The cry of my life

 眩しい日差し。宝石のようにキラキラと世界を輝かせている。

 菫は病室のベッドから下り、陽光に導かれるようにして窓際に進んだ。風に葉を揺らす緑の木々が見えた。

「おはよう」

 声がして振り返ると、毎日顔を合わせているベテランの女性看護師がいた。

「おはようございます」

「調子は良さそうね」

「はい。いつも面倒見ていただいてありがとうございます」

 その菫の言葉に看護師は何か言いたそうに口を開いたが、そこから言葉が出ることはなかった。

 看護師が出ていってからしばらくして、菫の想いの人が現れた。

「やあ菫。誘拐しにきたぜ」

「紅音さん」

「せっかくだからおめかししてあげる」

「おめかし?」



 数十分後、菫は美容室のシートに座っていた。正面の鏡にずいぶんとやつれてしまった自分の顔が見える。

「さて菫。赤、青、緑、黄色、なんでもござれだけど何がいい?」

 菫の隣に立っている紅音が尋ねてきた。

 どうやらここは派手髪専門の美容室らしい。美容師は全員もれなく印象的な髪色と髪型。店内の装飾もファンキーだ。

「あの、紅音さん。私人生でそんな派手な色に染めたことないんです」

「だからだよ。人生何事も挑戦だって誰かが言ってるだろ、たぶん」

「なんだか緊張しますね」

「大丈夫。優しくしてあげるからさ」

「それなんか変な意味に聞こえるんですけど」

 少し悩んでから髪色を決めた。パンクな格好の美容師がブリーチや染髪作業をしている間も、紅音はずっと菫の傍にいて話しかけてくれた。この人はどうしてこんなに温かいんだろう。

 菫の髪の仕上がりは、鮮やかな青だった。少し緑がかったターコイズブルーが毛先に向かうに従って濃いブルーへと変化している。

「どう?」

 紅音が尋ねてくる。

「はい、まるで生まれ変わったような気分です」

「それはよかった」

 その後菫と紅音は病院に戻った。廊下ですれ違った看護師が菫の髪色を見てピクピクッと眉間の辺りを痙攣させた。

 病室の中で正則と奏太の到着を待った。菫は頭に麦わら帽子を被って驚かせないようにしている。

 紅音と他愛のない会話をしていると、病室の入り口に正則と奏太の姿が見えた。

「こんちは」

「こんにちは。あなたは?」

 正則は菫とフレンドリーにしていた紅音を見て疑問を呈した。

「ただの通りすがりの北風小僧っす」

 菫は声を上げて笑ったが、正則はポカンとした表情になってしまった。

 紅音は正則と奏太と入れ替わるようにして部屋から出ていった。

「じゃあ、行こうか」

 一通り確認を終えた後、正則が菫に手を伸ばした。

 菫は彼のその手を掴む。

 もう一方の手を奏太が握ってきた。

 まるでこの日に合わせてくれたように体調は良い。

 その天からの采配さいはいはせめてもの慰めのように感じた。



 菫の希望で、昼はハンバーグを食べた。なんてわんぱくな希望だろうと思ったが、今日ぐらいは自分のわがままを通したいと思った。口の端にソースをつけていたら、隣に座っている奏太がおしぼりで拭ってくれた。

 車を走らせ、海へ向かう。正則が運転し、菫と奏太は後部座席。

 菫は奏太の体をあちこちペタペタと触りながら、息子とたくさんの話をした。

 学校は楽しい? 友達と仲良くやってる? 勉強はどう? 好きな人はできた? 奏太は少し恥ずかしそうにしながら、それでも菫の質問に真剣に答えていった。ルームミラーに見える正則の顔には微笑みが浮かんでいたが、眼鏡の奥の瞳は少し悲しげに見えた。

 小さく開けた車窓の隙間から潮の香りが漂ってきた。海で生まれたわけではないのに、なぜか懐かしく感じる。生物としての太古の記憶が細胞に刻まれているのだろうか。

 海岸沿い道路の路肩に車を停め、砂浜に出る。正則と奏太がまるで菫がどこかへいなくなってしまうことを恐れるように、両側から手を握って体を寄せた。三人一体となって波打ち際を歩いた。

