The rainbow after tears

 桃には産まれた時から六つ上の兄がいた。

 兄はいつも自分と遊んでくれた。家の中でも外でもたくさん遊んでくれた。桃がいてほしい時に、兄はいつも傍にいてくれた。時に悪戯をされて泣いてしまったこともあるけれど、すぐ次の瞬間にはちゃんとごめんと言って慰めてくれた。両親が出かけて不在の時も、兄はいつも一緒にいてくれ、桃は孤独を感じることがなかった。

 桃が小学校に入ったばかりのころ、父の家庭内暴力が原因で両親が離婚することになった。父は子供にこそ手は上げなかったものの、酒が入ると痛ましい言葉で母を罵り、母の体に傷を与えた。翌日になればけろっと何事もなかったかのように父と母が一緒に過ごしているのが、桃には不思議に思えた。どうしてあんなに酷いことをする人と一緒にいられるんだろう。しかし結果、耐えられなくなった母が離婚を申し出た。

 桃たちには聞かされない話し合いにより、母が真、父が桃の親権を握り引き取ることになった。その話を聞かされた瞬間、桃は胸の内がきゅーっと縮こまるような感覚があって、苦しくなった。何をされるかわからない父への恐怖よりも、母との別れよりも、桃はいつも自分の面倒を見てくれた兄と別れることになるのが辛かった。だけど、幼い桃には何も言えなかった。状況に抗う術など持ち合わせているはずもなかった。

 別れの日。桃は父のあとをついて歩いた。手も握ってくれない父のあとを。

 これからどうなるかわからない。ただきっと、この先に明るい光はない。自身を押し殺して生きていかなければならない未来が待っている。

 その時、何かが桃の手を掴み、引っ張った。

 振り返ると、そこに兄の姿があった。

 自分より大きくて温かい手の平。

 頼もしくて、安心できる。

 大好きな。

 兄は父と母に言った。自分は桃と一緒にいる、と。

 父からいくつか乱暴な言葉が飛び出したが、兄は退かなかった。決して桃の手を離さなかった。

 桃を独りにはしなかった。

 ついに父が折れて、桃は兄と母と一緒に暮らすことになった。

 その数年後に、母が他界した。長年暴力を受け続けたことによる精神的衰弱によって病気になり、そのまま帰らぬ人となってしまった。


 桃と真は親戚に引き取られることになったが、その人たちは桃たちとあまり関わり合いになりたくないようだった。寝床や食事に困ることはなかったが、愛情を与えられた記憶はない。

 兄は高校卒業後に働き出し、自立する資金を溜めると、桃も一緒に連れていってくれた。そこは新しくもなければ広いとも決して呼べない部屋だったが、桃は満足だった。自分は独りではない。いつだって傍に兄がいてくれるのだから。


 兄がいてくれなかったら、きっと自分は生きてこられなかった。少なくとも、まっとうな人生を送ることなどできなかった。しかし、桃はこの感謝の気持ちを面と向かって兄に伝えたことはない。気恥ずかしいし、改まって言う機会もなかった。


 兄は自分の傍にいてくれた。ずっと傍にいてくれるものだと思っていた。

 しかし、ある日兄に恋人がいることを聞かされた。成り行き的なものではなく、将来を見据えて真剣な付き合いをしているようだった。

 自分はそのことを祝ってあげるべきだった。兄に大切な人ができたのだ。それなのに、桃は兄に対して刺々しい態度をとってしまった。これまでのことを感謝してもしきれない、兄に対して。

 その後の兄の変化に桃はなかなか気づくことができなかった。少しずつお酒の量が増えて、帰りも遅くなることが多くなった。平日の昼間に家にいることもあった。ずっと真面目に働いていた兄が、どうして。

 そしてある日、桃は兄から聞かされた。恋人の玲奈に愛想を尽かされたということを。兄はそのことを呑気に笑いながら話していた。その兄の顔を見て、桃は悟った。

 自分が兄の幸せを奪ったのだと。

 兄は桃を独りにさせないために、結婚も考えていた玲奈と別れた。自堕落な生活を送り始めたのも、玲奈のほうから別れ話を切り出させるためだった。

 兄から直接そのことを聞かされたことはない。けれど、そうに違いない。兄は優しい人間だ。自分の身すら顧みないほどに。世界の誰よりも桃がそのことを一番知っている。桃は自分自身が嫌になった。恩を仇で返してしまったのだ。


