消沈と揚々

 ありふれた人生だった。これまで辿ってきた道を思い返し、菫はそう感じた。

 特筆すべきことのない幼少期を過ごし、学校に行き、勉強して、人並みに恋をして、遊んで、会社に勤め、結婚して、子供を産んで。

 普通に年を取って、普通のおばあちゃんになって。

 それでよかったのに。

 人はなぜ死ぬのだろう?

 何のために死ぬのだろう?

 なぜそのようにデザインされているのだろう?

 自分が死ぬことに、何か意味があるのか?

 そうでなければ、あんまりだ。

 でも。

 もしかすると。

 人に死が訪れるのは。

「生」を意識するためだろうか。

 失うことを恐れるから、大切にするのだ。

 すがるのだ。

 自分が生きた記憶に。

 死ぬために生きるのではない。

 自分が生きた証を刻むために。

 菫はそう考えた。

 世界はいつだって変わらずにそこにある。

 昨日と同じはずなのに、見え方が変化する。

 生きる喜びが、世界を美しく見せる。

 神は人に世界のその姿を見せたいのか?

 だから死が存在するのか?

 いや、もういい。難しいことを考えのはやめ。

 とにかく、この景色を楽しむことにしよう。

 この世界の美しさにようやく気づくことができたのだから。



『とびとり』のスタジオでフラッシュモブダンスの練習が行われた。賢二が作ったロックな曲に合わせ、聡一が付随させた振り付けを踊る。

 七菜を含めたキッズダンサーたちも軽快にステップを踏んでいく。

 聡一はダンスに加わらず、一人スタジオの隅であぐらを組み何かを考えていた。

「紅音、話がある」

 曲が終わった後、紅音は聡一に呼ばれた。

「ごめん、ソウチョー。そんなこと突然言われても、あたし」

「はあ?」

「だって、話ってプロポーズなんでしょう?」

 プロポーズという言葉に賢二がピクッと反応した。

「んなわけあるか!? なんで俺がお前なんかと」

「えー、じゃあなんだよ話ってー」

 聡一はすぐには話さず、視線を横に逸らして間を置いた。そのまま紅音を見ずに話し始める。

「もし何か起きた時、お前は責任を取れるのか?」

「えっ?」

「お前がやろうとしていることは、そういう危険があるもんじゃないのかって言ってるんだ」

 スタジオの中がしんと静まり返った。

「お前の考えを否定するつもりはない。だけど、それは本当に求められているものか? お前の自己満足じゃないのか?」

 紅音は聡一の飾らないストレートな言葉にショックを受けた。言い返すことができない。確かにそうかもしれなかったから。

 あぐらをかいている聡一がちらっと視線を上げて紅音を見た。彼女の反応を窺っている。

 スタジオにいる他の人間はみな二人の状況を見守っていた。

「おせっかいなんだよ、お前は」

 聡一がとどめの一撃を放った。それは普段からよく言われる言葉だった。けれど、この時聞いたその言葉は、紅音の心を鋭く突き刺してきた。紅音は痛みに耐えるようにして両の拳を握り締めた。

