中編

 現場から二キロ離れた狙撃ポイント、その高層ビル―――入る時に確認したところ、判商事ビルと書いてあった―――の九階を占拠し、その窓際のデスクの上を一掃した場所に、上田は腹這いになっていた。


 超長距離射撃の場合、射出時の反動が一番少ない体勢でなければならない。ほんの少しのぶれが、距離を置く事に大きくなっていき、最終的に数メートルの誤差になりかねないからだ。


 そしてその手に収まるのは、長さ一メートルと少しある、黒光りのライフル。


「まさかこれを引っ張り出してくるとはな」


 名を、レミントンM78と言う。かつて、上田が愛用していた狙撃銃だ。一応は自衛隊の備品だったので、辞める時にそのまま接収され、行方はようとして知れなかったが、民間人となってはそれを所持する事は違法となるので、彼も探そうとは思わなかった。


 しかしそれが、今、この手にある。


「懐かしがってる暇も、そう無いか」


 取りあえずは、やる事をやらねばならない。上田は距離計算が可能な双眼鏡を取り出すと、現場をレンズ越しに見やる。


 その手前の高層ビルが邪魔だが、そのビルの三階、二階ほどに窓が開け放たれた場所がある。そこに双眼鏡の焦点を絞ると―――見えた。


 狙うべきターゲットと、その手前の人質だ。確かに、相村が言ったとおり、この場所ならば標的までの射線は一直線。


「………一体、何時の間にこんな場所調べたんだか」


 感嘆を通り越して、むしろ呆れてしまう。だがすぐに、やはりこの狙撃は難を極める事を実感する。


 よく考えてみれば分かる事なのだが、銃弾は真っ直ぐ飛ぶ訳ではない。確かに速度が音速に近い、あるいは超過しているため、至近距離では真っ直ぐ飛ぶように感じる。


 だが考えてみて欲しい。例えば小川で小石を拾い、それを真っ直ぐ投げてみる。多少の距離ならば理想と同じように直線をなぞるだろうが、次第に引力に引かれ、小石は地面に落ちる。


 それは銃弾とて例外ではなく、距離と時間は掛かるが、ゆっくりと落下していくものなのだ。


 実際には、かなりおおざっぱな山形を描いていると言って過言ではない。それで精密機械の様な射撃をするとなると、かなりの技術が必要になってくる。


 それに加えてこの距離だ。メーカーが発表している射程距離を三百メートルほど逸脱している。


 例えるなら、ハーフコートギリギリからロングシュートし、ゴールに突き立てたシャープペンの芯を狙うようなものだ。


 常人ではまず不可能。プロでも神業に等しいというのに、それをブランク二年の無気力無職者に委ねるとは、やはりあの悪親友はどうかしている、と上田は思った。


「やっぱ佐藤のじーさんに頼むべきだよなぁ」


 ぼやきつつ、上田はボールペンを手にし、脇に置いたメモに自身と標的までの距離を書く。


 本来、狙撃は二人一組で行う。


 直接銃を操作し引き金を引く狙撃手と、銃とターゲットの距離や風向き、湿度などを計算し、落下率、歪曲率を算出する観測手の二人だ。


 前述したように、距離が開けば開くほど銃弾はおおざっぱな山形を描き、空気抵抗や横風に影響され、更には空気中の水分、要は湿度に左右される。


 だから、本来こうした精密射撃は役割分担して挑むべきなのだが。


「面倒だ………」


 かつて、修業時代は師である佐藤翁の観測手をつとめた事もあるが、昔からこういった計算は苦手な方だ。上田はどちらかと言えば肌で感じるタイプで、どうも理屈臭いのは向いていない。逆に、むしろだからと言うべきか、悪親友である三上はそうした理屈っぽい計算が得意な方だ。


「ふぅ………」


 何とか計算を完了し、今度は銃の上部に取り付けられたスコープをいじる。上下左右に走る照線は、ミリコンマ単位での調整が可能だ。


 狙撃する銃や弾丸にもよるが、レミントン社の狙撃銃ならば、おおよそ一キロで五メートルほど落ちる。更に照線の目盛りに換算すれば、ミリ三でおおよそ五メートル。


 実際の距離は一キロと九百七十四メートル。つまり、パーセンテージは百八十七パーセンテージ。


 合算すると、実勢誤差距離は九メートルと八十七センチ。目盛りならば五ミリとコンマ八七。


 これで基本的な狙いは合わせれた。


 後は、作戦直前の標的の位置、風力を再計算して、撃ち込むだけだ。


 ちらりと外した腕時計を見やれば、午前二時半。作戦開始まで、後二十五分ある。コートのポケットから煙草を取り出し、銜える。火器の周辺で煙草など普通ならば言語道断だが、付いた師の癖でそれがそのまま弟子である上田にまで移ってしまっている。


