第十四章 立岩の誓い
躑躅が城館
「我ら一度、見上城に戻り、甚次郎、おまつ殿を連れて、諏訪原城へ向かいます」森之助
「それが、よかろう」市兵衛
「諏訪原城を頼み申したぞ。相木美濃守信房殿」教来石信房(後の馬場美濃守信房)
森之助は、武田の正式な家臣となり、相木美濃守信房と名を改めた。
諏訪原城は遠州(静岡県・金谷)の地で、今川、徳川の領地と目と鼻の先にあり、武田にとって重要な拠点となっていた。今は、この地では争いが起こっておらず均衡が保たれているが、もし戦が起きれば最前線の地となる。
更科一行は、馬を五頭与えられ、躑躅ケ城館を出た。
森之助と更科、お結と圭二郎、お琴と孝之進、明石と直次郎、晴介の騎馬だ。
佐久に戻る途中、直次郎の韮崎村に寄った。村中の人たちが迎えに出ていた。
「お姉ちゃんたち、ありがとう」山賊から救い出した子供たちだ。
「まさか、あの館に乗り込むとなどと、とんでもねえ事しでかしたもんだ」村人
「山賊を倒す程、強い方々とは思ってたが、館に戦しかけるなんざ正気の沙汰でねえべ。それも生きて戻ってきただ。何者だ、あんたたち?」
「直次郎、おめえ、ようあの殿が許してくれただな」直次郎の母だ。
「そういえば、御屋形様はおらなんだな。若殿様だけじゃ。お目にかかったのは」
「信虎様を怒らしてみい、この村の皆、全員皆殺しのところじゃったぞ」
「ちげえねえ」
……それほど、ひどいのか? 信虎とやらは。自国の村人達が怯えている。更科は少し不安になった。
ただ、森之助が、市兵衛がいる。なんとかなるであろう。
「直次郎殿は、この村に戻られるが良い」更科
「そうじゃ。それが良い」お結
「いや、そういうわけにはいかぬ。おふくろ、すまぬ。わしはこの人たちと一緒に行く。許してくれ」直次郎
「ああ。わかっておる。この方々のおかげで村が助かったのじゃ。せめてお前ひとりでも、恩返しをせねばの」
「決まりじゃ。わしも連れてってくれ」直次郎
「そうか。良いのか?」晴介
百人力の怪物だ。心強い仲間だ。
「おふくろ殿。いつか直次郎殿をお返しする。それまで元気で過ごされよ」森之助
一行は村人たちに見送られ佐久へ向かった。
見上城内
「ほほ、おまつ殿が甚次郎を抱きながら、城内と城外を出たり入ったり、落ち着きがございませんね」お直
「仕方あるまい。死を覚悟して国を出てきたのじゃ。それが、皆無事で戻ってくるのじゃ。嬉しいに決まっておる」頼房
更科一行が、躑躅ケ城館に乗り込んだ武勇伝は、瞬く間に信濃にも広まっていた。
そして、それは相木村の村人たちにも伝わっていた。
更科経ちが、森之助を連れて戻ってくる。
孝之進や圭二郎もだ。
村全体が、畑仕事を休んで、今か、今か、一行を待っていた。
遠くに馬の蹄の音が聞こえてきた。
更科たちが見えた。
村人達の歓声が響いた。
「森之助殿―」」十四歳の時に人質に出されて以来の帰郷である。村人たちが叫んだ。
「孝之進、圭二郎、 ようやった。ようやった」およりが泣きながら出迎えた。
「更科様、結、琴」おまつが甚次郎を抱えながら、泣きながら抱きついて来た。
「おまつ殿、甚次郎が苦しがっております」更科
「森之助殿、甚次郎です」更科が森之助に手渡した。
「おお。甚次郎か。更科、でかした。立派な男の子であるな」
「森之助殿にうりふたつじゃ」お結
「おまつ殿。更科をお守り下さり、ありがとうございました。何とお礼を申して良いか言葉が見つかりませぬ」
「いえ。これも森之助殿を一途に思う更科様の気持ちあっての事。我らは更科様に付き添うて来たまでに過ぎませぬ」
そこに、頼房が三男の善量と一緒に近づいて来た。
「森之助」頼房
「兄上殿」善量
「兄上殿、善量か」森之助
「森之助、大きゅうなったの。・・・」頼房が泣きながら森之助を抱きしめた。
三兄弟、四年ぶりの再会であった。
「あ、兄上」森之助
更科はその姿を見たときに、少しでも頼房の事を、森之助を見捨てた兄と思った事を恥じた。
国を守る為、村人を守る為、城主という立場で、致し方なく愛する兄弟と離れなければならなかったのだ。
「直と申します。森之助殿、よくぞご無事で戻られました」
「義姉上様」
「更科様、よう戻られました」おより
「おより殿。その節はろくにお礼も出来ず」
「ささ、皆様かた、今日は祝杯と致しましょう。中へ」お直
見上城内で村人を交え酒盛りが始まった。
「おまつ殿が、短刀を抜いたと?」更科