 桃が優紀との結婚を決めたのは、悩みに悩み抜いた末だった。兄の幸せを壊しておきながら自分が先に結婚するのかともと思うが、この結婚は兄のためだった。

 もう私のお守りはしなくていいんだよ。そう、伝えたかった。

 兄に新しい幸せを掴んでもらいたい。今日はそのために用意したイベントだった。


 本当に兄はバカだった。どうして自分を犠牲にしてまで私のことを優先してくれるのか。

 さっさと幸せになればよかったのに。

 私だって、あなたの幸せを願っているのに。この愛は一方通行じゃないんだって、わからないの?

 あなたの幸せは、私の幸せでもあるんだよ。

 あなたはどうしようもなく……。


     ◆


「バカだよ」

 桃が泣きながら、そう呟いた。一かたまりとなった滴がぽろっと床にこぼれる。

 真は、どうして桃が泣いているのかわからなかった。けれど、自分がしなければならないことはわかっていた。昔から、いつだって、そうしてきた。

 一歩を踏み出し、あのころのように。

 真はハンカチを取り出し、桃の涙を拭った。そして、軽く頭を撫でてあげる。

 桃の動悸が治まっていった。

「そう、バカだよ。だけど、それでも俺は、お前の兄貴だ」

 桃が顔を上げて真を見た。せっかく綺麗にしてもらった顔をぐしゃぐしゃにして、まったく。

 桃は少し照れたような顔をした後、目を逸らせた。そのまま背中を向け、奥に向かって歩いていく。

 突然ピアノの音色が空間に響いた。右奥のほうにグランドピアノが見える。そこで礼装をした咲来が鍵盤を叩いていた。

 切なげで儚いメロディ。

 イントロが終わると、後を継ぐように物影から出てきた賢二がバイオリンを弾き出した。こちらも礼装で、バイオリンで演奏する姿が様になっている。

 真は突然後ろから近づいてきた人間に腕を掴まれた。

「ここにいて」

 紅音だった。楽しそうに笑っている。

 チャペルに流れる曲は、真が披露宴で披露するために練習したフラッシュモブの曲だった。

 奥まで進んだ桃がこちらを振り返る。桃の前にはマイクスタンドがあった。


〝指からこぼれ落ちた

   パズルのピース

どんなに探しても

   見つからない〟


 ウェディングドレス姿の桃が歌っていた。本当はこちらが桃に対してサプライズをするはずだったのに、まるで逆だ。


〝埋まらない隙間を

   眺めては

後悔をただ

   繰り返す〟


 ピアノの伴奏とバイオリンの音色に、桃の歌声が混じり合う。


〝大きな その手の平

   握った 忘れない日々〟


 次はサビだ。そのタイミングに合わせて隠れていたダンサーたちがステップを踏みながら一斉に出てきた。十人近くいる。七菜もいたし、大根役者の聡一もいた。真も練習したダンスだ。


