青天の余暇
朝、紅音は『とびとり』事務所の扉を開けた。中のデスクには咲来の姿があった。
「おっ、サッキー。おはよう」
「おはようございます」
紅音は真顔でPCと向き合っている咲来の顔をしばらく見つめた後、応接セットのソファに身を投げ出した。ソファの上で陸に打ち上げられた魚のようにバタバタしていると、咲来がコーヒーを淹れて持ってきてくれた。
「どうぞ」
「ありがとう」
毎朝紅音にコーヒーを出してくれる咲来だが、紅音がコーヒー作ってと頼んだことはない。ここは誰に対してもフラットな関係を好む紅音の人格が反映された職場であるので、上下関係のようなものが一切存在しない。咲来がコーヒーを出してくれるのは、ただただ純粋な彼女の気遣いであった。
この日、いつも咲来の向かいの席に座っている賢二の姿はなかった。紅音はまた咲来の顔を見つめ、話しかける。
「それにしても、良い天気だねえ今日は」
咲来の反応はない。淀みないリズムを刻んでキーボードを打ち続けている。
「こんな天気の日にはどこかに遊びに行きたくなるねえ」
咲来の反応はない。
「ねえサッキー。今日仕事お休みの日だって知ってる?」
室内からキーボードを叩く音がかき消え、沈黙が降りた。
ああやっぱり勘違いしていたのかと紅音は思い至る。
「あたしは事務所にちょっと忘れものがあって外に出るついでに取りに来たんだけど、サッキーが普通に働いててびっくりしたよ」
咲来が紅音のほうを向いた。頬が若干赤らんでいるように見える。
「気づいてたならどうしてもっと早く言ってくれなかったんですか?」
それは批難というより照れ隠しで言っているような早口だった。
「だって、こうしてたらずっとサッキーの綺麗な横顔見てられるじゃん」
「帰ります」
咲来は立ち上がり慌ててバッグを引っ掴んで入口に向かおうとした。
「ちょっと待って待って。今日仕事だと思ってたからこの後予定とか無いんでしょ?」
「やることならたくさんあります」
「どうせならさ、今日一日あたしと付き合ってよ」
「何をするんですか?」
「それはこれから考える。普段サッキーがしないような遊びをしよう」
「でも」
「でももモモンガもない。きーまり!」
強引にこうでも言わないかぎり咲来は本当に帰ってしまうところだ。
咲来は少しふて腐れたような顔で佇んでいる。
紅音は咲来に向かって満面の笑みを向けた。
「それにしても、うっかりなサッキー可愛い!」
「……やっぱり帰ります!」
正則は、菫の病室の前の廊下で、一度立ち止まった。
手を繋いで隣に立っている奏太が正則の顔を見上げる。
どういう顔をして彼女に会えばいいのだろう? どう接してあげればいいのだろう? もうありのままではいられない。彼女が死神に魅入られてしまったあの日から。
菫はとても優しい。だからこそ、胸が痛い。自分がいたら、逆に彼女のほうに気を遣わせてしまう。彼女は無理にでも平静を装うだろう。自分と奏太を心配させまいと気を張るだろう。一番苦しいのは彼女であるはずなのに。
奏太が不安そうな表情で正則を見ている。いけない。自分がこんなでは。正則は意を決して病室に入った。
菫は起きていた。ベッドの上で上半身を起こし、向こう側の窓のほうを見つめている。
「やあ、調子はどう?」
声が震えていないだろうかと心配しながら、正則は菫に声をかけた。
菫がゆっくりとこちらを振り向く。いまいち焦点の定まっていない、感情の抜け落ちたようなぼーっとした表情だった。
「何か考え事でもしてた?」
「うん、ちょっとね」
奏太が正則の手を離してベッドのほうへ近づいていった。菫は奏太の頭を優しく撫でた。
正則は部屋の端に寄せてあった椅子を持ってきてそこに座った。
「調子はどう?」
正則は先ほどの質問をもう一度した。そんなことしか訊けない自分を愚かに感じた。
「悪くないよ」
「そう。よかった」
そのやりとりは嘘で塗り固められた虚像のようだった。いつからお互いに本音を話せなくなってしまったのだろう。
もっと、本当に伝えたいこと、訊きたいことがあるはずなのに。
死にたくない。
正則は菫にそう言ってもらいたかった。彼女にそう言わせることのできる自分でいたかった。彼女が何一つ飾らずに心の内を曝け出すことのできる存在でありたかった。
「何か欲しいものがあったら言って」
正則の口がそう喋った。自分の本来の意思とは関係なく。
彼女が本当に欲しいものなど決して手に入らないと知っていながら。
自分は卑怯者だった。
「あのね」
菫の声色が微妙に変化した気がして、正則は顔を上げた。
「先生に外出許可をもらったの」
「外出?」
それは寝耳に水な話だった。
「今度、調子のいい時に、一日だけ外に出ていいって」
「そう、なんだ。どこか行きたいところある?」
「うん」
菫はどこか遠くを見つめながら、笑みを浮かべた。
「私、海に行きたい」
咲来はバッターボックスに立っていた。
飛んでくる速球に合わせバットを振る。
ブン! スカッ!