「はい。それは、それは恐ろしゅうございました」お直
「更科殿に、森之助を助けに向かう事は、内密にと言われたが、このお直の助言でな、一刻も早く森之助に知らせた方が良い。そうすれば森之助はいち早く武田に降りるであろうとな」頼房
「それを素っぱに伝えたところ、それでは約束が違うと、刀を抜かれました」お直
「事情を説明したところ、おまつ殿も同じお考えでいらっしゃいました」
「おまつ殿も?」
「はい。森之助殿を救うには、武田に降りるしかない。更科殿が国を離れれば、森之助殿も降りることが出来ると。そう信じ、国を出たと」
「そうでありましたか。おまつ殿。誠にありがとうございました」森之助と更科が頭を下げた。
「直次郎殿。森之助殿、更科殿は、いったいどの様なお方なのであろうな」明石
「そうじゃな。このように皆に愛されておる。不思議な方々じゃ」直次郎
「お主の韮崎村でもそうじゃ。直ぐに皆に愛されておった」
「わしらと一緒じゃ」
「わしらと?」
「この人になら、命あずけても良いと直ぐに思ったであろう?」
「そうじゃな」
「この方々が自分の命をかけて、我らを助けてくれたからじゃ。見ず知らずの我々をじゃ」
「それが、全てじゃな」
「損得抜きにして、動いてくれる。その人柄に皆、惹かれるのじゃ。
「森之助は、昔からそうじゃったぞ」孝之進
「そうじゃ」圭二郎
「そこに惹かれるのじゃ。」晴介
「更科も同じじゃ。あのお方も自分の事など一切顧みない」お結
「森之助殿を助けに行くと聞いたときは、肝を抜かれました」お琴
「そうですね。あのお方がたのお傍にいては、いくつ命があっても足りませんね」おまつ
「でも、お傍にいて、見ていたいと思うのはあっしだけですかね?」お結
「きっと、いつかあの二人がこの信濃をひとつにしてくれると信じております」おまつ
「信濃をひとつに?」孝之進
「いつになることやら。」晴介
その会話を聞いていたお直が言った。
「そう遠くでも無さそうな気がいたしますよ」
「・・・そうだと良いのですが・・」おまつ
お直のその確信があるような言い方に、少し戸惑った。
葛尾城内
「更科が躑躅ケ城館に乗り込み、森之助を助けたとの知らせが入っておるが、どういうことじゃ」義清
「ははっ。更科が森之助を助けに国を出た事を知り、森之助が武田方に着いたとの事で御座います」九郎
「右馬之助。お主が行かせたのか?」義清
「いえ。座敷牢に閉じ込めておいたのですが、侍女達と無断で向かいました」右馬之助
「どちらにせよ、村上の名が地に落ちたわ。女子一人で助けに行けるものを村上は見捨てたとな」義清
確かにそうなったのは事実である。
「これで、武田はどう動くかの?」義清
そこへ、知らせが来た。
「御屋形様へ申し上げます。武田方から使者が参りました」
「武田から使者じゃと?」
「はい。それが・・・」
「良い。申してみよ」
「使者が、相木市兵衛殿でござる」
「何っ。市兵衛殿が」右馬之助
「やはり、市兵衛殿が動かれましたか」九郎
「通せ」義清
「お久しぶりで御座るな。相木殿」義清
「ははっ」
「面をあげられよ」
「して、此度は何用で来られたのじゃ」義清
「わが殿、武田信虎より、文を預かってまいりました」
「何っ? 信虎からじゃと」
「これを」
右馬之助が取り、先に目を通した。
「これは・・・」
「見せてみよ」義清
「・・・和議じゃと」
「いかにも。殿は同盟を結びたいと申しております」市兵衛
村上にとってはありがたい話であった。現状、佐久と諏訪、武田の勢力で攻め込まれては勝ち目が無い為である。まだ、越後とも同盟を結んでおらず、四面楚歌の状態であった。
「しかし、市兵衛殿。これには、諏訪、武田、村上で小県を攻め、勝った暁には三国でその領地を分けるとあるが・・・小県は相木と同族では無かったか?」右馬之助
「致し方ありませぬ。弾正忠殿(真田弾正忠昌隆)は村上、武田、どちらにもつかぬとの一点張りで、最後まで戦うつもりのようです」
「相木殿が良しとするならば、仕方ないのう」義清
「おお、御屋形様。それでは?」右馬之助
「承知仕ったと信虎殿にお伝え願おう。市兵衛殿」義清
「おお。」右馬之助
「なんと。村上と武田が同盟を結ぶことになるとは」九郎
「あり難きお言葉。信虎殿にお伝え申し上げます」市兵衛
※1540年(天文9年)あり得ないと思われた事が、この一度だけ、村上と武田、諏訪が同盟を結んだのである。
市兵衛が城を去ろうとしたところを
