雨上がりのJune Braide

消し飛ばせ結婚式

 朝海賢二は夢を見ていた。将来の目標という意味の夢ではなく、眠っている時に見るふわふわとしたあっちの夢だ。

 賢二は厳かな空間にいた。正面に真っ直ぐ通路が伸び、その通路を挟むようにして左右に数人が同時に座れる座席が並んでいる。座席は白い花で飾られ、キャンドルが焚かれている。壁も床も白い。

 天井は高く、三角形のように中心部分が上に尖っている。豪華なシャンデリアがあって、もしそれの下敷きになったらずいぶん痛そうだと夢の中の賢二は呑気に思った。

 通路の先はガラス張りになっていて、その近くに誰かがいる。裾が床につくウェディングドレス姿で、賢二に背中を向けていた。

 賢二は直感でその人物が誰なのかわかった。急に胸がドキドキと高鳴る。賢二は通路を歩き、花嫁に近づいていった。

 あと二メートルぐらいの距離まできたところで、賢二は足を止めた。花嫁がドレスの裾を床に擦らせながらゆっくりと振り向いた。

 紅音だった。ベールを被った、神妙な表情。

 賢二は急に焦った。彼女に何か言わなければならない言葉があったはずだ。それが思い出せない。そわそわと上着やズボンのポケットを探ってみたが、メモは見つからない。出てきたのは先月の水道料金の領収書だけだ。

 紅音が笑った。だが、それはおよそ人間のものとは思えない笑みだった。細く開かれた口は頬のほうまで裂けていて、見開かれた目は爬虫類のように瞳孔が鋭い。

「ケーケケケケケケケ」

 悪魔のような顔の花嫁姿の紅音が、愉快そうな声色で「ケ」を連呼した。

 賢二は怖くなった。予想していた展開とだいぶ違う。

「ケケケーケケケーケケ」

 紅音の声は少しニワトリの鳴き声にも似ていた。

 賢二がその場から逃げ出そうとして走り出すと、人間離れしたスピードで接近した紅音に肩を掴まれた。ウェディングドレス姿でどうしてそんなに早く動けるのか。

「やめてください!」

「ケッケケッケケー」


 ぶわっ、と賢二は勢いよく布団から上半身を起こした。

 荒い呼吸を繰り返す。額からは汗が滲み出ている。

 恐ろしい夢だった。夢だとわかっていたはずなのに怖かった。

 大空紅音という人物に対して自分は潜在意識下で一体どんな印象を抱いているのだろうと賢二は疑問に思った。花嫁の対象なのか、それとも悪魔なのか。

 おそらく後者に違いない。賢二は自分をそう納得させて、身支度を始めた。



「ケンケン」

「ひぃ!」

『とびとり』の事務所での仕事中、紅音が賢二に声をかけると怯えた声で反応された。

「えっ、どうしたの?」

「い、いえ、なんでもないです。何かご用ですか?」

 明らかになんでもない様子ではなかったが、紅音は構わず話す。

「あのさ、来週の時限爆弾解除ミッションの話だけど」

「そんなミッションはありません。僕らはいつから爆発物処理班になったんですか?」

「たった今さ」

「遊ぶなら一人でやってください」

「けっ」

「ひぃ!」

 賢二がまた反応した。なんだろう。「ケ」に反応する体にでもなってしまったのだろうか。

「ソラさん」

 紅音と賢二のやりとりを蚊帳の外に置いている新島咲来が声をかけてきた。

「なんだいサッキー。ついにあたしと結婚する気になった?」

「ひぃ!」

「なっていません。本日十五時に依頼者がお見えになります」

「ああ。どんな人だったっけ?」

「ひぃ!」

「三十三歳男性です。職業欄には、ギャンブラーと。どうやら無職ですね」

「ハッハッハッ。ああ違う。ケッケッケッ」

「ひぃ!」



 事務所内の掛け時計の針が依頼者との約束の時刻である十五時を示した。そこからさらに五分ほど進んでも、依頼者の姿は見えず連絡もない。

「あれ、もしかしてすっぽかされたかな?」

 応接セットのソファに座っている紅音は誰へともなく問いかけた。

「さあどうでしょう。この方は支払い能力があるかどうかも疑問が残りますし」

 咲来が答えた。紅音は知っている。ここにいる三人の中で一番時間にうるさい人間は咲来であることを。一見ポーカーフェイスを保っているように見えるが、おそらく咲来はイライラしている。毎日顔を突き合わせていればおのずとお互いのことがわかってくるものだ。実は怒らせたら一番恐いのは咲来かもしれない。

 さらに時が過ぎ、時計の針が十五時二十分を指し示そうとしていた時、事務所入り口のドアが控えめにノックされた。

「使用中でーす」

 紅音は呑気に言った。

「ここはいつからトイレになったんですか?」

 賢二が代わりに立ち上がり入口に向かった。ドアを開ける。

「すいません。ちょっと遅れました」

 見えたのは、センター分け、丸いフレームの眼鏡になめくじみたいな平たい目、丸顔に整えられた口ひげと顎ひげが少し滑稽に映る、ワイシャツにベージュのネクタイを巻いた男だった。全体的に、どことなくくたびれた感じがある。