ブン! スカッ!
ブン! チッ!
一球だけバットがボールにかすったが、前には飛ばず後ろのネットを揺らしただけだった。
「もうサッキー。そんなんじゃ全然駄目だよ。あたしがお手本を見せてあげる」
咲来に代わり紅音がバッティングセンターのバッターボックスに入った。
「大事なのは、心の叫びってやつだ」
紅音は大仰にバットを構え、飛んでくる速球を待った。
ブン!「なんで爪は伸び続けるのに身長は止まるんだー!」スカッ!
ブン!「税金のバカヤロー!」スカッ!
ブン!「同情するならハッピーセットをくれーい!」スカッ!
紅音は全球振り終えバッターボックスを出た。
「どうだ見たかあたしの心の叫び」
「一球も当たっていませんでしたよ」
「くー。ケンケンのつっこみがないから果たして元ネタがちゃんと伝わってるか不安だ」
「私がやります」
咲来がバッターボックスに立った。
ブン!「あんにゃろうめこんにゃろうめ!」カキン!
ブン!「こんにゃろうめったらあんにゃろうめ!」カキン!
ブン!「あんにゃろこんにゃろこんにゃくにゃろにゃろめーい!」カキーン!!
「サッキーの心の叫び意味わからんけどなんかスゲー! しかもホームラン!」
咲来がバッターボックスを出て戻ってきた。
「バッティングセンターなんて、子供の時家族で来た時以来だと思います」
「どうだった?」
「はい、意外と楽しかったです」
「そりゃーよかった。次はゲーセンに行こう」
紅音と咲来はゲームセンターの中のクレーンゲームが並ぶ一角へやってきた。
「おっ、これ良いなあ」
紅音はクレーンゲームのボックスの中にひよこみたいに丸っこくて可愛い青い鳥のぬいぐるみを見つけた。
「これに挑戦してみようか」
「あの、ソラさん」
「なーに?」
「前から気になっていたんですけど、私たちの会社の『とびかたをしらないとり』という名前にはどんな意味が込められているんですか?」
「ああそれ。聞きたい? 長い話になるぜ?」
「じゃあいいです」
「ええっ!?」
咲来が小銭を投入してクレーンゲームを始めた。吊り下がった蟹のハサミみたいなアームを操作してぬいぐるみの上につける。アームが降下しぬいぐるみを掴んだが、上昇している最中にぬいぐるみがころんと転げ落ちてしまった。
「あら、残念」
「もう一回やります」
咲来が小銭を投入し再挑戦。
今度はアームで掴もうとした時点で外れてしまった。
「駄目だったね」
「もう一回やります」
「うん?」
チャリン。
アームがぬいぐるみを持ち上げ穴に向かって動いたが、あと少しのところで落ちてしまった。
「あらら、もうちょい」
「もう一回やります」
「サッキー?」
再びぬいぐるみにアームを引っかけたが、うんともすんとも言わなかった。
「もうちょっと難しいかも。店員さん呼んで取りやすいところに置いてもらおうか?」
「いいえ、もう一回やります」
「……ふふっ」
「なんですか?」
「なんかちょっと、サッキーへの理解が深まった気がする」
その後さらに五回の挑戦を経て、咲来は無事青い鳥のぬいぐるみをゲットした。
「可愛いね、そのぬいぐるみ」
「はい。ソラさんにあげます」
「えっ、あたしに?」
「自分が欲しかったわけではないので」
「そっか。それじゃ『とびとり』の事務所に飾ることにしようか」
「はい」
二人はゲームセンターをあとにした。
「あのさ、この後ちょっと寄りたいところがあるんだけどいいかな?」
紅音の問いかけに咲来は頷いた。
菫は正則と奏太が来てくれてからすぐ、眠ってしまった。
次に目が覚めた時には、外がもう暗くなりかけていた。
自分勝手だが、あの人は今日は来てくれなかったのかと少しだけ寂しくなった。