 同時に取り出した百円ライターで炙り、一度深く吸い込んでから、紫煙を吐き出す。ストレスの緩和と、無理矢理な深呼吸に煙草はいい、とは師の弁だが。


「………やっぱ身体に悪ぃかな」


 毒素が肺の隅々にまで行き渡るのが分かる。仕事を辞めてから本数は抑えているが、すっぱりと止める事は出来てない。


 S2T。特別狙撃班。辞職表の理由は、一身上の都合と明記した。事実その通りだが、何よりも周りが騒がしすぎた。口の悪い者は、こう揶揄したものだ。


 妻を殺した男、と。


「………」


 過去を想い、吐息。ため息をつくと幸せが逃げると言うが、元々不幸な人間の場合は一体どうなるのだろうか。


 と、コートのポケットから電子音。


(………成程、もっと不幸になる訳か)


 携帯を取りだして、画面を確認。数字の羅列が液晶に踊っているが、登録した番号ではない。一昔前に流行ったワン切りかとも思ったが、それにしては長すぎる。と言うより、こうもコールしていてはワン切りにすらならない。


(………間違い電話の類だな)


 そう決めつけて、切ってやろうと思ったが、こちとら作戦前の大事な精神統一の時間だ。何度も掛けてこられては困る。ここは一度出て、きちんと間違い電話だと言い渡して後顧の憂いを絶っておくべきだろう。だから上田は通話ボタンを押して、携帯を耳に当てた。


