兄、妹
「こんにちは。どうぞ」
紅音はやってきた真に向かいの席を勧めた。整えられた口ひげに丸いフレームの眼鏡をかけている真は、探るようにその細い目を紅音に向けている。
二人は駅前のビルにあるチェーン店の喫茶店にいた。一階はコンビニで喫茶店は二階。
真はゆっくりと赤い背もたれの椅子に座る。真は良くも悪くも雰囲気に覇気がない。面白味はないが、一緒にいて落ち着くタイプの人間のように思える。
先に来てコーヒーを飲んでいた紅音は、真に注文するよう勧めた。近くにいる店員にドリンクを頼む。
「待ち合わせの時刻ちょうど。今日は遅刻しなかったですね」
腕時計を見ながら紅音が言うと、真はバツの悪い顔になった。
紅音はコーヒーを少量すする。辺りをちらちらと眺めていた真が口を開いた。
「打ち合わせならあのなんとかって会社でやればよかったのに、今日はどうして喫茶店なんですか? それに他のスタッフもいない」
「なに? あたしと一対一じゃ荷が重いって?」
「いや、べつに」
「あそこはあたしたちのホーム。あなたにとってはアウェイでしょ? 今日はフラットにいこう。あたしはあなたの本音が聞きたいんだ」
紅音の言葉に真は一瞬目を見開き、それからしばらく紅音を見つめた。注目を浴びた紅音は不敵な笑みを返す。
店員が来て真の前にコーヒーのカップを置いた。真がちらっと紅音に目を向ける。
「今日はあたしのおごりなのでお構いなく、ギャンブラーさん」
真はまたバツの悪い顔になった。
「それで早速だけど、打ち合わせに入りましょうか。なんだっけ、あの、妹さんの結婚式を滅茶苦茶にしたい、だっけ?」
「そうそう。新郎と向こうの親族さんにとことん嫌われて、破談させちまおう」
「それなら、ケーキ入刀の時にウェディングケーキを爆破させるとかどう?」
「いいね。一発ドカーンとやって、新郎新婦ともにクリームまみれだ」
「他には、チャペルの床をローション漬けにしたらどうかな?」
「いいね。式が始まる前から親族一同すってんころりんのローションまみれだ」
「愛の誓いを促す牧師さんは子役をあてようか。みんなの前でぶっちゅーしてくださいとか言うんだ」
「そんなこと言われたらたまったもんじゃないな」
「ブーケトスはインクの入った水風船にすり替えようか」
「ヤッホー、みんなでスプラトゥー――って、んなわけあるか!?」
「えっ?」
「そんな結婚式やる奴どこにいんだ!?」
「なんだよ、あんたから言い出したんじゃないか」
「まさか本気にするとは思わなかったよ」
「まあそうピッピしなさんなって」
「それを言うならカッカだ」
「ちなみに言っておくけど、あたしはわりと本気だよ」
真が紅音に真っ直ぐ目を向ける。
「そのほうがいい思い出になるかもしれないじゃん」
真は紅音を見つめながら何度かまばたきをした。
「……いや、ならないだろ。参加者一同クリームローションインクまみれなんて」
「ちっ、騙されなかったか」
真は呆れたように苦笑いを浮かべた。
「妹さんの結婚式だけど、どれぐらいの人を呼ぶのかな? 親族だけ? それとも職場関係の人たちも?」
「たぶん来ても親族と何人かの友人だけだと思う」
「ご両親も来るよね」
「向こうはね。こっちの親族は俺一人」
「ん? どうして?」
「俺たちに親はいない」
「まさか、コウノトリに運ばれてやってきたとか?」
「なんでやねん」
「もうええわ」
「よくないわ。親は一応いるっちゃいるけど、まあいないのと一緒だ」
「訳を聞かせてくれ」
「なんで急に台詞口調なんだ。まあとにかく、俺と桃は親に頼らず二人でやってきた」
「桃? 妹さん桃って言うんだ。桃みたいに可愛いねとか言うの?」
「言うか!? 兄貴がそんなこと言ったらキモいだろ」
「それで、キモ兄貴と桃がなんだって?」
「……あんたと話してるとすげー疲れる」
「それほどでもー」
「ふー。あんたの周りにいるスタッフはよほど我慢強いんだな」
「それでそれで?」
「なんだよ」
「マコっちゃんは今妹のヒモみたいなものなんでしょ」
「マコっちゃん? 俺?」
「いや、今はそっちはいいから。昔からだらしない兄貴だったの?」
「昔はそうでもなかったよ」
「むしろ頼りがいのある兄貴だった?」
「さあ?」
「あなたたち兄妹の話、もっと聞かせてほしい」
「……」
