断崖の縁で
暖かな陽光。柔らかな風。
菫は夫の正則と息子の奏太と一緒に、緑豊かな広場へ来ていた。
空気が澄んでいて気持ちいい。鳥のさえずりが心地良く響いている。
正則と奏太がゴムボールを使ってキャッチボールを始めた。菫は少し離れた場所でその様子を眺めている。
何気ない日常の一コマ。それがとても懐かしかった。
太陽に雲がかかる。日が陰り、一陣の強い風が吹いた。
菫は風を受けて目を瞑り、そして開ける。
近くにいた正則と奏太がいなくなっていた。
鳥のさえずりも聴こえない。緑の草木が色褪せ、モノクロのように見えた。
「ねえ、どこ? 正則さん? 奏太?」
呼んでも誰も応えない。
遠くから何か黒いものが迫ってきた。周囲全ての方向から、黒い波のようなものが菫のほうへ近づいてくる。
菫の世界が失われていった。もうすぐ自分も消え失せる。
全てが終わろうとしていた。
ビクッ、と体を痙攣させ、菫はベッドの上で目覚めた。
心臓を鷲掴みされているかのような苦しさを感じる。冷や汗が玉になって流れた。
どうにか呼吸を整えようとするが、なかなか上手くいかない。
体に何か異変があったというより、見ていた夢が原因な気がする。ナースコールをするような事態ではないと考え、落ち着こうと努めた。
体は次第に治まっていく。
けれど、心の内に発生したこの空虚な塊は、決して消えることはなかった。
「じーっ」
紅音のすぐ目の前にはデスクでPCのキーボードを叩いている咲来の横顔があった。
「じーっ」
こんなにすぐ傍にいても、咲来は顔色一つ変えずに仕事を続けていた。
「ねえサッキー。その柔らかそうなほっぺ、ツンツンしてもいい?」
「やめてください」
咲来は淡々と答える。
「どうして? いいじゃん減るもんじゃないし」
「ソラさんにツンツンされたという事実は残ります」
「いいじゃん、二人だけの秘密ということで。サッキーがうんって言えばそれで成立するんだよ」
「ゴホン。えーと、一応この場にはもう一人人間がいるということをお伝えしておきます」
咲来と向かいの席にいる賢二がぼそっと呟いた。
「なーに? ケンケンもサッキーのほっぺツンツンしたいわけ? それならそう言いなよ」
「いいえ、したいわけじゃありません。って、なんで新島さんが僕に軽蔑の目を向けるんですか?」
「いやー、それにしてもサッキーがうちに来てくれてからすごく助かってるよ。あたしとケンケンだけじゃにっちもさっちもどうにもブルースリーだったんだ」
「それを言うならブルドッグ、って今の人わかりますか?」
「今更聞くのもあれだけど、サッキーはどうしてうちに来てくれたの?」
それまで淀みなくキーボードを打ち続けていた咲来の手が止まった。
数秒停止したのち、咲来が紅音のほうにちらっと視線を向けた。そこへ紅音が笑顔を返すと、咲来は少しはにかんだようにして視線を逸らせた。
「なるほど。サッキーの想い、テレパシーでビビッと伝わってきたぜ」
「テレパシー? 一体何が伝わったんですか?」
「今日の昼食は牛丼じゃねえ、カツ丼一択だ、と」
「それ、ソラさんがただ食べたいだけじゃないんですか?」
「たのもー!」
「たのまれよーう!」
「イエーイ!」
スタジオに七菜が入ってくるなり、紅音と七菜がジャンピングハイタッチを交わした。なぜかわからないけどすごく楽しげだ。
「おい、なんであいつらあんなにハイテンションなんだ? クスリでもやってんのか?」
「僕に訊かれても知りませんよ」
二人の男の疑問をよそに、ダンスのレッスンが始まった。
「それ、ワンツー、ワンツー、さんまのしいたけ!」
紅音の手拍子と掛け声に合わせてダンサーたちが踊る。
