友達と呼んで
その日紅音は先方との打ち合わせに出向いていた。依頼主である相手方の会社の応接室で内容のすり合わせを行った。『とびとり』への依頼は一般からのものもあれば企業からのものもある。
こういうちゃんとした会議の場合、紅音はいつも賢二に同行してもらっていた。小難しい話になった時の聞き役を賢二に任せることができるからだ。頼もしい参謀である。
その後駅前のファストフードで昼食を摂り、『とびとり』に向かった。
事務所に入ると、デスクで咲来がいつものように真面目に仕事をしていた。一人でいる時ぐらいサボればいいのにと紅音は思う。自分なら昼寝をしているだろう。
「うぃーす、サッキー」
「はい、おつかれさまです」
「ん?」
紅音は咲来の隣の席から机の縁にちょこんと首を出している人物に気づいた。奏太だ。どうやら携帯ゲーム機で遊んでいるらしい。
「奏太がいる」
奏太は恥ずかしいのか、ゲームに夢中で聞こえないふりをしているようだった。
「入口の前でじっと看板を見ているのを見つけたんです。そのまま無視するのも忍びないので、上がってもらいました」
咲来がスラスラと歯切りの良い口調で言った。
「へえ、そうなんだ。なんかサッキーと奏太って、微笑ましい二人だね。姉弟みたい。サッキーに懐いてるのかな」
「姉弟にしてはだいぶ歳が離れていますけど」
「そうか。サッキーって今何歳だっけ? ちなみにあたしは永遠の十一歳」
「そこは十七歳とか言うところじゃないんですか? 十一歳ってまだ子供ですよ」
賢二がすかさずつっこみを入れてきた。
「いつまでも少年の心を忘れずに」
「はあ。もうなんでもいいです」
その日の午後、紅音は来週行うフラッシュモブの演出を考えていた。ダンスの振りつけなどはソウチョーこと聡一に一任している。生演奏をする場合は賢二に任せておけばいい。紅音が考えるのは、どうやって「サプライズ」を引き起こし、それを感動に待っていくかだ。
紅音はじっとしてではなく動きながら頭を働かせるタイプなのだが、事務所の狭い中をずっとうろうろしていたら咲来に「気が散るので外でやってください」と言われてしまい、一階の今は誰もいないスタジオの中を馬の乗馬訓練のようにグルグル回っていた。外の道を歩くのもいいが、それだとつい外から入る情報が気になって集中が乱れがちになる。前に道を歩いて考え事をしていたら、いつの間にか新しく見つけたスイーツ店に入ってフルーツケーキを堪能して満足してしまっている自分がいた。事務所に帰って「やあ美味しいケーキ屋見つけたよ、満足満足」と報告したら、「あなたは何をしていたんですか?」と咲来に白い目で見られてしまった。彼女に白い目で見られるのは毎度のことだが。
スタジオの中を歩き回っている紅音が一度四つ足で歩いてみたら思わぬ発想が浮かぶやもしれぬと考え両手と両足で四足歩行を開始した時、スタジオの入り口のドアが開いた。賢二か咲来に今のこんな姿を見られたらまた少し面倒なことになるが、ドアは数センチ開いただけで誰かが入ってくる気配はない。紅音は四つ足状態を解除してその場にあぐらをかいて待った。
さらにもう少しだけドアが開き、その隙間から奏太が不安そうに顔を覗かせた。
「奏太? どうしたの? べつに夜の営み的なものをしてるわけじゃないから入っておいでよ」
賢二がいたら「小学生相手に何言ってるんですか!?」という怒号が飛ぶところだろう。
紅音の言葉を疑問に思ったのかどうかはわからないが、奏太は入口の縁に立ったまま俯いてしまった。紅音は立ち上がって奏太に近づいていく。
「どうした? チュッパチャプス舐めたい?」
「……いたい」
「えっ?」
「お母さんに会いたい」
紅音は総合病院の受付で必要事項を記入した。首から札を下げて通路を進んでいく。奏太が不安そうにしていたので手を握ってあげた。
