた事実が頭をよぎる。アンナは己が恐ろしくなって、指先を強く握りしめた。駄目よ。目は使えない。わたくしは暴いて殺したいんじゃない。眠りの君さまを助けるべきなのよ。


 意を決して、アンナは階段を駆け上った。擦り切れた絨毯じゅうたんを踏みしめ、なめらかな木の手すりをつかんで最後の一段を飛び越える。


 すぐさま振り返って、左手に掴んだままだったクッションの残骸を投げつけた。青年は当然これを避けたが、階段の最後の一段には足をかけた。


 びん、と張り詰めた糸の音が響く。青年が顔を跳ね上げると同時に、天井近くに吊るしていた幾枚もの毛布が降り注いだ。


 *****


「ごめんなさい……」

「……自己防衛なら、仕方ない……」


 陽光差し込む地下牢ちかろうからの返事は少しばかり冷ややかで、アンナはしおしおと地面にしゃがみこんだ。


 眠りの君は、片手でぎこちなく耳元の手当をしている。毛布に直撃された反動で、階段で足を滑らせて落ちたにしては軽症だ。されども、またしても自分が原因の怪我なので、アンナとしては気が気でない。


 青年が綿紗ガーゼや塗り薬を籐籠から取り出していくのを眺めながら、アンナはそうっと問いかけた。


「遠慮しなくても、わたくしが手当してさしあげるわ」

「必要ない。今度はなんのわなをけしかけられるか」

「なっ、なんでもかんでも準備しているわけないでしょう!」アンナは控えめに口をとがらせた。「そもそも、昨日の毛布だって狩人さんから逃げ切るためだけの仕掛けだったのだし……怪我させるつもりなんて、これっぽっちもなくて……」

「……分かっている」


 青年の返事が少しばかり柔らかくなった気がして、アンナはぱちぱちと目を瞬かせた。


「……もしかして、今のは冗談だったのかしら?」

「さあ、どうだろうな」いつもどおりの口調で返し、青年は使い終わった道具を籐籠へ戻した。「いずれにせよ、武器をもった人間に立ち向かうのは悪手あくしゅだ」

「それをいうのなら、女性レディを追いかけ回すのもどうかと思うわ」


 返事をしてから、アンナははっと口元に手を当てる。今のは性格が悪すぎる返事だわ……、とアンナが反省するなか、青年は特に気にした様子もなく、「そうだな」と返しながら鉄格子ヘ背を預けた。


「君の言うとおりだ。だが、これだけはどうしようもない」

「命令されたら、従わなければならない?」

「そのとおり」

「でも、怪我してるでしょう? 痛くて休みたいとか、思わないの?」

「思うことと、体が動くことは別物だ」


 彼の声音はあまりにも淡々としていて、まるで別の誰かのことを話しているようだ。

 どうしようもなく悲しくなって、アンナは顔をうつむけた。


「そんなの、おかしいわ」


 青年が小さく笑った。好意的なものではなく、ひどく神経を逆なでするような笑い方だ。


「君の言葉を借りるなら、僕はおかしいとは思わない」

「ねぇ、そんな言い方ってないわ」アンナはまゆをひそめた。「あなたは人間で、武器なんかじゃないのよ。自分の体を大切にしなくちゃ」

「いいや、僕は武器のようなものだ。あくまでも例えだが」

「そんな言い方しないで」

「〈王狼〉とは、かつてこの国に存在した王の手足だ。荒事を請け負う集団だった」


 冷めた言葉に、アンナは口をつぐんだ。青年はやはり背を向けたまま言葉を続ける。


「平時であれば暗殺者の集団だが、有事であれば極めて優秀な兵力だ。そして三年前のこの国は、たしかに王にとって有事だった」

「末娘のアンナ・ビルツが革命を起こしたから」アンナは目を伏せた。書物で読んだ記録をたどる。「王は死んだわ。革命軍が彼を捕らえて断頭台で首をはねたのだもの。それこそが、アンナ・ビルツが英雄たる証でもある。眠りの君さま、あなたは主を殺されたことを恨んでいるの?」

