二文字

 指が震える。

 まるで反発する磁石のように、体が拒絶を示した。

 指の間からピックがこぼれ、床に転がった。

 こんなこと初めてだった。賢二は床からピックを拾い上げ、もう一度ギターを構えた。

 同じだった。指がぶるぶると震え、使いものにならない。

 体が震えるだけならまだよかった。決定的だったのは、賢二の頭の中から這い出たドス黒い感情だ。今まで隠し続けていた、自身の本質。

 もう楽器を弾くことなど不可能だった。あいつが、あの感情が、まとわりついて離さない。

 治まるどころか、弾こうと思えば思うほど、体は言うことを聞かなかった。



「スランプってこと?」

 賢二が『とびとり』を辞める意向を伝えた翌日。事務所。

「いいえ、違います」

 賢二は紅音の問いに回答した。

「原因はわかっています。ここにいるかぎり、取り除くことが難しいことも」

「よくわからない。べつに楽器弾けなくたって他にできることあるじゃん」

「だめなんですよ、もう」

「何が?」

「ここにいたら、僕はいつか――」

 あなたを穢してしまいます。

 賢二は紅音を見つめながら、心の中だけで言葉を唱えた。

 紅音が探るように賢二を見る。

「ソラさん。あなたは僕の憧れでした。誰かの笑顔を見るのが大好きなあなたが」

 紅音が訝しげな顔になる。

「そういう時、ソラさんはどんな顔しているか知ってますか?」

「知らないよ自分の顔なんか」

「あなたは――」

 何よりも美しい笑顔をしているんです。

 そんな純粋で美しい人の笑顔を、自分は見たことがありません。

 そして、欲深い自分が近くにいたら、いつかその笑顔を穢してしまいます。

 僕にはそれが怖いんです。怖くて怖くて仕方ないんです。

 あなたは眩しい。眩しすぎる。

 その光が、自分の薄汚れた心を照らしてしまうんです。

 どうかこれ以上――

「買い被らないで」

 紅音の声に賢二は顔を上げた。

「あたしはちっぽけで、弱くて、一人じゃなんにもできないどうしようもない人間なんだ」

 紅音が珍しく弱気を吐露した。

「みんなに支えられて、やっとどうにか立つことができてる」

 紅音が痛みに耐えるように顔を歪ませた。

「もし、みんながいなくなったら、あたしは……」



『とびとり』のスタジオ。紅音を中心にして取り囲むようにダンサーたちが座っている。

「みんな、集まってくれてありがとう。今日は、重要なお知らせがあるんだ」

 紅音の言葉でガヤガヤした話し声が消えた。

「その前に、ちょっといい? あたしの気持ちを話しておきたい」

 全員が紅音の言葉に注目する。

「あたしは、『とびとり』のみんなのことを、〝仲間〟だと思ってる。

 一緒に笑い合って、時には泣いて、困った時には助け合う。お互いがお互いを守るんだ。傷つかないように、前を向いていられるように。

 あたしにとって『とびとり』のみんなは、一人一人が大切な仲間だ。大切な、大切な、宝物。そう自覚しておいてほしい。絶対に失いたくないもの。

 あたしは仲間が困っていたら、助けたい。疲れたら、一緒に立ち止まってあげたい。先に行って待ってるよ、じゃなくて、また一緒に歩き出せるまで、傍にいてあげたい。

 今、あたしたちの仲間に困っている人がいる。とても悩んでる。苦しんでる。あたしはその苦しみを分かち合ってあげたい。それができるのが仲間だと思ってる。

 この機会にみんなも一度振り返ってほしい。『とびとり』の一員としてどうありたいのか。よく考えて。言うべきことがあったらちゃんと伝えて。どうするか一緒に考えよう。

『とびとり』は、しばらくの間、〝解散〟することにする」



「ソラさん、どういうことですか?」

 紅音の話が終わった後、賢二が勢いよく問い詰めてきた。

「解散って」

「話した通りだよ」

「僕はこれ以上みんなに迷惑をかけたくないんです」

「あたしは脅迫してるわけじゃないよ。ケンケンが辞めるなら『とびとり』は解散だって言って」

「じゃあどういう」

「あたしはケンケンにこのまま離れてもらいたくない。本当にケンケンにやりたいことがあって、それが進むべき道なら、あたしたちは全力でその道を応援するよ。だけど、今回のは、そうじゃない。ケンケンのために、あたしたちにもできることがあるって信じてる」

「……」

「ケンケンは、あたしたちの大切な仲間だ。そのことを胸に留めて、忘れないで。あたしたちが必ず、力になるから」

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