目的の病室につき、開いているドアからゆっくりと中へ入る。どうやら個室のようだ。
白いベッドの上に一人の黒髪の女性が座っている。窓のある向こう側を向いてぼーっとしているように見えた。
紅音が進んでいこうとすると、奏太が紅音の後ろに隠れるような体勢をとった。紅音は一度奏太の様子を確認してから、女性のほうを向いた。
「こんちは」
紅音の声に反応し、ベッドの上の女性がゆっくりと振り返った。
肌が青白く頬も少しこけているが、可愛らしい顔つきの人だった。病室の入り口に立っている紅音を見つめ何度かまばたきを繰り返す。
「奏太くんのお友達の大空紅音です」
女性はまったく状況が掴めていないようだが、少し視線がずれて紅音の後ろにいる奏太の姿を捉えたようだ。
奏太が紅音の服の裾をつまみながらちょっとだけ顔を出した。いけないことをして叱られるのを怖がっているような様子だ。
「奏太くんがあなたと会いたがっていたので、一緒に連れてきました」
「そう、なんですね」
力ない声だが、不思議と耳に届く綺麗な響きだった。
「中に入ってもいいですか?」
「あ、はいどうぞ」
紅音は奏太の手を引いてベッドのほうへ近づいていった。ある程度進んだところで止まり、隠れている奏太を押して横に出した。奏太はまだもじもじしている。
「大空、紅音さん?」
「うん」
「かっこいい苗字ですね。名前も素敵」
「ありがとう。あなたの名前は?」
「
「菫か。いい名前だね」
「ありがとうございます」
「ちなみに歳はおいくつでございましょう」
「歳ですか? 二十九です」
「あら、あたしとおんなじ」
何か運命の悪戯があったら、自分にも今この奏太ぐらいの子供がいてもおかしくなかったということだ。
「紅音さんは、奏太と友達なんですか?」
「そう。昨日会ったばかりだけど」
横にいる奏太が紅音の顔を見上げた。
「もう少し喋ってても大丈夫?」
紅音は菫に向けて言う。
「はい、大丈夫です」
「体の具合はどう?」
「はい、悪くありません」
「そう。それはよかった」
紅音はふと棚の上にある花瓶に目を留めた。
「そういやお花持ってこなかったな。ごめん。今度来た時持ってくるよ」
「いえ、そんな。でも今度って?」
「また来てもいい?」
「それはいいですけど。でもどうしてですか?」
「菫と友達になりたいんだ」
紅音が病室から出ていくと、菫と奏太は二人きりになった。
奏太はずっと後ろめたいような表情で俯いている。
「おいで、奏太」
菫は自分の息子の名を呼んだ。体を動かして床に足をつけ、ベッドの端に腰かける。
「来てくれてありがとう」
そこまで言うとようやく、奏太が顔を上げて菫の顔を見た。
近づいてきた奏太を両手で包み込む。
その時菫は自分の厚みを失った皮と骨だけみたいな体に気づかされ、ショックを受けた。
それでも力を込めて息子を抱きしめる。
「心配かけてごめんね」
奏太は何も言わず、されるがままじっとしていた。
菫は抱擁を解き、すぐ傍で息子の顔を見つめた。
自分から生まれた愛の片割れ。
息子の髪を手で梳き、頬に手を添える。
「お母さんいつ帰ってくるの?」
奏太から唐突に発せられたその問いが、銃砲のように菫を怯えさせた。
息子の顔に触れていた手が、ゆっくりと力なく下りていく。
嘘は吐きたくない。でも本当のことも言えない。
菫は言葉を失い、ただ申し訳ない気持ちで息子を見つめることしかできなかった。
日が雲に隠れ、病室の中に送られていた光が遮られた。
陰った部屋の中で、菫は誰へともなくこう問いかけた。
どうしてこうなってしまったんだろう、と。
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