「まさか。武器に感情はないと言っただろう。僕は来歴の話をしているだけだ」

「同じことだわ」

「君に罪はない」

「アンナ・ビルツが王を殺したのよ。それはつまり、わたくしだわ」


 アンナは思わず声を大きくした。青年が少しだけ首をひねって振り返る。無感動な表情で、責める色はない。だからこそ、直接責められるより、よっぽど苦しい。


 記憶がないから罪がないというのであれば、アンナはアンナ・ビルツではないということだ。


 じゃあ、わたくしは一体誰なの。


 唇の裏をきゅっと噛んで、アンナは乱暴に立ち上がる。


「あなたは武器なんかじゃないし、体を休めるべきだわ。待ってらして。わたくしが何か方法を考えてみるから」

「時間の無駄だ。やめたほうがいい」

「いいえ。アンナ・ビルツは稀代の戦術家と言われるほどに頭が良いのよ。絶対に助けてみせるわ」


 他ならぬ自分に言い聞かせるように宣言して、アンナは足早に地下牢を後にした。


 *****


 記憶喪失のアンナにとって、図書室ライブラリ頭脳ずのうであり記憶そのものだ。そしておそらくアンナ・ビルツにとっては、心休まるいこいの場だった。


 必要最低限の家具しか残されていない多くの部屋が嘘のように、図書室は手入れの行き届いた家具と、古今東西の蔵書で充実している。


 隙間なく書物を納めた本棚は可動式で、部屋の半分ほどを占拠している。裏庭バックガーデンをのぞむ窓際には、つややかなウォルナットの脚に薔薇ばら模様を刻んだ書き物机があり、暖炉だんろのそばには赤いベルベッドのサロンチェアが置かれていた。


 冬の弱い日差しが差し込む居心地の良い部屋で、アンナはしかし、苛々と紙切れにばつ印を書く。


 眠りの君を止める方法が、思い浮かばない。


 本を抱えて立ち上がった。ハンドルをぐるぐると回して書棚を移動させたが、どこかで引っかかったのか急に動きが鈍くなり、とうとう右にも左にも押せなくなる。そうこうするうちに、しびれた腕の隙間から細かな紙束が滑り落ちて地面に散らばった。


 アンナは、動かなくなったハンドルをぎゅっと握りしめる。


「……もう」


 どうしようもなくなって、思わず地面にしゃがみこむ。


 青年に啖呵たんかを切ってから、かれこれ二度の夜が過ぎて、三度目の夜が始まろうとしている。


 その間、アンナは何一つとして解決策を見つけられなかった。適切な武器を選んで勝負すること、効果的な言葉を使って説得すること。浮かんだ案はその程度のものだったし、出来ない理由だってすぐに思いつく。体格で劣るアンナが慣れない武器で勝てるはずもなく、心をどこかに置いてきたような夜の彼に言葉なんて届くはずがない。


 アンナは目を閉じた。不意に去年の冬の光景が浮かぶ。千切れた紙片、黒光りする拳銃けんじゅう、凍りついた薄青の目。


 ぶるりと体を震わせ、アンナはまぶたにぎゅっと力を込めた。駄目よ。思い出しちゃ駄目。諦めちゃ駄目。立ち止まっちゃ駄目。できることはあるはずだわ。


 だってわたくしは、アンナ・ビルツでしょう。


 ゆっくりと目を開ける。本の散らばった一人きりの現実に泣きたくなったが、憂鬱ゆううつな過去の景色は追い出せた。いい調子よ、とアンナは自分を励ます。さあ、次は紙を集めましょう。脇によけて、そのあとは本棚の下をのぞいてみるのがいいわ。動かない原因が分かるかもしれないもの。


 絨毯じゅうたんに頬を押しつけたアンナは、何度かくしゃみをしながら目を瞬かせた。レールと本棚の間に麻袋が挟まっている。


 物置からほうきを取って引き返し、アンナは苦労して袋を取り出した。中から出てきたのは擦り切れた革の手帳だ。書斎の本は全て読んだのに、この本は見覚えがない。けれど最初のページの筆跡には見覚えがあって、アンナはどきりとした。


 書き始めと書き終わりに独特のインク溜まり。アンナ・ビルツのものだ。


 アンナは駆け足で書き物机に戻った。椅子に座りながら改めてページをめくる。日付があって、走り書きがある。半刻ごとの天候、古典演劇の警句けいく、昔ながらの色の古名。およそ脈絡のない単語を追いかけるうち、アンナはこれが暗号であることに気がついた。


 書棚を動かして暗号に関する本を引っぱり出し、革手帳の掠れたインクを指先でたどる。


「弾薬の補給……南部の戦線にて損害あり……迂回路うかいろをたどって奇襲……〈王狼〉……」アンナは指先を止め、まじまじと文字を見つめた。「〈王狼〉の長が代替わりしたらしい。接触を試みる……鍵を使えば、彼を従わせることができるはず……手遅れになる前に、」


 ページをめくったアンナは、ぴたりと口を閉じた。


 見開きは、ひどい有様だ。つまんでいるページは、青黒いインクで染まっている。まるで、書き手がやけを起こしてインク壺の中身をぶちまけたようだった。隣のページからは隠し箱になっている。糊付けされた紙束はナイフで乱雑に中身がくり抜かれ、薔薇模様の刻まれた十字架――薔薇十字ロザリオが納められていた。