「ごめん、みんな」

 紅音は引きつった笑顔を張りつけてダンサーたちのほうを振り返った。

「今日はここらで解散にしよう。おつかれさま」

 紅音は不安気なメンバーたちを見回して言った。

「ソラさん」

 賢二が心配そうな顔を紅音に向けた。



 紅音は浮かない気持ちで『セント・BAR・ナード』の入り口をくぐった。

「やあボーさん、やってる?」

「やってるやってるぅ! って言わせないでよ」

 カウンターの奥にいるバーテンダー姿のぼたんが大袈裟に言った。

 紅音は店の中を進んでカウンター席に座った。まだ少し時間が早いのか、他に客はいない。

 紅音が何も言わずに佇んでいると、ぼたんが話しかけてきた。

「それで、今日はどんなことで落ち込んでるのかしら?」

「落ち込んでる? あたしが?」

「そりゃあ一目見ればわかるわ」

「あたしそういうのあまり表に出さないタイプなんだけど」

「紅音ちゃんがいくつのころから知ってると思ってるの? 紅音ちゃんが家族や友達の前では泣かないってことぐらい知ってるわ」

「それだとボーさんは友達じゃないみたいな言い方じゃないか」

「そうね。友達というより、保護者みたいな立場かしら」

「お母さんみたいだよね」

「オホホ! お父さんみたいって言われなくてよかったわ」

 紅音はぼたんに飲み物を注文した。

「それで、何があったのかしら?」

「ボーさん聞いてくれるかい。実は、かくかくしかじかなんだ」

「……あのね、紅音ちゃん」

「なに?」

「このワタシたちの会話はフィクションじゃないのよ」

「それは知ってる」

「紅音ちゃんがかくかくしかじかって言っただけでワタシに内容が伝わると思った?」

「ちぇっ、駄目だったか」

 というわけで、紅音はぼたんにかくかくしかじかを話して聞かせたのだった。

 ぼたんが紅音の目の前にドリンクを置いた。

「なるほどね。紅音ちゃんはそのお友達のためにしたいことがあるけど、それを聡一ちゃんにおせっかいって言われちゃったのね」

「ソウチョーも悪気はなかったと思うんだけど、恋する乙女の純真な心は傷ついてしまったってわけ」

「でもやっぱり、紅音ちゃんはあの人の娘ね。血は争えないみたい」

 ぼたんにそう言われ、紅音は父のことを思い浮かべた。それは遠い遠い記憶だった。

「紅音ちゃんはそのお友達に伝えたいことがあるんでしょう?」

「うん」

「生き様、って言うのかしら。あの人はそこに強いこだわりを持っていたから」

「あたしお父さんに似てるのかな?」

「ええ、とっても」

「だけど、今日のことで、どうしたらいいかわからなくなっちゃった」

「ワタシはね、紅音ちゃん。ワタシはあなたの好きなようにすればいいと思うわ」

「でも、それで傷つく人がいるかもしれない」

「あなたが止まってはいけないの」

 紅音は顔を上げてぼたんの顔を真っ直ぐに見た。化粧の濃いオネエの優しい微笑みが見える。

「あなたは常に前を向いているべきなの。振り返らなくていい。あなたには、後ろで支えてくれている人たちがいるんだから」

「……」

「その人たちをもっと頼ってあげて。信頼してあげて。あなたの気持ちに必ず応えてくれるはずだから」

 その時、紅音のズボンのポケットからメッセージの着信音が鳴った。

「ウフフ。噂をすればね」

 紅音はスマートフォンを取り出した。咲来からメッセージが届いている。

『報告

 ソラさんがスタジオを出た後、キャストたちは残って練習を再開しました。現在も続けています。

 朝海さん(ケンケンさん)は「心配しなくていいです」と言っています。

 念のため私もその場に留まっています。

 岡崎さん(ナナナさん)はお腹が空いている模様です。

報告以上』

「くくっ。なんだこの面白文章は。さすがサッキー」

「お仲間さんから?」

「うん。ごめんボーさん。ちょっと行くとこできちゃった」

「ウフフ。構わないわよ。行ってらっしゃい」



 紅音が解散の旨を告げてスタジオを出ていった後、聡一は苛立ちを募らせ「ちっ!」と舌打ちをした。伝えたいことが伝わらないもどかしさ。自分の不器用さ加減。

 紅音に本当に言いたかったのは、「お前一人だけで抱えるな」ということだったのに。

 紅音が一人出ていき、悪くなった空気の中キャストたちが戸惑いの表情を浮かべながら佇んでいる。スタジオの隅であぐらをかいていた聡一は立ち上がり、賢二に向かって言った。

「おい、そこの木偶でくの坊」

「木偶の坊? 僕のことですか?」

「音を出せ。練習を再開する」

 賢二は聡一の意図を探るように見返した後、言われた通り曲をかけた。

 聡一は一人鏡の前に立ち、振り付けを確認していく。

 曲が進むにつれ、一人二人と見ていたダンサーたちが加わってきた。

「お供します!」

 七菜が威勢よく言い、聡一の隣で踊り出した。聡一は黙ってただ踊り続ける。

 そのうち空間を震わすエレキギターの音が聴こえてきたので、見ると、賢二が曲に合わせて演奏していた。本番ではドラムやベースを扱う人間の手配もしている。

 何度も繰り返し練習した。みないつになく真剣な表情に見えた。

「七菜はお腹が空きました。けど頑張ります!」

 なぜか聡一に懐いている七菜が尋ねてもいない報告をしてくる。

 スタジオの隅で事務員の咲来が無表情のまま練習の様子を眺めていた。



 紅音はスタジオの扉を開けて中に入った。

 耳に攻撃的に入ってくるエレキギターの音。壁一面のミラーに向かってダンサーたちが踊っている。

「なんだよ、解散って言ったじゃんか」

 紅音は誰へともなく呟いた。

 ダンサーたちの最前列で、聡一が踊っている。紅音はそちらにつかつかと近づいていった。

「やい、ソウチョー」

 聡一は意識的に無視をした。

「ソウチョー、聞こえてんだろ」

 聡一の眉間に皺が寄った。

「ソウチョーソウチョーソウチョー」

「あーうっせー! こっちは練習してんだ話しかけんな!」

 なんだよ、照れ隠しかよ。

「ソラさん」

 聡一の代わりに七菜が応じてくれた。

「この曲は、ソラさんの大切なお友達のための曲なんですよね」

「そうさ」

「それならこの不肖ふしょう岡崎七菜、踊らさせていただきやす」

 七菜は軽快にステップを踏んでいく。

 ダンサーたちの熱意を煽るように、賢二が奏でる音がヒートアップしていく。

「ちぇっ、なんだよみんなして」

 紅音はスタジオの隅で練習を見守っている咲来のほうへ近づいていった。

 咲来と並んで立って練習の様子を眺めていると、咲来が口を開いた。

「ソラさん」

「なーに?」

「ソラさんはこの前私に訊きましたよね。どうしてここに来てくれたのかって」

「ああ」

「私はこの雰囲気に惹かれたんです。一体感と言うのでしょうか。大勢の人間が一つの目標に向かって意識を高めていくこの雰囲気に。それは私が今まで味わったことのない感覚でした」

「うん」

「私は表情にあまり出ないですけど、胸が熱くなる時もあるんですよ」

「それならあたしだってさ、ヘラヘラしてるように見えて、今結構泣きそうなんだよ。みんなが頑張ってくれてて」

「みんなソラさんの想いを大切にしたいんです」



 そして、決行の日がやってきた。

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