〝月に 月に 照らし出され

   昨日も 今日も 探した

どこに置き忘れたかな

   大切な宝物〟


 純白のドレス姿で歌う桃は、どこか神聖な雰囲気がある。

 桃は正面にいる真に真っ直ぐ目を向けた。


〝あなたが くれた 幸せ

   今も この胸の 中だよ

おかげで 歩いて こられた

   ありがとうのこの気持ち

伝えたい 届けたい 傍にいる 大切な人〟


 桃の表情と歌から、気持ちが伝わってくる。

「もう大丈夫だ」

 真は自分の腕を捕まえている紅音に言った。紅音は手を離して距離をとる。

 真は桃に向き直った。2コーラス目が始まる。


〝昔書きかけの 日記帳

   アジサイの色 描き分けた

どんよりとした 空模様

   今日もお日様 隠れてる〟


 チャペルの座席の隙間を縫って踊るダンサーたち。練習時とは違い全員黒のタキシードで優雅に舞っている。


〝その背中 追いかけて

   孤独を 置き去りにした〟


 歌に込められた想い。それは間違いなく、桃から真に向けられたものだ。


〝空が 空が 泣き続けた

   悲しく 大地を 濡らした

風の ように すれ違う

   この気持ちは届かない〟


 そう、お互いに。もどかしい日々を過ごしてきた。

 取り戻したかった。

 笑い合える日々を。


〝花が 花が 咲いていた

   雨にも 負けず 咲き続けた

つぼみ 開き 誇らしく

   じっとその時を待つように〟


 真はチャペルの通路にじっと立ったまま、桃を眺める。

 傍にいるはずなのに、いつしか遠くなった。


〝雲が裂け 隙間から

   日が差した 淡い光が〟


 咲来と賢二がメロディとリズムを刻み、ダンサーたちが動きで感情を表現した。

 真と桃、二人のために、この瞬間を築いてくれている。

 それは特別なものだった。

 今なら、これまで言えなかったことも言える気がする。


〝もう泣かない〟


 曲は最後のサビに入っていく。


〝朱く 朱く 染まる夕陽が

   涙の 痕を なぞっていく

優しく 触れて 温かい

   この悲しみが溶けていく〟


 真はゆっくりと桃のほうへ近づいていった。

 それに気づいた桃が、泣きそうな顔になる。


〝虹が 虹が 空に架かり

   役目を 終えて 泣き止む

洗い 流された 心は

   鮮やかな七色〟


 手を伸ばせば触れそうな距離まで近づいた。

 桃が目に涙を滲ませながら、優しく微笑んだ。


〝もういいんだよ わたしはね

   大人にね なったんだよ〟


 それは真からの自立を歌っているようだった。


〝いつまでも 忘れない

   本当に ありがとう〟


 桃がくしゃっと笑うと、まぶたから一筋の涙が流れた。


〝ありがとう

  ありがとう

    ありがとう

      ありがとう〟


 真の体が震えた。


〝ありがとう

  ありがとう

    ありがとう

      大好きだよ〟


 真の頬に涙が伝った。


 曲のエンディングを奏でる咲来の演奏が終わった。

 桃は泣いている真を見て物珍しそうに笑っている。

 泣いているところを桃に見られたのは、初めてかもしれない。

 恥ずかしさよりも、悔しさよりも、喜びが勝った。

 お互いに世界でただ一人の、兄妹。

 桃がさっと抱きついてきた。

 真は抱き返すこともせず、ただされるがままで立っていた。

 遠かった桃が、近くにいた。

 あのころのように、すぐ傍にいた。

 どれぐらいそうしていただろう。

「こら。いつまでもイチャイチャすな」

 という紅音の声で、ようやく我に返る。

「マコっちゃん」

 紅音が手に持っている小さなものを見せた。それで真は思い出した。自分にもしなければいけないことがあった。桃と体を離し、それを紅音から受け取った。

「桃」

 すぐ目の前にいる妹の名前を呼ぶ。

「昔、言ったことがあったよな。大きくなったら俺と結婚したいって」

「そ、そうだったっけ?」

 桃ははにかむような戸惑うような表情を浮かべている。

 真は桃の前で膝立ちになった。桃が驚いた顔になる。

「さすがに結婚はできない。だけど、俺たちはこれからも一緒だ。なにかあったら必ず俺に言えよ」

 真は桃の左手を手に取った。つけている白い手袋を外し、素肌を露わにする。

「約束だ」

 真は小さな箱を開け、そこから取り出した指輪を桃の指にはめた。

 桃はしばらく驚いた様子で指にはめられた指輪を見ていた。

 やがて、桃の目に涙が浮かんできた。桃は両手を顔にあてる。

 真は立ち上がり、桃の頭を抱え込むようにして優しく引き寄せた。

「大好きだよ」

 ある日の六月の出来事だった。



 降り続いていた雨が嘘のように、ホテルのテラスから見える空は清々しい青空となっていた。

 あの後結婚式は仕切り直しをしてもう一度初めから行われた。新郎側もあらかじめ事情を知っていたようで、気を揉む必要がなかったのが幸いだ。

 桃と優紀がみなの前で誓いの言葉を交わした後、雨が止んだということでテラスに出ることになった。二人で歩いてくる桃と優紀に、配られた白い花の花びらをみんなで被せていく。意味がわからない結婚式の儀式の一つで、後で掃除するのが大変だろう、などと真は思ったが、桃が楽しそうにしていたのでまあよしとしよう。