 細い鎖にくくりつけられた紙片には、活版で黒い文字が刻まれている。


『地下牢のあなた、あるいは断頭台の私』


 アンナはゆっくりと薔薇十字を手に取った。


 〈王狼〉は鍵を使って従わせることができる。眠りの君は、かつて〈王狼〉だった。そして何より、彼は地下牢にとどまり続けている。


 もしも薔薇十字が〈王狼〉の鍵ならば、彼に止まるよう命じることができるかもしれない。そう、それだわ。今までで一番合理的で、アンナ・ビルツらしい選択よ。


 でも、無理矢理に従わせるなんて。脳裏をよぎったためらいを、アンナは薔薇十字を握りしめることで追い払った。彼は今だって命じられている。それも、およそ人間じゃないような扱いだ。冬の地下牢に留まること、怪我を負ってもろくな手当をしないこと、怪我をした体で夜の狩りに参加すること。


 それらの命令に比べれば、彼を救うための命令はずっとましなはずだ。


 *****


 冷え切ったビルツ邸の暗い廊下を、アンナは全速力で駆ける。


 三度目の夜だ。狩人の男か、眠りの君か。どちらに先に見つかるかは日によって違ったが、幸いなことに今日は眠りの君だった。いいことだわ、とアンナは息を切らしながら無理矢理に笑ってみる。万全の体力でのぞめるってことだもの。


 追いかけてくる足音が、少しだけ変わる。アンナは右手へ転がるようにして避けた。地面に短剣が突き刺さる。


 首をひねった先では、悠々と近づいてくる青年の姿があった。まとう空気に余裕はあるが、整った顔に感情はない。


 灰をまぶした炎の目と夜明け色の黒髪。冬の月明かりに照らされた人形めいた姿にアンナは唇の裏を噛み、階段に足をかける。


 息つく間もなく駆け上って、一つ目の踊り場を後にする。青年はちょうど、階段を登り始めたところだ。これなら、というアンナの期待はしかし、すぐに外れることになる。


 青年はたしかに階段を登り始めたが、その勢いのまま踊り場の壁を蹴り、ひらりと宙に身を踊らせる。


「嘘……」


 アンナは思わず呟いて、足を止めた。その目の前に、青年は着地する。階段を上がりきったところだ。そして彼は、アンナの肩を手で押した。


 あ、と思う間もなく、アンナの体は踊り場に叩きつけられる。背中をしたたかに打ちつけて、アンナは呻いた。ゆっくりと階段を降りてくる青年が、千切れたロープを投げ捨てる。


 仕掛けていた罠だ。ご丁寧に解除したということらしい。


「……あら。頑張って隠しておいたのに」立ち上がったアンナは壁際に追い詰められながら、ぎこちなく言った。「さては眠りの君さま。誕生日の贈り物を待ちきれないような、せっかちさんなのね?」


 返事の代わりに、青年が短剣を閃かせる。こめかみぎりぎりに刃が突き立ち、灰色の髪が一房切れた。


 アンナがひゅっと喉奥で息をのむなか、眼前の青年は短剣を壁から引き抜いた。眼差しは凍りついている。呼吸は躊躇ためらい一つなく落ち着いている。刃の切っ先が喉元のどもとに向けられる。純粋な殺気に、アンナは心臓が握りつぶされるような思いがする。


 それでも彼女は、せいいっぱいの勇気を振り絞って明るく笑ってみせた。


「眠りの君さまは、花がお好きかしら」


 かかとで、床を這わせていたもう一本のロープを引っ張った。青年がはっとしたように顔を上げた。頭上から数え切れないくらいの薄青の花弁が降り注ぐ。殺傷能力はないが、注意を引き付けるのには十分だ。


 なによりも鎮静剤として使われる薬草ハーブは、香りだけで意識を酩酊めいていさせる。


 アンナは息を止め、青年の体を両手で押した。距離は近いけれど、彼は動けなくなるはずだ。倍量どころか、大人三人分を気絶させる花の量なのだから。あとは薔薇十字を使って命じれば良い。少なくともここまでは計画通りで、ほっとする気持ちがあった。それがいけなかったのだ。


 即効性の薬草をかぶったにも関わらず、青年はよろめいただけだった。半歩ほどしか離れていない距離で、短剣を握る手に再び力がこもるのが見える。目があって、アンナはぞっとした。


 眼鏡越しでも鮮烈だ。

 灰をまぶした炎の瞳には、手負いの獣のような殺意が宿っている。


 殺される。なんの疑いもなく確信して、アンナは慌てて胸元の薔薇十字へ手を伸ばした。短剣が振りかざされるのが、やけにゆっくりに見える。


 はやく、命令しなきゃ。殺さないで、って。死にたくない、って。はやく、はやく。


 三度掴みそこね、四度目でやっと、アンナの震える指先が薔薇十字にかかる。さぁ、命令して。そう思った。なのに、このにおよんで迷う声がする。


 彼を人間だと思うなら、命じるべきではないわ。


 短剣が振り下ろされた。痛みはなく、薔薇ばらよりも濃い赤が散る。

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