 その途端。 


『出るのおっそーいっ!』


 けたたましい黄色い声が鼓膜をつんざいた。若い女。知らない声だ。うっせーな、間違い電話で何故怒られにゃならんのだ、とこの世の不条理に上田は苛ついて舌打ちした。


「………何処の誰だか知らないが、間違い電話でそりゃ無いんじゃないか?」


 これで相手は黙るはずだ、と思っていたが、電話の向こうの相手は動揺した素振りもなく。


『ウエダカズヤ、でしょ?間違いじゃないわよ』


 むしろ自信満々な声音で、こちらの名前を指摘してくる。


「………………………どちら様?」


 相手の声に、本当に覚えがない。


『相方の声ぐらい覚えておきなさいよ。綾音よ。綾音』


 言われ、ああ、あのガキか、と納得しつつ少し不条理な事実に思い至る。


「………ちょっと待て。なんでお前が俺の携帯の番号知ってるんだっつーか作戦前だろお前何やってやがるっ!?」


 作戦時間を鑑みれば、今はもう突入地点に到達していなければおかしい。もしも到達しているにしても、そんな場所で何をしているのだろうか。


『うるさいなぁ。うるさいとお腹減るでしょ?でも世界一優しい私はその質問に答えてあげる。番号は風人さんに聞いたの。私はもう所定の位置に着いたよ』

「所定の位置って………敵の真上だろ?何を呑気に電話してやがる」


 あっけらかんと言い放つ綾音に、さしもの上田も目眩を覚える。作戦を台無しにしたいのだろうか。そして教える相村も相村だ。


 しかしそんな彼の心情などお構いなく綾音は続ける。


『ここの通風口、緩衝剤がたくさん使ってあるから声は響かないよ。突入口は金網じゃなくてドアタイプのものだから、大丈夫』


 大丈夫じゃないだろう、と思うがそんな突っ込みなど今更意に介す彼女ではなかった。


『私ってさぁ、こーゆー共同作戦することって少ないのよね。だからさ、相方の人とかと話したい訳』

「意味がわからん」


 言葉以上に他意はなく、上田にとってはまさしく意味不明な動機だった。しかし彼女は彼の呆れた態度を何とも思わずに。


『分かんなくていーよ。それに知りたくないの?私みたいなBCってどんな訓練したの、とかさ。どんな生い立ちなの、とかさ』

「興味ねー」

『そう?おじさん、珍しい事言うね』


 また中年呼ばわりされ、上田の許容値は若干限界値を超える。


「………俺はまだ二十六だ」

『あはは。傷ついた?十七の小娘から見れば、二十五過ぎたら立派なおじさんだよ』


 しかしそんなささやかな抵抗さえもこの小娘に一蹴され、上田は自尊心を少し傷つけられた。そんな間にも彼女は囀り続ける。


『みんなさ、腫物みたいに扱うんだよ。あの子は特別だからって。そんなん知るかってーの。私は別に私を特別だなんて思った事ないし、ふつーの女の子と変わらないのにさ』


 顔は見えなくても何となく口調で分かる。子供が拗ねた時にするような、唇を尖らせる表情に違いない。面倒くさい、と思いつつ上田は吐息。


「何かと思えば愚痴かよ。そんなの、お前の監査官の風人に言え」

『風人さんも駄目だよ。やさしーけど、私優しくされるの嫌いだし。だから、愚痴るならおじさんみたいなドライな人にって決めてるの』

「厄介な。つーかおじさん言うな」

『じゃぁ、パパ』

「いいか?敢えて優しく言うが、お前は一回死ね」

『ひどっ!じゃぁ、なんて呼べばいいのさ』


 問われ、上田は若干が考える。様々な呼び名が飛び交うが、その時点で何処のイメクラだ、と自身に突っ込みを入れ、無難なのを選ぶ。


 「………………上田様と呼べ。ろくでもないガキの愚痴に付き合ってやってるんだから」

『うんもうカズヤにするね。敬称は削除削除』


 人が必死になって選んだまともな呼び名も一蹴された。と言うよりもその反応の早さから、既に決めていたのではないかと思うほどだ。


『まだ時間あるからさ、お互いの身の上話しようよ』

「楽しいもんかよ。身の上話」

『少なくとも私はね。ふつーの人って、どんな風に生きてきたのか、興味あるもん』

「ふつーの人間はこんな場所で狙撃銃構えてないと思うが」

『それはそれとして、よ』


 どう?と聞かれるが、上田にとって過去の話は憂鬱極まりない。何せ、自分が今こうして自堕落な生活をしている理由に結びつくからだ。


「アホくせ。したかねーよ」

『しょーがないから私からするね』


 拒否の姿勢を取ったが、小娘にはまるでお構いなしだった。


「おい勝手に話進めるな」

『作戦まで時間無いもの。有意義に行きましょ』


 そう笑いながら言うと、少し声のトーンを落として彼女は語り始めた。




 ●




 両親の顔は覚えてない。自分が幼い頃過ごしたであろう場所は、今では見知らぬ故郷になっていた。


 物心付く頃に与えられたものは拳銃だった。


 あの環境を考えれば不思議な事ではなく、むしろ突撃銃でない分幸せな方だったかも知れない。


 少年兵は主に二系統に別れる。


 少年と少女。要は役割分担だ。


 身体能力向上のための基礎的な投薬量、戦場で生き残るための様々な知識などに関してはほぼ同等だが、どうしてもジェンダーな部分での能力差が出てくる。


 そのため、基本的に少年が主戦場に赴くための教育を受け、少女が暗殺などの教育を受ける。


 古来より、女、それも少女の方が暗殺に向いている。対象が男だろうが女だろうが、それは無害だ、と一瞬でも油断してしまうからだ。


 例えば、道ばたで座り込んで泣いている少女を見て、迷子になって泣いている、と思う事はあっても、それ自体が罠で、近寄れば隠し持った銃で撃たれる、等とは考えない。


 そして成長しても、女には生身でも武器がある。中世では娼婦が暗殺者を兼任していた例など掃いて捨てるほどある。


 だからその少女も例に漏れることなく、暗殺の技術を叩き込まれた。


 銃を用いての銃殺、毒薬を用いての毒殺、仮眠中を狙っての刺殺、絞殺。背後に回り、影に潜み、少女という姿を利用し、騙し、欺き、そして殺す。


 義務教育の変わりに教え込まれた技術は、十を数える頃には成熟期を迎える。


「投薬処置を行う研究者達がね、私の適合性に驚いてたわ」


 元来、未成熟な少年少女に投薬処置を行う、という行為をする時点で何らかの障害が現れる事は予測できていただろう。だが、よもやそれがプラス方向に向くとは誰も予測し得なかった。


