近く遠く果てなく
「たのもー!」
『とびとり』スタジオのドアが開くとともに威勢の良い声が響いた。小学生ダンサーの岡崎七菜だ。
「おーす、ナナナ。今日も元気だね」
「モチモチですよソラさん。モチモチ苺大福でやらせてもらってます」
なんだかよくわからないが、元気そうなので良しとしよう。
スタジオに少しずつダンサーが集まって各々準備をしていると、七菜が紅音のもとにやってきた。
「あのー、ソラさん。オラいってえ頼みごとがあるのですが」
「折り入ってかな? なんでも言ってみ」
「チック・タック用にダンスを踊るので、撮影をお願いしてもよろしいでしょうか」
『チック・タック』とは、動画投稿に特化したSNSの名称である。Tから始まるローマ字六文字のあれとは何の関係もない。
「もちろんいいぜ。最高のショットを撮影して進ぜよう」
紅音は上下黒のスウェットの七菜の前でスマートフォンを構える。
「あのさ、ナナナ」
「なんでしょう」
「ナナナはもっとピンクとかイエローとか明るい色が似合いそうな気がするけど、だいたいいつもシックな色が多いよね」
「そーですね。クールなソウチョーさんの影響が出まくっちゃってますー」
その菅田聡一は、今日は他の仕事があり欠席していた。
「なるほど。じゃあ今度ソウチョーに真っピンクの服を着てくるよう頼んでおくよ」
「桃色ソウチョーさん!? ぜひ!」
撮影を開始した。
「今日は基本的なステップをやっていきたいと思います。まずはボックス」
七菜が四角を描くように交互に左右の足を動かしてステップを踏んでいく。
「おおいいね。ナイス」
「次は、キックステップ」
ジャンプしながら小さく前蹴りするような形で交互に足を出していく。
「か、可愛ゆい!」
「続いて、ビズマーキー」
大の字の形でジャンプをして、着地後左手を右に伸ばす。再び大の字でジャンプをして、右手を左に伸ばす。それを繰り返す。
「キャー! たまらん! カメラ目線お願いしまっす!」
「ランニングマン」
前後に足を開いて、後ろの足を蹴り上げるような形で上げて前に出す。腕は胸から腰の辺りをリズムに合わせて上下に動かす。
「うおおおお!! うぬは天使か!? 一家に一人いてくれ頼む!」
「あなたは変態カメラマンですか?」
二人の様子を眺めていた賢二がぼそっと呟いた。
深夜、真はマンション二階のドアを開けた。玄関から中に入る。
千鳥足で進んでいると、一度廊下の壁に激突して大きな音を出してしまった。
ふらつく足でどうにかリビングまで辿り着き、ソファの上で力尽きた。体は熱く、思考はふわふわと体から飛び出してその辺に漂っていく。
少し、時間が経った気がする。数時間経った気もしたし、ほんの数十秒の気もした。
どこかからすすり泣くような声が聞こえた。
意識がはっきりしてくる。
真は上半身を起こして、軽く首を横に振った。
自宅のリビングだ。だいぶ飲んでしまったらしい。頭の一部が石になってしまったみたいに痛い。
また声が聞こえた。部屋を隔てたくぐもった音だ。
真は立ち上がり、妹の桃の部屋の前まで歩いた。
中から小さな泣き声が聞こえる。
「桃?」
真が声をかけた途端、泣き声は消えた。
真はドアの取っ手を掴もうとしたが、思い留まって手を下ろした。そのまま桃の部屋から遠ざかってリビングに戻る。
ウォーターサーバーからコップに水を注ぎ、一気に飲み干した。
ソファにどかっと腰を下ろす。
無様だった。いい歳して、自分は一体何をしているのだろう?
桃が泣いていた。最近は、彼女の泣き顔を目にしていない。
桃が小さかったころ、学校から泣いて帰ってきた時のことを真は思い出した。
あの時桃の頭に伸ばしたように、真は右手を上げた。
目から頬へ何かが流れていく。自分は泣いているようだった。
桃と一緒に暮らすのは、あと少しだ。
こんな惨めな兄の存在など忘れて、幸せになってもらいたい。
門出を祝わなければ。
桃が幸せになれる。嬉しいはずなのに、なぜこんなにも悲しい気持ちになるのだろう? 胸が張り裂けてしまいそうなほどに。
真は目を覚ました。カーテンの隙間から朝日が漏れている。
真は自室のベッドで眠っていた。
しばらくベッドの上でごろごろと寝返りを繰り返していると、ドアのすぐ外から声が聞こえた。
「お兄ちゃん、起きてる? 私、仕事行ってくるよ」
真は居留守ならぬ居熟睡を決め込んだ。
「朝ご飯作っておいたから、食べてね」
食べるさ。お前が作ったものならなんだって。
桃はそれきり何も言わなかった。ただ、ドアの外にまだ彼女がいる気配があった。
他に何か言いたいことがあるのかもしれない。
しばらくすると遠ざかっていく足音が聴こえ、桃は玄関から出ていった。
真はベッドの上で仰向けになり、ぼんやりと部屋の天井を見つめる。
感情の整理がつかない。
桃が自分のもとから離れる。あたりまえにやってくる未来であったのに、自分はこんなにも準備ができていなかった。
これまで桃のためを思って生きてきたつもりだった。だけど結局は、自分のためだったのではないか? 単なる自己満足のため。そうでなければ、今この胸の内に巣食う感情の説明がつかない。
愚かだった。自分ほど愚かな人間など、他にいるだろうか?
真はカーテンを開けた。
朝日が眩しい。眩しすぎる。きっともう、光ある場所に自分の居場所など無いからだろう。
これからどうすればいいのかわからなかった。なんだかもう、全身丸ごと冷凍保存でもされてみたい気分だった。そうすればきっと、熱を持ったこの感情も冷えて凍りつくだろうから。
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