 海の上を二羽のカモメが飛んでいる。風にのって飛ぶ姿は気持ち良さそうだ。

 押しては引いていく波が濡れた砂に白い泡を残していく。

 太陽は地平線、空と海の境界へと近づいていき、火照った頬のように朱くなっている。何か恥ずかしいことでもあったのかもしれない。

 菫は全身で風を感じた。少し肌寒かったけれど、されるがままに身を任せた。自分の感覚はまだ寒いと感じることができる。そんなあたりまえのことに、小さな喜びを覚えた。

 突然、奏太が足を止めた。握っていた菫の手を離し、両手を目元にあてて泣き始めた。

 奏太はあまり泣かない子だ。口数は少ないけれど、とても我慢強い子だと菫は知っている。そんな奏太が泣いている。

 菫は奏太の前にしゃがんで目線を合わせ、奏太の頭を優しく撫でてあげた。

「大丈夫だよ。大丈夫」

 その菫の言葉は強がりなどではなかった。心から、そう思ったのだ。

 菫は息子の小さな体を優しく抱きしめた。

 大好きな、宝物を。

 奏太の体の震えが次第に治まっていく。

 大丈夫。この子なら、前を向いていける。乗り越えていける。自慢の息子だ。

 菫は奏太を離し、立ち上がる。奏太は目を瞑って歯を食いしばり、泣くのを耐えていた。菫はもう一度奏太の頭を撫でてあげた。

 振り返ると、大きな体の正則が心配そうな顔をして待っていた。体に不釣り合いなその表情が、少しだけ可笑しかった。彼は穏やかで、とても優しい人だ。


 青天の霹靂へきれき。あの日、病院で検査結果を聞かされた時のことを菫は思い返した。それはよく聞く有名な病状だったが、まさか自分がなると考えたことはなかった。なるとしてももっと年齢を重ねてからのことだと思っていた。

 その瞬間から世界が変わってしまった。目の前の現実がそれまで見ていたものと同じだとは思えなくなった。その日から自分の世界は淡く濁り、霞んでしまった。運命に突きつけられた試練はあまりにも過酷だった。

 恐怖と絶望に苛まれる毎日。体が衰えるよりも先に精神が衰えた。この道の先に一縷いちるの光すら見えなかった。

 あの人に出会うまでは。

 自分を友達と呼んでくれる風変わりな。

 青空のように澄んでいる。

 太陽のように眩しくて温かい。

 あの人のおかげで。

 再び前に足を踏み出すことができた。

 憎しみを抱いたこの現状すら、愛することができた。

 そして世界が戻ってきた。

 霧が晴れ、輝きを放っていた。

 なんてことはない。目を背けたのは自分のほうだった。世界が自分を見捨てたのではなかった。


 菫の視界に、黒いものが見えた。砂浜の一角に、黒い幕のようなものがある。

「ねえ。二人に聞いてもらいたいものがあるの」

 正則と奏太が不思議そうに菫を見た。

 菫は後ろの腰の辺りで手を組み、楽しげにワンピースの裾をはためかせて歩いた。黒い幕のほうへ近づいていく。

 一陣の風が吹いた。風が菫の麦わら帽子をさらっていき、染めたての青い髪が露わになる。それを合図に――。

 ワン、ツー、スリー。

 砂浜にリズムを刻むドラム音が響き始めた。

 続いて――。

 ギィーギィーギッ!

 鼓膜を破る勢いで鳴り響く爆音。

 エレキギターの旋律が空気を切り裂いた。

 そして轟音とともに幕が開く。

 開いた幕からステージが現れ、そこから大勢の人間が一斉に飛び出してきた。堤防の上からも隠れていた人間たちが続々と砂浜へ出てくる。二十、いや三十人以上はいる。圧巻の迫力。各々が手拍子をしながら進み出て、曲のリズムに合わせステップを踏み始めた。

 ステージ上ではバンドが組まれている。ギター、ベース、ドラム。そして中心のマイクスタンドの前にあの人がいた。

 菫は笑顔で威勢よく踊り始めたダンサーたちの合間を縫い、ステージへ向かった。一気に鼓動が高鳴り、興奮した。静かだった海岸にアップテンポのロックが乱暴なまでに鳴り響く。

