指相撲でオリンピック目指します

「あ~ら、いらっしゃい紅音ちゃん」

『セントBARナード』に入ると、カウンター越しにぼたんが声をかけてきた。紅音は犬にちなんだ挨拶を返す。

「チワワーす」

「オホ! チワワーす。あら、あらあら、まあ!」

 ぼたんが紅音の後ろにいる真に目を留めて声を上げた。

「今日は男の人と一緒なの!? もしかして彼氏?」

「いいや。生き別れていた双子の姉です」

「いや、生き別れてないし双子でもないしせめて兄か弟って言ってくれ。一文にボケの数が多すぎる」

「ちょっと、あなたびしょ濡れじゃない」

 ぼたんがタオルを持ってカウンターから出てきた。真はしばらくの間ぼたんにもみくちゃにされて体を拭かれた。

「あ、おい、どこ触ってんだあんた」

「オホホ! いいじゃないちょっとぐらい」

 紅音は先にカウンター席に座って待っていた。まだ時間が早いので他に客はいない。

 一通りのやりとりを終えたぼたんがカウンターの奥に戻り、真は紅音の隣に座った。

「こちらがボーさん。こちらはマコッちゃん」

「ども」

「ウフフ。ようこそいらっしゃい。それで、二人はどういう関係なの? ワタシとても気になっちゃう」

「お互い指相撲でオリンピックを目指し切磋琢磨した仲なんです」

「オリンピックにそんな地味な競技あるか。親指くいくい動かすだけだろ」

「紅音ちゃんは何考えてるかよくわからないところがあるけど、根は良い子なのよ。紅音ちゃんのことよろしく頼むわね」

「だから! そういうのじゃないって!」

「あたしだってヒモ男なんかやだよ」

「悪かったなヒモで」

 二人はドリンクを注文した。

 少し落ち着いたところで、紅音は切り出した。

「先ほどの女性はどなた?」

 喫茶店で突っかかってきた玲奈という女のことを尋ねる。

 真は一度紅音に目を向けてから、前に向き直る。

「いわゆる元カノってやつだ」

「ふーん。綺麗な人だったね。どうして別れちゃったの? なんだか向こうさん未練がましい感じだったけど」

「恥ずかしいところを見られたな」

 ぼたんはカクテルを作りながら微笑んで二人の話を聞いている。好奇心旺盛なようで、こういうところはちゃんとわきまえている。だからつい話を聞いてもらいたくなる。

「玲奈は、俺にはもったいない女だったよ」

「フラれたの?」

「俺がわざと向こうにフラれるように仕向けた」

「どうして?」

「俺みたいな男からフラれるなんて、プライドが傷つくだろ?」

「それは、思い上がりだね」

「はあ?」

「そもそもなんで別れようと思ったの?」

「……玲奈が、結婚を意識し始めたからだ」

「こんなヒモ男と?」

「俺だって少し前までは真面目に働いてたよ」

「じゃあ結婚しちゃえばよかったじゃん」

「……」

 真は思い詰めた顔で黙りこくってしまった。

 二人の前にカクテルが置かれた。一つは透き通った桜色、もう一つは常夏の海のように緑がかった青。

「なるほど。ちょっとわかってきたよ」

 紅音がそう言うと、真がちらっと視線を向けてきた。

 カクテルに口をつける。上品な甘さだ。

「あたしには、兄弟がいない」

 紅音は目の前の桜色に輝く液体を眺めながら話す。

「だから、上手く想像できないけど、マコッちゃんが考えていることはなんとなくわかるよ」

 紅音はグラスを持って意味もなく中の液体を揺らした。

「そして、妹の桃が考えていることも」

 紅音は前を向いたまま、目線だけを真に移す。真は思い詰めた表情で俯いていた。

「まっ、今日はゆっくりしてさ。今度からレッスンを始めていこう」

「レッスン?」

 真は不思議なことでも聞いたような目で紅音を見た。

「妹の結婚式を滅茶苦茶にするためのレッスンだよ」



 夜、桃は自宅のリビングでソファに座りながらテレビを観ていた。わざとらしい芝居でわざとらしい台詞を吐くテレビドラマだ。世の中の多くの人間はリアルさよりもこのわざとらしさを求めている。

 玄関のドアが開いた音がした。リビングに誰か入ってくる。

「おかえり」

 桃はテレビに向いたまま兄のほうも見ずに言った。

「ただいま」

 真から返事が返ってくる。今日は珍しく呂律も回っていた。

 桃は兄と話したいことがたくさんあった。今すぐ振り向いてその顔を見ながら弾丸のように言の葉の雨あられを浴びせたかった。だが、桃の体は意思に反し、石のようにがっちりと固まっていた。動け、動け、と何度も命じても、動き出す素振りを見せない。桃はただテレビを観ているふりを続けるしかなかった。

「今日、玲奈と会ったよ」

 兄のその言葉で、桃の体は反射的に振り返った。

 桃の形相に驚いた様子の真の顔が目に入る。

「玲奈さんと会ったの?」

「べつに、たまたま出くわしただけだよ」

 桃の口が何かを言いたそうに開閉を繰り返す。しかしそれは声にも言葉にもならなかった。

 心配した様子の真が近づいてくる。そして桃の肩にポンと手を置いた。

「もうすぐお前の結婚式だな。準備は大丈夫か?」

 兄の顔は、穏やかで、優しかった。

 昔から、ずっと。

 どうすれば伝わるのだろうか?

 私だって、その笑顔を守りたいんだ。

 こんなにも、あなたの幸せを願っているのに。

 すぐ傍にいるはずなのに、兄の姿はあまりにも遠かった。

 手を伸ばしても、決して届くことはなかった。

 わざとらしいテレビドラマの音声が部屋の中に滑稽に響いていた。

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