Birds in the tears-colored sky
告白
賢二は、その日ずっと話を切り出す機会を窺っていた。機会というよりも、全ては自分の踏ん切り次第だった。
『とびとり』の事務所にはいつものメンバーが揃っている。
賢二の正面の席には咲来がいて、寸分違わぬ真顔を維持し事務作業に勤しんでいる。
そして賢二から見て左手、上座の席には、紅音がもう少しで後ろにひっくり返りそうな勢いで背もたれにもたれながらPCのモニターを眺めていて、時折ニターッという不気味な笑みを見せている。恐ろしい。一体何を見ればそんな不気味な笑顔が出てくるのかわからないが、確認する勇気は賢二にはない。
賢二は意を決して立ち上がった。すぐ近くにいるので座ったままでも充分話は通じるが、こうでもしないと踏ん切りがつかない。
ニターッという笑顔を浮かべている紅音のすぐ横に立つ。
「ソラさん」
紅音がゆっくりと賢二に顔を向けた。
「お話があります」
「話? もうそういう時期だっけ?」
「そういう時期?」
「太平洋側の海岸から人間を大砲でぶっ放してアメリカ合衆国まで届くかどうか確かめる時期だよ」
「いいえその時期ではありません。そもそもそんな時期は一生やってきません」
「じゃあなに? 朝起きたら鼻の穴が十五個になってたとか?」
「十五に比べたら三個なら許容範囲、なわけありません。二個で充分です」
「じゃあなにさ」
「だから今から」
「おととい来やがれ」
「ソラさん!」
賢二の強い発声に、ずっと聞き流していた咲来も顔を向けてきた。
「聞いてください。大事な話なんです」
賢二の様子を観察している紅音が珍しく険しい表情になった。
「わかった」
紅音は椅子を回転させ体を真っ直ぐ賢二に向けた。しかし顔を俯かせ、表情を隠した。
もしかすると彼女はどこかでなんとなく察しがついていたのかもしれない。とても勘の良い人だから。
「僕は、『とびとり』を辞めることにしました」
場の空気がギュッと張り詰めるのを感じた。
紅音が痛みに耐えるようにギッと歯を噛み合わせた様子が見えた。
咲来が目を見開いてこちらを見た。彼女の驚いた顔は珍しい。
賢二の心臓はドクドクと脈打ち、不安定で落ち着かない。
賢二は次の言葉を探す。
「突然の申し出で申し訳ないですが」
「やだよ」
「えっ?」
「やだやだやだやだやだ!」
紅音が叫び散らしながら顔を上げて悲痛な面持ちで賢二を見た。
「なんでそんなこと言うんだよ! 嫌だよそんなの!」
紅音はまるで子供のように駄々をこねた。批難の声を上げる彼女の瞳が潤んでいる。
それは賢二にとって予想外の反応だった。彼女ならもっと悠然と構えるかと思ったのに。賢二は心苦しくなった。
「すみません」
「謝るなよ。本当になるみたいじゃんか」
「はい。もう決めたことです」
「勝手に決めるなよ! あたしたちに相談もしないで!」
「すみません」
「嫌だ!」
「ソラさん」
咲来が見兼ねて口を挿んだ。
「落ち着いてください」
「あたしは落ち着いてる」
「いいえ、取り乱しています」
「ケンケンが悪いんだ」
「ひとまず話を聞いてみましょう」
咲来は、立っている賢二に一度席に座るよう促した。
賢二は紅音から離れて自分の席に座る。
いつも穏やかなこの事務所においてかつてない重たい静寂が部屋の中を満たした。
賢二は紅音のことを見ることができなかった。
彼女に不快な思いをさせてしまう自分が、嫌になった。
「賢二さん。先ほど『とびとり』を辞めるとおっしゃいましたね? なぜですか? 理由を教えてください」
咲来に促され、賢二は返答する。
「僕はもう、ここでは働けないと思ったからです」
「そんなにあたしたちのことが嫌いなのかよ」
「いいえ!」
「じゃあなんで!――」
紅音がはっと息を吞む気配があった。
彼女は見たのだろう。
賢二が大粒の涙を流している姿を。
「たのもー!」
スタジオのドアを開いた七菜はいつものように掛け声をかけた。
