思い出を越えて
咲来は、『とびとり』のスタジオで電子ピアノを弾き、曲の練習をしていた。賢二に作ってもらった楽譜を見ながら、少しずつリズムとメロディを体に馴染ませていく。
普段事務作業をしている咲来は、フラッシュモブ本番では出番がない。一応スタッフとして現場に同行はするが、あくまでキャストたちのちょっとしたサポートをしているだけだった。
近日披露することになるフラッシュモブで、咲来は紅音からピアノを弾くように指示を受けた。初めは不安だった。自分なんかが参加してみなの足を引っ張ってしまわないだろうか。大事なサプライズの瞬間を台無しにしてしまわないだろうかと。
けれど、その時紅音がかけてくれた言葉が、背中を押してくれた。
『大丈夫。重かったら、一緒に持って軽くしてあげるよ』
その言葉で、咲来の気持ちはすーっと軽くなった。本当は、自分もみんなと一緒に参加できることが嬉しかった。
咲来は、大空紅音という人物ほど優しい人間に出会ったことがない。彼女はこれまで出会った誰よりも優しい。見え透いた優しさなどではなく、気づけば寄り添ってくれているそんな優しさだ。『とびとり』のメンバーはみな、その優しさを知っている。彼女を信頼し、信頼され、ついていきたくなる。もし紅音が何かしらの窮地に陥るようなことがあれば、メンバーはみな全力で彼女を助けにいくだろう。たとえ世界中を敵に回したとしても。
スタジオの入り口が開き、紅音が入ってきた。こちらへ近づいてくる。
「どう、調子は?」
紅音が穏やかに尋ねてくる。
「はい」
「なるほど、ハイになってるのね」
「ソラさん」
「なんでしょう」
「好きです」
「ぶっ!」
紅音が吹き出した。それから珍しく頬を染め、うろたえている。
「ど、どうしたのさ急に。びっくりしたよ」
「私、キムチが好きなんです」
「キムチ? あ、そ、そうなんだ。教えてくれてありがとう」
戸惑う紅音の姿を見るのは新鮮で、楽しかった。
「あたしも、好きだよ」
「キムチがですか?」
「そう。キムチもだし。サッキーのことも」
紅音の朗らかな笑みが目に入る。
「ありがとうございます」
「なに、あたしたち今から結婚しちゃうの?」
「いいえ、しません」
「サッキーにそのつもりがあれば、あたしはいつでも待ってるぜ」
「覚えておきます」
真は、自室で窓を打つ雨を眺めていた。止む気配のない、雨。
近いはずなのに遠い、あの笑顔。いつからか届かなくなってしまった、あの手の平。
どこで道を違えてしまったのか。
この道は一方通行。後戻りはできない。
無かったことになどできない。
覚めない夢の中に、自分たちは生きている。
降り続く雨。
色も、音も、霞んでいく。
進むべき道も見えなくなる。
雨が上がった後の景色は、まだ遠い。はるか彼方。
分厚い雲に覆われ、太陽も拝めない。
ただ待っているしかないのか。
もどかしさを抱いて、その時を。
結婚式を明日に控えた桃は、自室の押し入れからアルバムを引っ張り出していた。
ページをめくり、幼いころの自分たちを切り取った写真を眺めていく。
思い出の中には、いつも兄の姿があった。
楽しい時も、悲しい時も、いつも傍には兄がいてくれた。
だから、寂しい思いをせずに済んだ。ここまでやってくることができた。
桃の顔からポタッと滴が垂れた。アルバムに落ち、表面に水滴を発生させる。
桃は目元を拭い、それ以上の状況の悪化を防いだ。
付着した水滴を拭き取り、アルバムを閉じる。
兄に伝えたいことがあった。伝えなければいけないことがあった。
こんなに遅くなってしまった自分が、情けない。
明日、この想いの丈を、ぶつけよう。
ここから歩き出すために。
日差しの中へ、踏み出すために。
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