右馬之助と九郎が声をかけてきた。
「市兵衛殿。よくぞ信虎を説き伏せていただけましたな」九郎
「無駄な、争いを避けたいだけでござる」
「だが、小県はどうなる」右馬之助
「弾正忠殿を説き伏せることが出来ませなんだ。ここは、一旦負けを認めてもらうしか無いと思うております。一時、引いてもらうしか」市兵衛
「左様か。それなりにお考えがあるようですな」九郎
「それで信濃が一つになれるとお思いか?」右馬之助
「今は、それでも無理でしょうな」市兵衛
「市兵衛殿は、あの信虎を御屋形様として、お命を本当に預けられるのか?」右馬之助
「今は、お答えが出来ませぬ。お許し下さい」市兵衛
「武田についた本当の理由が、他にあるようですな」九郎
「何も、動かず、動く事が出来ぬ我らが、とやかく言うことでは無いが、市兵衛殿、お頼み申す」右馬之助
市兵衛がうなづいた。
「そうじゃ。右馬之助殿。これで村を行き来することが出来ますな。今、更科殿と森之助が見上城におります故、甚次郎を連れて里帰りさせてやって下さい」
「おお。なんと。甚次郎とな」
「それは、楽しみですな殿」九郎
見上城内
「義兄上様、今、なんと申されましたか?」更科
「たった今、父上から知らせが入ったのじゃ。村上と武田が和議を結んだとな」頼房
「おお」森之助
「では、楽巌寺城に戻れるのか?」晴介
「左様じゃ」頼房
「何という事が起きたのですか?」おまつ
「おお。甚次郎。右馬之助のじいじに会いに行けますよ」更科
「市兵衛殿は、これを望んで武田方に汲みしたのでしょうか」おまつ
「でも、あの信虎を説き伏せる自信があったのかの」お結
「いづれにせよ。血を流すことなく和議を結べたのじゃ。この功績は大きい」晴介
「左様ですが、条件として小県を攻めるとの事。戦がまた始まります」おまつ
「父上の事じゃ。それも考え手を打っておるはずじゃが」善量
「……直次郎殿。やはり我々はとんでもない方々の家臣になったようじゃ」明石
「百姓のわしには、まつり事はようわからんが、村上と武田が手を結ぶとは、そんななにすごいことなのか?」直次郎
「ああ。歴史が動いた。と言って良い出来事じゃ」
更科一行は、楽巌寺城に戻る前に、伝説の立岩に向かった。
見上城からはわずかな距離だ。美しい渓谷沿いに山深く進んだ。
そこに突然、巨大な岩が現れた。
「これが、立岩ですか?」更科が驚いきながら言った。
「本に、奇怪な岩じゃな。この山林に何故、この岩だけがそそり立っておる?」お結
「本当に、鬼が運んで来たように思えるな」お琴
「皆は、この岩を見てどう見える?」森之助
「私も、三匹の鬼が仲良く手を取り合って、一枚の岩にしようとしているように見えまする。」更科
「わしらもじゃ」
「そうか。それは良かった。であれば、わしは今一度、この立岩に誓おう」森之助が続けて言った。
「皆が、命を懸けて、わしを助けに躑躅ケ城館まで来てくれた。この命、例えこの身が朽ち果てようとも、永久に皆を守って見せようぞ」
「……それは、ちと無理が。いえ。しかと承りました」更科
「頼んだぞ。森之助」孝之進
「おお。わしも誓うぞ。わしもお結殿を守ってみせる」圭二郎
「?何故、お結だけじゃ?」晴介
「主らは、鈍いの?」お琴
「はあ? そうなのか? いつのまに?」孝之進
「まあ。良いではないか。目出度い事はのう」森之助
一行は、佐久を後にし、小諸村へ向かった。
※立岩。南相木村に実在し、現在は直ぐほとりに美しい神秘的な立岩湖があります。
小諸村
村人が、田畑仕事をしている脇を、一行の馬が駆け抜けて行った。
「更科様じゃー」
「森之助殿じゃー」
「帰ってきたぞー」
村が歓喜にあふれた。
罪人として村を後にした森之助を、更科達が連れて戻って来た。
村上と武田が和議を結んだ。
あり得ない、出来事が幾重にも重なっていた。
しかし、これは、決して奇跡でも何でもない。
全て、皆信じた行動を起こした事による結果なのだ。
決して不可能な事は無いと更科が、森之助が、市兵衛が教えてくれた。
そのゆるぎない信念と行動が歴史を動かしたのだ。
時は天文9年 初夏の出来事であった。
そして、しばらくして森之助と更科一行は、諏訪原城へと向かった。
しかし、そこはのちに敵対する三河徳川と目と鼻の先の最前線の地であった。
第十四章 完
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