 ステージ上でマイクを持った紅音がリズムに合わせノリノリでステップを踏んでいた。菫が近づいていくと、紅音が手を差し出してくれた。菫はその手を掴む。大好きな、友人の手を。

 手を引かれ、ステージに上がった。紅音のとびっきりの笑顔が目に入る。菫は紅音の隣にあるもう一つのマイクスタンドの前に立った。

 そして息を大きく吸い込み――。


〝スロットル絞って

   どこかへ出かけよう〟


 紅音の歌声に引っ張られるようにして、ともに歌う。

 自分の体のどこにそんな力が残っていたのかと思うほど、力強い声が出た。隣を見ると、紅音が「いいぞ」というようにアイコンタクトをしてきた。


〝罰ゲームなんてやってられるか

   置き去りにして飛び出せ〟


 すぐ傍でバンドが音を生み、ステージ下では大勢のダンサーが海に向かってステップを踏んでいる。地平線の夕陽に向かって。


〝百年生きてみたら

   それで幸せなのか

どんなに欲張りだって

   どうせ全ては手に入らない〟


 体の内から感じたこともないようなエネルギーが迸る。それまで眠っていた何かが、動き出した。


〝万年生きてみたら

   もう朽ち果てた干しものさ

強がりだと思うなよ

   同情なんていらない

命を

   燃やせ!

燃やせ!

   燃やせ!

天まで焦がしてみせろ〟


 隣にいる紅音に合わせて、右手で空を指差すジェスチャーをした。ダンサーたちも全員同じジェスチャーをしている。

 体が熱くなっていく。体の芯が燃えているみたいに。

 私は今ここで生きている。その感覚を強烈に感じた。


〝ガソリン尽き果て

   地図だって無くした〟


 辛い時もあった。

 悲しさと悔しさでガタガタと体を震わせて寝た夜もあった。


〝荒野の真ん中でひとりきり

   夢さえ消えていく〟


 いつ何が起こるかわからない。

 一瞬にしてこの記憶が消えて無くなるかもしれない。


〝独りで泣いていたら

   肩にその手が触れた

クッキー半分もらって

   またここから走り出せる〟


 それでも、前を向いて生きるんだ。

 今を生きるんだ。


〝真っ暗闇の中

   金色の光を見た

もしも叶うなら

   この手に掴みたい

命を

   歌え!

歌え!

   歌え!

地の底まで響かせろ〟


 今度は地面に向かって指を差しながら渾身の声を出した。今ここで全てを出し切ってしまったっていい。未来も過去もない。私は今、生きている。

 間奏に入り、ギターのソロに合わせてダンサーたちの踊りがヒートアップした。こんなに大勢の人間が一斉に。圧巻の光景だった。私のために、この瞬間のためだけに、彼女はこれだけの人を集めてくれた。

 奏太より少しだけ大きい女の子に導かれ、正則と奏太がダンサーたちの間を通ってこちらに向かってくる。

 菫の肩に手が置かれた。見ると、紅音がいて、小さく頷いた。

 曲の静まりとともに、ダンサーたちが一斉にしゃがみ込んだ。ステージ上の菫と、正面に立っている正則と奏太が向き合う。


〝真面目に生きた人生

   少しぐらいはしゃがせて〟


 大切な二人の顔が目に入る。こんな私と一緒に歩いてくれた、大切な家族。

 スピーカーから再び爆音が鳴り響き、ダンサーたちが立ち上がる。菫はその音に負けないように声を張った。片手を二人に向けて、想いを伝える。


〝わたしに出逢ってくれた

   あなたたちがいたんだ

最高の贈り物

   運命に感謝だね〟


 視界が涙で滲んできた。夕陽が目に沁みる。それでも流れ出る気持ちを歌にのせた。


〝この想いいつまでも

   忘れないでいるから

楽しく明るく元気に

   これからも歩いていこう

さあ

   笑って!

笑って!

   笑って!