それはそうだろうと、菫は自分を納得させる。自分とは違い世の中の人はみんな忙しいだろうし、そもそも私のことなんて誰も気にも留めない。せいぜい家族が気にかけてくれる程度だ。それがあたりまえだ。
菫は紅音からもらったフラワーアレンジメントに何気なく目を向けた。ふと、そのすぐ傍に紙が置かれていることに気づいた。菫は重く感じる体を起こし、ベッドから降りてそちらに近づいた。
置かれていた紙を手に取り、じっと眺める。
そこにはデフォルメされた可愛い鳥の絵が描かれていた。
その絵は誰が描いたものなのか、置いていったものなのか、菫にはすぐわかった。
病室の中で一人、クスッと笑った。
胸が温かくなった。
『セント・BAR・ナード』それがその店の名前だった。
カウンター席だけが並ぶ店内。カウンターの奥にはワイシャツにベスト、ネタクイを締めた格好の昼とはまた少し違った雰囲気のぼたんがいる。
「やあボーさん」
「あら紅音ちゃん、ウフフ、ようこそ。まあ! 今日は可愛らしいお客さんを連れてきたのね」
ぼたんが紅音の後ろにいる咲来の姿を見て言った。
「こんばんは」
咲来がぼたんに挨拶する。仕事の関係で多少の付き合いはあるが、咲来がぼたんとこの店で会うのは初めてだろう。ぼたんは昼は花屋、夜はバーテンダーという二つの顔を持っている。女の顔と男の顔の二つを持っているように。
「オホホ! 紅音ちゃんが誰かと一緒にここにくるなんて珍しいわね。二人はどういう関係なのかしら?」
紅音と咲来が席に着くなりぼたんがそう尋ねてきた。
「そりゃもちろん、愛する恋人同士さ」
「紅音ちゃん。あなたのジョーク、たまに本気か嘘かわからない時があるから気をつけたほうがいいわよ」
「何言ってるの。あたしは本気だよ」
「お気持ちだけ受け取っておきます」
「ありゃ、フラれちった」
紅音と咲来の他に客は二人いた。年輩の男女。どことなく夫婦という感じではない。なにか複雑な間柄の関係に見えた。この場ではそれがどこか馴染んで見える。
「この店『セント・BAR・ナード』って言うんだけど」
紅音は隣に座る咲来に話す。
「べつにボーさんが犬を飼ってるわけじゃないんだ。ボーさんは犬は好きだけどアレルギーがあってね。近所を散歩する他人の犬に話しかけるのが好きな変態さんさ」
「まあ! 誰が変態よ!?」
「サッキーは犬好き?」
「はい。人間よりは好きだと思います」
「ハハッ、やっぱり面白い」
紅音と咲来はそれぞれ名前に興味を惹かれたカクテルを注文した。
「このボーさんのお店、ちょっとゆっくりしたい時とか落ち込むことがあった時とかに来てみるといいよ」
「ソラさんもそういう時に来るんですか?」
「まあね」
「ソラさんにもゆっくりしたい時とか落ち込むこととかあるんですか?」
「サッキー、あたしをなんだと思ってるんだ」
「オホホ! 日頃の行いってやつね」
テーブルの上にカクテルが置かれた。チューリップみたいな形のグラスに赤とオレンジの中間、夕焼け色とでも言おうか、目に鮮やかな液体が注がれている。グラスの縁にはレモンが添えられている。飲むと、柑橘系の味わいの後アルコール分がぶわっと広がった。紅音はお酒があまり得意ではない。ほどほどにしなければ。
「さてサッキー、この後だけどあたしの家に来て一つ屋根の下あたしと一夜をともにしない?」
「遠慮しておきます」
「ちぇっ、せっかくこんな恥ずかしい誘い文句口にしてみたのに」
「でも」
咲来が隣に座る紅音に顔を向けた。
「今日はすごく楽しかったです。ありがとうございました」
「そう。サッキーが喜んでくれたならあたしも幸せだ」
カウンターの奥に立つぼたんがニッコリと微笑んでいた。
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