 それからしばらく花嫁花婿の記念撮影の時間となり、真は一度撮影に加わった後、一団から離れて何気なくテラスから見える空を眺めていた。

「よっ」

 威勢のいい声が聞こえたので振り向くと、そこに紅音がいた。

「なに、仲間外れにされてふて腐れてるの? じゃあしょうがないな、この綺麗なお姉さんが一緒にいてあげよう」

 その言葉にいくつか言ってやりたいことがあったが、なんだか面倒だったので何も言わなかった。

 かわりに、違うことを言った。

「サンキュ、な」

「サンチュ? 焼肉巻くの?」

「おかげでスッキリした。良い結婚式になったよ」

 真がノリに付き合ってこないことを悟ったのか、紅音はつまらなそうな顔になった。

「これで桃もやっと」

「あんたは?」

「あんた?」

「マコっちゃんは?」

「俺? 俺がどうした?」

「実は一人、貴賓きひんを招いてるんだ」

 紅音がそう言って後ろのほうを向く。

 真がそちらに目を向けると、そこに一人の女性がいた。

 玲奈だった。

「これまでの経緯は全部話してあるよ。どうしてマコっちゃんがちんけなヒモ男になったのか全集を読み聞かせた。どうにかしろってわけじゃない。これからどうするかは二人で決めればいい。だけど、せっかく青空が見えたんだ。きっと桃もそれを望んでる」

 紅音が真の肩をポンと叩き、その場から去っていった。

 残された真と玲奈は、居心地悪そうに佇む。

 真はぽりぽりと頭を掻いた。



 一行は宴会場のほうへ移動し、披露宴が行われた。

 結婚式の意味のわからない儀式の一つ、ケーキ入刀の儀へと相成る。

「真さん」

 新郎の優紀に名前を呼ばれ、手招きされる。

「これはぜひ、真さんと桃さんの二人にお願いしたい」

「はあ? いーよそんなの」

「びーびーうるさいなー。さっさとくればいいんだよ」

 桃に腹立たしげに促された。状況を利用された感じだ。ここで駄々をこねて待たせても仕方ない。

 真は優紀の代わりに桃と一緒に長ったらしいナイフを持った。

「じゃあ、一、二の、三でいくぞ」

「オーケー」

「一、二の――」

 バン!!

 強烈な音が響いたとともに、真の顔やその他の部位に飛びかかってきたものがあって、視界が塞がれた。

 一体何が起きたのか?

 少し、いい匂いがする。口のほうに垂れてきたものをちろっと舐めると、甘かった。

 真はべたべたの手で顔を拭う。開けた視界で前を見ると、ウェディングケーキが見るも無残な有様となっていた。おそらく、内部から爆破されたのだ。

 こんなことを考える人間、本当に実行してしまう狂気的な人間は、一人しか知らない。

「あんにゃろうやりやがったな!」

 茫然とする列席者たちを尻目に、真は咆哮した。口の中まで飛んできたケーキの一部がぽっと口から飛び出す。

 ここにきていよいよ台無しにしてくれた。こんな馬鹿げたことをする打ち合わせもした気もするが、まさか本当にやるとは。

「アハハ」

 真が怒りに体を震わせていると、すぐ傍から笑い声が響いた。

「アハハハハ。なにそれ、可笑しー」

 同じく生クリームまみれの桃が真を指差して笑っている。

 あまりに楽しそうに笑うので、真は怒る気が削がれてしまった。

「自分の顔も見てみろよ。相当だぞ」

「アハハハハハ」

「ふっ、ふふ」

「ハハ」

「ハハハハハ」

 ホテルの宴会場の一室で、兄妹の笑い声が楽しげにこだましていた。

 いつまでもこうして。

 笑い合えるはず。

 生クリームまみれの二人を祝福するように、窓から見える空は青く澄み渡っていた。

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