 成長障害等の身体的な障害や、精神面の障害も一切無く、同じ投薬処置を施した少年達よりも高い身体能力。更に子供特有の技術習得率の高さも相まって、その少女は少年達の訓練プログラムもこなすようになる。


「もともと派手な事が好きだったから、結構早く馴染んだかな。ロケット砲の撃ち方なんて、女の子の覚える事じゃなーい、とか思ったけど、的を撃つだけだったらそこそこ楽しかったし」


 戦線投入を命じられたのは十一の時。カニカッティの局地紛争地帯、その鎮圧軍に、便宜上は聖歌隊の一人として従軍した。


 戦死者の魂を鎮めるために、聖歌隊を従軍させる軍は、現代こそ希有だが、皆無ではない。まして信心深いカニカッティ周辺となると不思議はなく、偽装としてはもってこいだった。


「私が最初に人殺しをしたのはその時。薪を集めようと思って、キャンプから少し離れたところで、数人の敵兵士に見つかった」


 しかし、すぐには攻撃されなかった。聖歌隊の格好をしていたし、確かにその部分では偽装は役に立ったといえよう。その時点では、普通の少女に見られていたのだから。


「まぁ、ちょっと下世話な話になるけどね、やっぱ戦場って溜まるらしいのよ。だから、相手が男でも犯す時があるらしいし、まして私みたいなオンナノコなら尚更」


 極限状態において、人間は種の保存本能が働く。おそらくは、敵兵士達の行動もそうしたものがあったのだろう。気が付いた時には、大の男数人に少女は組み敷かれていた。


 だが、男達が組み敷いたのは、決して無垢な少女などではない。


 むしろ、ベラドンナ。


 可憐にして猛毒な、二律背反を抱えた災禍の華アウロパ・ベラドンナ


 手にした銃はグリップ削って手に馴染ませたグロッグ17。選んだ理由は軽くて取り回しもいいし、トリガーに第二セーフティが付いていて、メインロック外していても安全だから。


 至近距離からの射撃で一人を仕留め、更に組み敷かれたままの体勢で斉射し、残りを射殺した。


「簡単だった。人って、こんなに呆気なく死ぬものなんだなって、思った」


 人の死を美談にしたがるのは、人間の悪い癖だ。


 第三者―――それこそ、生物的な視点から見れば死に美徳はない。ただ単純に、肉体の生命活動が停止するだけ。違いがあるとすれば、それが劣化から来るものか、第三者によるものかの差だけだ。


 その少女の感覚が狂っている訳ではない。ただ、人で言うところの道徳観念が薄かっただけだ。


「その日から、戦場に出るたびに引き金を引くようになったわ。武器をたくさん持つのって疲れるから、いつも拳銃一丁だけで、弾が無くなったら敵から奪ってまた引き金を引く。その繰り返し」


 いつしか、機械作業のようになっていった。おそらくはその姿こそが、虐殺部隊、殺人人形などと言った忌み名の元となったのだろう。


 そんな事が、三年ほど続いた。


「終わりは唐突だった。ある日、私たちの教育施設が強襲されて、司令塔が真っ先に制圧された。反撃しようとも思ったけど、その命令はなかったから止めた」


 皮肉なものだ。大人達が躍起になって育てた少年少女は実に優秀だった。だがそれ故に、いや、それだからか、自ら考える事を放棄していた。


「組織は即時解体。行き場のない力達は国連に引き渡され、護国の名の元に母国に所属する事を義務づけられた。私の場合、国籍はもう無いけど、日本人だったから、便宜上、日本の自衛隊に所属する事になったわ」


 少年少女達にとって、今までとさして変わりはなかった。ただ単に、命令系統が変わっただけだ。そして学校生活、という日常が増え、今まで培ってきた技術を振るう機会が減った。それだけだった。