手を繋ぎまた明日へ〟


 地平線の夕陽に向かって指を差した。また陽が昇ることを願って。


 出し切った。全て。

 鼓動の高鳴りが止まらない。息を吹き返したみたいに。今生まれたみたいに。

 曲が終わり、一気に駆け抜けた旋律が止んだ。

 ダンサーたちが急に白々しい態度になって引き上げていく。バンドのメンバーや紅音も。堤防に上り、向こうに消えていった。始まりは唐突で、終わりも唐突だった。

 まるで夢を見ていたかのように海岸には静けさが戻り、菫と正則と奏太だけが残された。

 正則と奏太はなんとも言えないような表情を浮かべていたが、その頬には涙の痕が見えた。

 菫は涙を拭い、ステージから下りて二人に近づいた。

 出てくる言葉はなく、ただ三人で抱き合った。

 強く、強く。

 たとえ全ての記憶を奪われても、この記憶だけは決して離さないように。

 深く、刻んだ。



 海からの帰り道、菫は車窓から日の沈んだ街の光景を眺めていた。

 車が進むにつれ、見えていた景色が遠ざかり見えなくなる。自分の前を通り過ぎていく。自分の記憶もこの景色と同じように、消えていくものなのだろう。

 隣では奏太が菫の手を握りしめ彼女に体を預けながら眠っている。

 正則が運転する車は菫が入院している病院に向かっていた。

 菫は今日見た海から見える夕陽の光景を忘れることはないだろうと思った。多くの人間の熱気に包まれながら、大切な友人と一緒に歌を歌った。菫の想いを表現した歌を。特別な瞬間だった。決して忘れることはない、特別な思い出。友人に感謝しなければならない。大好きなあの人に。

 病院の駐車場に到着し、車が駐車スペースにバックしていくところで奏太が起きた。左右を見回して状況を確認している。

 菫は車から出て歩き出す。力を出し切って歌った反動か、体はふらふらとして、頭もぼーっとした。でも、今日一日よく動いてくれた。ありがとう、私の体。

 病院の入り口から入ると、ロビーにいつもお世話をしてもらっているベテランの女性看護師がいた。どうやら菫のことを待っていたらしい。

「まったく、無茶しなかった?」

「はい、大丈夫です」

「そう。ならいいけど。それにしても」

 看護師はぶつくさと何か独り言を呟いていた。気に入らないことがあるような、そんな顔。

「どうしたんですか?」

「べつに。明日には撤収しにくるらしいわ」

 菫は看護師が何のことを言っているのかわからなかった。とにかく今日は疲れてしまったので、休みたい。

 自分の病室に向かって廊下を歩いていると、奏太が菫の前に出て走り出した。

「ちょっと奏太。走っちゃだめだよ」

 振り返った奏太は、どこか興奮しているような顔だった。菫の手を取り足早に引いていく。

「ちょっと待ってって」

 菫は病室まできて、中に入った。

 そしてその光景が目に飛び込んできた。

 部屋の中に虹があった。というよりも、虹の中に足を踏み込んだような。菫は確かにそう感じた。壁全体を覆い尽くす、鮮やかな色。

 目を見開き、あんぐりと口を開きながら、菫は虹の近くへ寄っていった。

 折り鶴だ。一つ一つ鶴の形を成した折り紙が無数に折り重なり、部屋に虹を描いている。

 菫の体が震えた。心が、震えた。

 病室に飾られた千羽鶴(千羽どころではない)が意味していることは明白だった。たった一人の人間の、健康を願っている。

 ベッドの縁に一メートルぐらいありそうな長方形のボードが立てかけられているのを見つけた。

 菫はそれを見て、泣いた。感情が溢れ、声を出して泣いた。まるで小さな子供みたいに。

 ボードには鳥の形のマークが描かれ、その周りに白い部分が見えなくなるほどたくさんのメッセージが書き込まれている。寄せ書きだ。全て。全て、菫への応援メッセージ。

 こんなことがあっていいのだろうか? ただ生きているだけで、こんなに嬉しいことがあって。

 涙がとめどなく溢れてくる。この感情は抑えられなかった。

 虹色の鶴たちに囲まれながら、菫はそのメッセージを見つけた。ボードの真ん中に彼女らしい大らかな書体で書かれている。

『また遊びに行こうぜ!』

 菫は泣きながら、笑った。

 約束だ。

 この約束を守らなければ。

 絶対に生きる。

 この美しい世界に生きていたい。

 心から、そう思った。

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