「ワンツー、ワンツー、サクラダファミリア! ワンツー、ワンツー、犯人はお前だ! ワンツー、ワンツー、ワレワレハウチュウジンダ! ワンツー、ワンツー――」
「集中できるかー!!!!」
スタジオ内に聡一の怒号が響いた。
「なんだよ、どうしたっていうんだよソウチョー」
「お、ま、え、の、せいだー!」
「うおぅ。すごい迫力」
「サクラダファミリアまではぎりぎり許したとしよう。その次からは何だ? リズムにすら合ってないだろ!」
「まあまあ。細かいこと気にしてたらすぐに島流しに遭うぜ」
「そうですよソウチョーさん。七菜は全然気にならなかったですよ」
「それはお前の頭には
「あんこ! それは美味しそうですね」
そんなことがありつつも、無事この日のレッスンは終わった。
賢二がスタジオの片づけをしていると、紅音が声をかけてきた。
「ケンケン。あとのこと任せてもいいかな?」
「いいですけど、何かご用ですか?」
「うん、友達に会いに行かなくちゃ」
賢二はスタジオから出ていく紅音の背中を見送った。
なぜか少しだけ、寂しかった。
菫はふと誰かの気配を感じ、目を覚ました。
病室の入口のほうに目を向けると、紅音の姿があった。
「あ、ごめん。起こしちゃったかな」
菫は布団の中でもぞもぞと動いて上半身を起こそうとした。
「ああだめだめ。そのまま寝てなさい」
「でも、せっかく紅音さんが来てくれたのに」
「あたしは勝手に来てるだけだから」
菫は言われた通り、ベッドで仰向けになった。病室の白い天井をぼーっと見つめる。
紅音は今日は奏太と一緒ではないようだった。
「あの、紅音さん」
菫は枕に後頭部を預けたまま話す。
「なーに?」
「紅音さんは私の病状のこと、知っていますか?」
「そうだね。なんとなくは」
「私、もう長くは生きられないみたいなんです」
「うん」
もっと大きく反応するかと思ったが、意外にも紅音の反応はいたってシンプルだった。
首を少し動かして紅音のほうを見ると、彼女は口元に小さく微笑を浮かべて優しげな瞳を菫に向けていた。それは自分のことを労わってくれている表情に見えた。
「紅音さん、訊いてもいいですか?」
「うん、なんでも訊きなよ」
「紅音さんは、どうして毎日私のお見舞いに来てくれるんですか?」
「前に言ったじゃん。菫と友達になりたいんだ」
「どうしてですか?」
「友達は多いほうがいいと思って」
「そう、ですかね」
「もしさ」
「はい」
「もし、あたしが死んだら、その時に誰も悲しんでくれる人がいなかったら、そんなの寂しいじゃん。なんだか自分が生きた意味が無かったみたいで」
「だから、友達になりたいんですか?」
「そう」
「紅音さんは」
「ん?」
「紅音さんは、もし私が死んだら、悲しんでくれますか?」
「もちろん」
「……」
「どうしたの?」
「いえ、ありがとうございます」
なぜだろう? 紅音と話していると、どこか気分が軽くなる自分がいる。今この胸の内を話せるのは、彼女しかいないと思った。
「私、怖いんです」
菫は紅音を見ずに、何もない天井を見つめて話した。
「死ぬのが」
紅音は黙って聞いてくれている。
「もうすぐ終わりなんだと思うと、怖くて」
「うん」
「同時に、なんで私なんだろうって。私何か悪いことしたかなって?」
「うん」
「神様が憎いんです」
「うん」
「自分勝手ですよね。都合の悪い時ばかり他人のせいにして」
「うん」
「そんな自分が嫌になって。生きるのも辛くて」
「うん」
「……紅音さん?」
「もっと話して。あたしにありったけを吐き出して」
紅音は真剣な眼差しを菫に向けていた。
「あたしがそれを、歌にするから」
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