想いのために

 朝、紅音は『とびとり』の事務所に入った。咲来が一人デスクで仕事をしている。

「おはよー」

「おはようございます」

「ケンケンは?」

「下のスタジオにいるみたいです。楽器の音が聴こえるので」

「そう。曲作ってるのかな。それじゃあ邪魔しちゃ悪いな」

「その件ですけど、当日の会場の使用許可は得ました」

「さっすがサッキー。仕事が早い。スペシャルサンクス」

「流行ってるんですか、それ」

「あたしの中でじわじわと」

 その日、紅音は珍しくPCと向き合って仕事をした。

 正午近くになると、賢二が事務所に入ってきた。紅音は彼の様子を見て少し驚く。

 賢二は普段から目の下にくまがあるような暗い顔をしているのだが(全体を含めた紅音の印象)、今日は本当に目の下に分厚いくまができていた。

「おはようケンケン」

「おはようございます」

「もしかして徹夜してた?」

 賢二はその質問には答えず自分の席に着いた。

「今日中にはどうにか音源を用意できそうです」

 賢二がPCを操作しながら言う。

「無理させちゃったかな?」

「いいえ、大丈夫です」

「ありがとう」

 その言葉を受けて、賢二が今日初めて紅音をまじまじと見た。

「いつも頼りにしちゃってるね」

 賢二は視線を逸らせて顔を赤らめた。



 午後になってから、事務所にランドセルを背負った奏太がやってきた。奏太は誰に言われるでもなく咲来の隣の椅子に座った。

「やっぱりサッキーに懐いてるみたいだ。もしかしてお菓子でもあげて釣ったの?」

「いいえ」

「じゃあ人柄の為せる業かあ」

「私は冷たい人間だと思いますけど」

「もし本当にそう思ってんだったらあたしが訂正してやる。サッキーは努力、友情、勝利に相応しい人間だぜ」

「私は少年漫画の主人公ではありません」

「おお、そこに気づいてくれたか」

 賢二は充血した目でPCモニターと向き合っていて、こちらに構ってくれる余裕はなさそうだ。

「というわけで奏太、折り紙買いに行こうぜ」

 紅音がそう言うと、奏太が顔を上げて不思議そうな顔をした。

「どういうわけなんですか?」

 賢二がこちらに目も向けずにノールックつっこみをしてきた。



 午後のフラッシュモブダンスの練習の後、賢二が用意してくれた曲をスタジオで流した。

「なんこれ!? アゲアゲギンギンな曲じゃないですかー!」

 小五ダンサーの七菜が早速新鮮なリアクションをしてくれた。

「そうさ。ケンケンが夜な夜な血反吐を吐きながら作ってくれたんだ」

「ちへど!?」

「吐いていません」

「それじゃ、ソウチョー頼むよ」

 紅音はスタジオの隅であぐらをかいている聡一に向かって言った。

 聡一が顔を上げてゆっくりと紅音のほうを向く。

「な、に、が、だ?」

「えっ?」

「えっ? じゃねえ」

「振り付けに決まってるじゃん」

「お前の中のあたりまえなんて知るか」

「あたしの中のあたりまえはソウチョーの中のあたりまえでもあるじゃん」

「お前のものはオレのものみたいな言い方するな。そしてそんなわけあるか」

「やってくれないの?」

「そうは言ってない」

「じゃあやってくれるんだ」

「そうとも言ってない」

「はっきりしろジャイアンン」

「ンを一つ足したらいいと思ったか?」

「ソウチョーさん!」

 突然七菜が声高に口を挿んだ。

「ソウチョーさんがダンスの振り付けを考えなかったら一体誰が考えると言うのですか!?」

「べつに誰でもいいだろ」

「わたしはソウチョーさんが考えたダンスを踊りたいんです! そしてソウチョーさんと一緒に踊りたいんです!」

 七菜の想いをのせた言葉がスタジオに響いた。

「そして、お腹空いたから早くお家に帰りたいんです!」

「とっとと帰れオタンコナス!」

 聡一の怒号が響き渡った。



 ダンサーたちが解散した後、紅音は事務所に戻った。窓から夕陽が差し込んでいる。

 咲来と奏太が応接セットのソファに座り折り紙を折っていた。二人とも無言で淡々と折り続けている。

 紅音は奏太が初めて『とびとり』の建物の前で佇んでいた時を思い出した。

 シャイで無口、そしてまだ小学二年生の幼い身でありながら、彼なりに思っていることがあるようだった。紅音は彼のその想いを実現させてあげたかった。そのために『とびとり』はあるのだ。

 紅音も黙ってソファに座り、折り紙を折り始めた。

 人の心には、形が無い。

 想いの伝え方に、正解なんて無い。

 それでも、紅音はその努力を惜しみたくはなかった。

 人の心が動いた時の感動を、知っているから。

 紅音はそれが人生で最も美しい瞬間だと感じている。

 そのために人は生まれてくるとしたら、意外と悪くないと思った。

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