しかしダンサーたちのいるスタジオの中は妙に静まり返っている。
「おりょりょ?」
誰からも何のリアクションも返ってこなかったため七菜は首を傾げた。
いつもなら真っ先に反応してくれる紅音のほうへ向かう。
「ソラさん、おはようございます」
「おっ、ナナナ、おはよう」
「どうかしましたか?」
どことなく元気のない様子の紅音に尋ねる。
「どうもしてないよ。どうして?」
「ソラさん悲しそうな顔してます」
「そうか。ナナナにはそう見えるのか」
「はい」
「大丈夫。気のせいだよ」
それは大人がよく使う嘘の笑顔だった。
七菜は隅のほうであぐらをかいている聡一のほうへ向かった。
「ソウチョーさん。ソラさんが冬の空です」
「上の空だろ」
「そーそーそれです。何かあったのでしょうか?」
「知らん」
と言いつつ、聡一も頻りに紅音のことを気にしていた。
ダンスのレッスンが始まる頃合いで、紅音が口を開いた。
「みんな聞いて。練習を始める前に一つ伝えなきゃいけないことがあるんだ」
七菜はいつになく真剣な紅音の言葉に耳を傾けた。
「ケンケンが、『とびとり』を辞めることになった」
「ケンケンさんが!?」
驚きの声を上げたのは七菜だけではない。ダンサーたちの間にどよめきが広がった。
「ケンケンさんが辞める? 一体全体どーいうことでしょーか? 冗談は顔だけにしてください」
「だってケンケン」
「僕がいつ冗談みたいな顔しました?」
「冗談では、ないんですか?」
「冗談ではないのケンケン」
「冗談ではありません」
「理由は?」
聡一が静かにそれでいて鋭く切り込んだ。
「あたしもまだ詳しい話は聞いてない。聞きたくもない」
「……ソラさん、怒ってます?」
「ああ、もうカンカンだ。プチプチに百連パンチをお見舞いしたいぐらい」
七菜の目には、紅音は怒っているというよりも悲しんでいるように見えた。
七菜だって悲しい。『とびとり』の大切な仲間がいなくなってしまうなんて。
七菜は賢二のほうへよろよろと近づいていった。悔しそうに唇を噛んでいる賢二が七菜に目を向けた。
「ケンケンさん、どうしてですか? どうして辞めなくちゃいけないんですか?」
賢二は一瞬目を見開いて七菜を見つめた後、辛そうに目を逸らせた。
七菜はさらに賢二に近づいていく。
「どうして」
「七菜」
聡一が珍しく名前で七菜のことを呼んだ。
「やめておけ」
「でも」
「さっ、練習始めようか」
紅音がそう言ってパンパンと手を叩いた。その紅音が、一番辛そうにしていた。
とっくに日が暮れ、夜の帳が下りても、『とびとり』の事務所には煌々と明かりが灯っていた。
紅音と賢二がそれぞれ自分の席に座り、何をするでもなくじっと佇んでいる。紅音はずっと不機嫌そうな顔。対して賢二は、放心したような顔でずっと俯いている。
「二人とも、いつまでそうやって意地を張っているんですか」
咲来の言葉に紅音が反応する。
「あたしは意地なんか張ってない」
「それは意地を張っている人の言葉です」
「サッキーはどっちの味方なんだよ」
「……今日はもう帰りましょう」
咲来は身支度をし、席を立った。
紅音の横に立ち、彼女を促した。紅音はしぶしぶ立ち上がる。
咲来は紅音を引っ張るようにして連れていき、退室した。
ドアを閉める直前、ちらっと中を窺うと、賢二はまだ椅子に座ったままだった。
紅音は帰宅すると、すぐにベッドにダイブし、埋もれるようにして突っ伏した。
まるで心に穴が開いてしまったようだった。
苦しくて、苦しくて、上手く息ができない。
大切な何かが欠け落ちてしまった。
紅音にとって、それはかけがえのないものだった。
守らなければいけないもの。
そう簡単に手放していいものではない。
恥をかいても、どんなに不格好でも。
失うわけにはいかない。
紅音は決意を固めた。
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