「あなたが、えーと、アントワン・ジョージさんですか?」

「えっ? いやいやいや」

 紅音が顧客情報の印刷された用紙を眺めながら問いかけると、男が大袈裟に手を振って否定の意を示した。

「あれ、違ったか」

「違うに決まっているでしょう」

 賢二が呆れながら言う。

「あたしは大空紅音です。よろしく」

 紅音は立ち上がって男のほうへ近づいていき、右手を差し出した。

「あ、どうも。坂下真さかしたまことです。って、うおっ!」

 真は紅音の右手の上にのっているものに気づいて飛び上がった。紅音の手には○Gとでも呼ぶべきクリーチャーがのっている。

「はあ。初対面の顧客相手にそんなことしますか? 大丈夫ですよ、質の悪い玩具ですから」

 賢二がどうにかフォローをするが、真は虚を衝かれもはや怯えてしまっている。遅刻してきたことに対するちょっとした仕打ちのつもりだったが、少しやりすぎたか。

「どうぞ、お座りください」

 紅音は応接セットのソファに座り、対面の席を指し示した。

 真はおどおどとした様子で席に着いた。

「それで、ビスケット・クルーニーさん」

「坂下真です」

 反応が早い。意外と頭の回りは良い人物かもしれない。

「坂下さん。あたしたちにできることであれば、なんでもご協力しますよ。今回はどういったご用件でご連絡いただけたのでしょうか」

「あ、はい。えー……」

 真は視線を横に逸らして言葉を濁し、そのまま途切れた。

 間を埋めるように咲来がやってきて、コーヒーのカップを真の前に置いた。

「あ、ども」

 咲来は淡々と自分の席に戻っていく。

「それで、ホワイティ・ロンドンさん」

「違うって、坂下真! あと何回これ繰り返すんだよ。……あっ」

 真はつい大きな声を出したことを恥じるように口元に手を当てた。今のは彼のリアルな反応に見えた。いいぜ、少しずつ本性を掘り出してやる。

「あらかじめこちらにいただいた内容によると、近く妹さんの結婚式が行われるようですね」

「はい」

「ちなみに妹さんの年齢は、お聞きしても?」

「はい。俺の六つ下だから、二十七ですね」

「可愛いですか?」

「えっ?」

「妹さんのこと、可愛がってきたんじゃないですか?」

「まあ、それなりに」

「お兄さんはご結婚は?」

「してない」

「そうですか。それはちょっと寂しくなりそうですね」

「あんたに何がわかる? あ、いや」

 一瞬、丸縁眼鏡奥の細い目に睨まれた。その後彼はすぐに目を伏せたが。これはなにかちょっとありそうだ。

「では、改めて尋ねますが、坂下さんが我々に求めていることは何でしょう?」

 真は一度紅音に視線を向けてから、横に逸らせた。

 紅音は真の言葉を待った。賢二と咲来も注目している。

 そして真はぼそっと声を発した。

「……してほしい」

「はい?」

「妹の結婚式を、滅茶苦茶にしてほしい」

 不意を衝くその言葉に、紅音も少し反応が遅れた。

「滅茶苦茶に、とは? 具体的にどのような」

「俺はヒモなんだよ。妹のおかげで生活してる。その妹が出ていったら、困るだろ? だから、結婚式を台無しにして、破談させてやるんだ」

 賢二と咲来のほうから溜め息が漏れた。ずいぶんな発言である。

「その手伝いを、我々にしろと?」

「ああ」

 真は勢いに任せて言ったようだが、その顔には苦しみの表情が見えた。彼の中で何かが葛藤している。

「面白そうじゃん」

「えっ?」

 真が顔を上げて紅音を見る。

 紅音は不敵な笑みを浮かべた。

「いいよ。その話、のった!!」

 紅音の陽気な声が室内に響き渡った。

 向こうで賢二が頭を抱えていた。



 なんなんだよ。なんなんだよ、あいつ。もうわけわかんねえ。

『とびとり』からの帰路、真はぶつくさとひとりごちて歩いた。

 自分はなぜあんなことを口走ってしまったのか。妹の結婚式でお祝いするための依頼だったはずだ。それがどうしてこんなことに。

 我ながら無茶苦茶なことを言った。ただ依頼するほうもするほうだが、受けるほうも受けるほうだ。あの、なんて言ったか、大空かんとか、彼女は一体何を考えているのか。不気味だ。思えば会った瞬間からいろいろとおかしかったじゃないか。もしかすると入ってはいけない場所に足を踏み込んだのかもしれない。

 目の前の路上にコーヒーの空き缶が落ちている。

 真は憂さ晴らしにその缶を思い切り蹴飛ばした。

 飛んでいった缶は電信柱に当たり、あろうことか真っ直ぐ跳ね返ってきて真の額に勢いよくゴンと命中した。

「いってぇ!」

 転がった空き缶は役目を終えたように路肩へとはけていく。

「くっそぅ」

 真は額を押さえながら悪態を吐いた。

「お兄ちゃん?」

 背後から唐突に馴染み深い声が聞こえ、真の体がピクッと硬直した。

 覚悟を決めてゆっくり振り返ると、そこに妹の坂下桃さかしたももがいた。真と似た丸顔に、くりっとした小動物みたいな目。

「お兄ちゃん、どこ行ってたの? 最近全然帰ってこないじゃん。電話も出ないし。心配してたんだよ」

 桃が悲しげな表情で畳みかけてくる。

「ああちょっと」

「今日は家に帰るよね?」

「いや、まだ行くとこが」

「ねえ」

 桃が真のワイシャツの裾を掴んだ。

「私の結婚式、来てくれるよね?」

 桃は今にも泣き出しそうな顔をしていた。真は桃のそんな顔を見たくなかった。

「ああ、行くよ」

 真はそう言いながら桃の手を払い、背中を向けた。

 桃がまだ何か言っていたが、真はそれを意識の外に排除して歩き出した。

 これでいいんだ。これで。

 真は自分にそう言い聞かせた。

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