静寂の食卓
「ソラさん。一つ訊いてもいいですか?」
「なんだいケンケン。ケバブからマンボウに」
「それを言うなら藪から棒にです」
「さすが、よくわかったね」
紅音は三人分の昼食を持って『とびとり』の事務所に帰ってきたところだった。
「ソラさんの隣に座っている男の子は、誰ですか?」
先ほど建物の前にいた男の子が、今は紅音の横のソファに座っていた。
「さあ? まだ名前聞いてないし」
「どうしてお昼の買い出しに行ったら名前の知らない男の子がついてくることになるんですか?」
「大丈夫だよ。ちゃんと怪しい者じゃネームバリューって伝えたし」
「それいかにも怪しい者が言いそうな台詞じゃないですか。というか変な人じゃないですか。なんですかじゃネームバリューって」
「野暮なこと訊くなよ。ボケ殺しか」
「ボケという自覚はあったんですね」
紅音と賢二のやりとりに挟まれている格好の男の子は、俯いてただじっとしていた。
「なあケンケン」
「なんですか」
「人に名前を尋ねる時は、まずは自分から名乗るものじゃないか」
「それは一理ありますけど。漫画みたいな台詞ですね」
「あたしの名前は大空つばさ。夢はプロのサッカー選手。サッカーボールが友達さ」
「駄目ですよそのボケは。権利的なものが発生しかねません。というかわかりますかね?」
「ケンケンが漫画みたいとか言うからだろ。大丈夫、つばさはちゃんと平仮名にしておいたし」
「ソラさんの頭の中でどう変換したのかなんて知りませんよ! これは漫画でも小説でもないんですから」
「もーうるさいなあ。あたしは大空紅音。でこっちが」
「朝海賢二」
「そしてそしてー」
話を振られた咲来が、ゆっくりと首をこちらに向けた。
「新島咲来です」
「よーし。じゃあ、きみの名前を教えてもらおうかな」
紅音はポンと男の子の肩を叩いた。男の子はおずおずと口を開く。
「
「奏太かあ。よーし、よく言えたぞ、偉い」
「それで、どうしてこの子を連れてきたんですか?」
賢二が訊いてくる。
「なんか寂しそうにしてたからだよ」
「それだけの理由で? 誘拐じゃないですよね?」
「奏太は今何年生?」
「に、二年生」
「そう。ねえ、あたしは今何年生だと思う?」
奏太は紅音を見上げながら困った顔になった。すかさず賢二が口を挿む。
「そんなのどう答えるのが正解なのか僕にだってわかりませんよ。小学生を困らせないでください」
「ブーブー」
「あーもう」
一向に話が進む気配を見せない苛立ちで賢二が頭を掻きむしった。
「あたしたちはさ、誰かを笑顔にするお手伝いをしてるんだ」
紅音は奏太に笑みを向けて言った。
「奏太は誰に笑ってほしい?」
奏太は目を見開いて紅音を見つめていたが、やがて俯いて指をいじり出した。
「そっか。まあ無理に言う必要ないよ。あたしたちまだ出会ったばっかだしね」
紅音は立ち上がり、そっと奏太の肩に手を置いてから歩いていった。
「まっ、ゆっくりしていってよ」
「たのもー!」
一階にあるスタジオの入り口が開くと同時に甲高い声が響いた。
威勢のよい掛け声とともにスタジオに入ってきたのは、
「おー、さすがナナナ。今日も元気だねえ」
紅音は七菜に近づいていき声をかけた。
「そりゃそーですよ。七菜は元気と可愛さとカリスマ性だけが取り柄なんですから」
「これまた欲張りだ」
七菜はエッヘンというふうに腰に手をあてて胸を張った。
そこへ一人の男が言葉を向けた。
「お前、なんで第一声がたのもー、なんだ。道場破りにきてすぐさま返り討ちに遭ううすのろのくるくるぱーのバカか? それにへんちくりんのチビヤローのお前の一体どこにカリスマ性がある?」
小学生の七菜に突っかかっていったのは、
「ちょっとソウチョーさん。それいっぱしのレディに言う言葉ですかー?」
怒っているようで怒っていないような可愛らしい声色で七菜が言い返す。ぷりんとした頬が膨らんで可愛い。
「誰がいっぱしのレディだミジンコ」
「キィィィー! ミジンコ言われましたー!」
「まあまあ、痴話喧嘩はそれぐらいにして」
「ち、ちわげんか!?」
紅音の言葉に七菜が大袈裟に叫んだ。彼女はいつも大袈裟である。
七菜と聡一の他、十名を超えるメンバーがスタジオに集まっている。来週にショッピングモールのイベントで企業PRのためのフラッシュモブを行う依頼を受けていた。その練習のためだ。
「あの、ソラさん」
「なんだいナナナ」
「ちわげんかって何ですか?」
「ああ、キッズには少し難しかったか。つまり、ソウチョーはあんな悪口言ってるけど心の中ではナナナのことが大好きってことだよ」
「なんと! ソウチョーさんが七菜のことをアイラビュー!」
「おい紅音、テキトーなこと言ってんじゃねえ。お前は雑巾に付着したカビか」
「うわーん! 雑巾に付着したカビ言われたー!」
「ソラさんもちわげんか!?」
「あの、そろそろ始めてもいいですか?」
音源を準備している賢二がぼそっと呟いた。
奏太は、スタジオの隅で体育座りをしてダンサーたちの練習の様子を黙って眺めていた。
「やあ奏太。元気してる?」
そこへ紅音が明るく声をかけてきた。彼女は奏太のすぐ隣に座った。
奏太は紅音から目を逸らしてダンスを見ているふりを始めたが、内心緊張していた。人見知りで他人と話すのが苦手なのだ。
「いっつもさ」
紅音は奏太に構わず話しかけてくる。
「いつもしょうもないことばかりしてるかもしれないけど、でもあたしは楽しいんだ」
奏太は紅音のほうに顔を向けた。彼女はきらきらと輝く目でどこか遠くを見ていた。それはとても美しい横顔で、目を離せなかった。
「みんなそれぞれ違うけど、一つの目標に向かって力を合わせるんだ。誰かの笑顔のために。あたしはこの仕事が大好き」
大好き。
一瞬、紅音の顔が違う他の人間の顔に重なった。
奏太は胸が苦しくなり、右手で胸を押さえた。気を抜くと涙が出そうだった。
「奏太はまだ帰らなくて大丈夫?」
紅音が奏太のほうを向いた。
「……帰っても、誰もいない」
「えっ?」
「でも、帰る」
奏太は自宅の玄関の鍵を開け、中に入った。
微かに灯火を残した西日が部屋の中を照らしている。
靴を脱ぎ、ランドセルを背負ったままリビングへ行った。
静かな、誰もいない食卓。
そのまま台所に入る。
香ばしい料理の匂い一つ漂ってこない。
自分に安らぎを与えてくれたその背中は、もうそこには無い。
リビングに戻り、テレビを点けて静寂を紛らわせた。
外が完全に暗くなってからしばらくして、父の
「ただいま、奏太」
「おかえり」
「今日はお寿司買ってきたんだ」
正則がそう言って右手に持った袋を奏太に見せるように持ち上げた。
奏太は一瞬浮足立ちそうになったが、すぐに俯いた。
眼鏡の奥に見える正則の目が、悲しそうに光を失う。
正則はお寿司の入った袋を静かに食卓に置き、洗面所へ向かった。
奏太はその背中に向かって話しかけた。
「ねえお父さん」
正則がゆっくりとこちらを振り向く。
「お母さんはいつ帰ってくるの?」
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