「あなたが妹に本当に伝えたい想いを知りたい。あたしたちは、それを伝えるためのお手伝いができる」
一方そのころ。『とびとり』の事務所では、賢二と咲来がデスクに向かっていた。
二人はお互いお喋りなほうではないので、紅音がいない時この空間はとても静かだ。咲来の場合は紅音がいてもいなくてもほとんど変わりないのだが、賢二は紅音がいるとついどきまぎしてしまう。性格の芯の部分では、咲来はある種紅音以上にどっしりとしていて、賢二は神経質で不安定な部類に入る。少なくともそういう自覚はあった。
現在早急に片づけなければならない仕事はなかったので、賢二はこの機会に咲来にコミュニケーションをはかってみようかと考えた。同じ『とびとり』の仲間なのだ。だが一言話しかけるだけでも賢二にとっては大きな勇気が必要となる。壁を一つ乗り越えなければ達成できないチャレンジだった。
「あ、あの」
震える声が虚しく空間に響き、消えていった。
「に、新島さん」
向かいの席にいる咲来がPCのモニター越しにちらっと視線を寄越した。
「喉乾いたりしていないですか?」
「いいえ。とくには」
咲来の視線がPCのモニターに戻る。それきり会話は途切れてしまった。
ひ、怯むな俺。賢二は自分自身を奮い立たせてもう一度会話を試みる。
「新島さん」
再び咲来が目線を向けた。
「お腹とか空いたりしていないですか? おやつとか食べますか?」
「いいえ。とくには。必要ありません」
またもあっさりと会話が遮断されてしまった。
こういう場合もし紅音だったら、ユニークな言い回しを用いて知らぬ間に自分のペースに持ち込むことができるのだろう。たとえ相手が鉄壁のディフェンスを誇る咲来だったとしても、変幻自在な紅音だったら縦横無尽に攻め込むことができる。それは自分にはない羨ましい才能だった。
「冬ってどうして寒いんですかね?」
賢二の口から自分でも気づかぬうちにそんな言葉が飛び出していた。
咲来のPCのキーボードを打つ音がピタッと止まった。
「もしかすると、ラーメンをフーフーやるみたいに、巨人が地球をフーフーしているからですかね?」
自分でも何言っているのかわからなかったが、まるで誰かに操られるようにしてそんな台詞が出てきた。紅音の生霊が憑りついているのかもしれない。
少し間があってから、咲来が口を開く。一体どんな批難の言葉で貶されるのだろうと賢二は身構えた。
「違いますよ。冬が寒いのは、おでんを美味しく感じられるように宇宙人が地球の暖房を切るからです」
いつもの淡々とした口調で咲来は言った。予想もしていない返しに賢二は戸惑う。
「そ、そうですか。そうですね。そうかもしれないですね」
なんだか「そう」ばかり言っている自分が恥ずかしくなった。
咲来が賢二に顔を向けた。
「なぜ急にそんな話を? 今は冬というより初夏に近いですし」
「いや、とくに理由はないんですけど。すみません、仕事中に迷惑でしたね」
「いいえ、迷惑ではありません。新たな発見というか、新鮮な気持ちになりました」
「それはよかったです。新島さんは――」
「あの」
「はい」
「その新島さんという呼び方、もう少しくだけた言い方でもいいんですよ」
「はあ」
「朝海さんのほうが一つ年上ですよね。いえ、この職場では上下関係はないはずですし」
「では何て呼びましょうか?」
「サッキーで」
「い、いきなりそれだと、ちょっとハードルが」
「そうですか?」
「じゃあとりあえず、咲来さんでいいですか?」
「わかりました。賢二さん」
一瞬、咲来が微笑んだような気がした。彼女はすぐに仕事に戻ってしまったので、もしかすると錯覚かもしれなかったが。咲来の笑顔は滅多に見られるものではない。とても得をした気持ちになった。
コンコン、と事務所のドアが控えめにノックされた。賢二は席を立ち、入り口に向かう。そういえば依頼者の対応を紅音から任されていた。
賢二はドアを開けた。そこには丸顔の小柄な女性が立っていた。
「こんにちは。はじめまして」
「あ、どうも。はじめまして。どうぞ」
賢二は女性に中に入るよう促す。
「失礼します」
女性が事務所に入る。そして言った。
「私、坂下桃と言います」
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