 ●




『あれから二年半経つけど、正直、国連には感謝してる。学校生活って悪くないし』

「そーかい」

『まぁ、時々こうして引っ張り出されるけど、それは仕方ないって思ってるし』

「そーかい」


 上田の味気ない反応に、綾音は少しむっとし、先を促す事にした。


『………はい、私の身の上話はおしまい。今度はそっちの番だよ』

「やだね七面倒くさい」


 しかし上田は予め用意していた答えを提示した。元からこっちは思い出話などしたくないと拒否の姿勢を取っていたのだ。


 交換条件、等と言われても、事前の承諾が得られていないため無効だ。


 だが、そんなやり口で大人しくする彼女でもなかった。


『………………話してくれないとここで大暴れしちゃうかも』


 今までの彼女の動向から、その可能性を考慮する。猫のように気まぐれで、周囲の事を考えない脳天気さ。加えて若さ故の行動力も、おそらくは兼ね備えている。

結果、やりかねないという結論に至る。最早片足所か首までこの案件に突っ込んだ上田には、既に拒否権はなかった。


「………………性格悪いぞ、お前」

『よく言われます』


 挙げ句の果てに、自覚してる確信犯だった。


『で?するの?しないの?』

「………………面倒くさいなぁ」


 言いつつ、上田は断る。今からする話の主は、自分ではなく、遠く、何処かで野垂れ死んだ馬鹿の話だ、と。




 ●




 正味な話、彼は恵まれている方だった。取り立てて金持ちとは言えない家の出だが、それでも平均的な暮らしを送れる程度の環境があり、彼自身多岐にわたる才能に恵まれていた。


 運動神経に始まり、学業、口舌、頭の回転の速さなど、同年代の平均よりも頭一つ抜きん出ていたと言えるだろう。


 人間関係にも恵まれていて、共に悪巧みを企てる悪親友、何かと世話を焼いてくれる幼なじみなど、まさしく順風満帆な幼少期を過ごす。


「だがなぁ、そいつはだんだんと自分の生活に飽きてくるんだ」


 贅沢も過ぎれば、退屈へと変化する。彼には才能があった。何に、ではなくどれに対してもだ。どんな難しい技術や難解な学問でも、短期で要領を得、自分のものとする。


 そう、要領がいいのだ。


 それも、一を持って千、万を知るほどに。


 まるで砂。降った雨水を際限なく吸収する砂漠そのもの。それ故に、高校生活を終える頃には、彼の世界は既知の塊となっていた。


「特にやりたい事もなく、やりたい事を見つけてもすぐにカンストして飽きちまう。だからそいつは未知を見つけたかった」


 既知ではなく未知。それを見つけるためには、今までいた世界では駄目だった。こことは違う、一瞬一瞬が未知で構成され、その先に自分をおける場所。


 彼はそこを目指す事にした。


「幸い、成績は良い。退屈極まりない馬鹿みたいな才能が、道を造った。世の大人や先公がよく言うだろ?勉強はしておけ、成績は上げておけ、いつか何かをしようと思った時に役に立つからって。ありゃ本当だ。昔は社会なんて四則演算と漢字が書けりゃどうとでもなると思ってたが、なかなかどうして、そいつがなろうとしたものは、成績が良くなけりゃ駄目だったんだ」


 高校を卒業し、防衛大学へと進学した。そのまま自衛隊に進んでも良かったのだが、どうせなら、常に危険のつきまとう空自へと入りたかった。


「才能ってのはそこでも発揮されてな、そいつは四年後、主席で防衛大を卒業したよ」


 時を同じくして、彼は妻を娶る事になる。例の、世話焼きの幼なじみだ。


 プロポーズは向こうからだった。男としてそれはどうか、とも思ったが、未知を求める人間としては、それで良いかな、と納得した。


 おそらくがその時が、いわゆる人生の絶頂期だっただろう。


 そして登り切った後に残っているのは、下り坂だ。


「結局の所、そいつは空自には入れなかった。適性検査で引っかかってな。狙撃手の素養ありって事で、目論見通りにはならず、そいつは特別狙撃班へと転属させられた」


 それでもまだ良かった。入った場所は未知の塊で、彼が望むものが全てそこに揃っていた。


「狙撃ってのは地味ぃーな仕事の割に、やらなきゃいけないことが山とある。その上、その一つ一つが職人の仕事だ。生半可な技術じゃ出来やしない」


 だから、彼は生まれて初めて壁にぶち当たった気がした。これは歯ごたえのあるものだと、初めて思う事が出来た。だがそれでも。


「二年間だ。そいつがそこにいたのは」


 確かに狙撃の腕は神と呼ばれた師の足下付近にまでは届いた。まだ未知の領域がある。まだ上に行ける。だから更に腕に磨きを掛けようと思った矢先だった。


「嫁にな、子供が出来たって言われた」


 思いがけない事に彼は喜び、しかし次の瞬間、血の気が引いていくのが分かった。


「その嫁が手にしてたのはな、離婚届だった。ドラマとかで言う、三行半って奴だな」


 彼は激しく狼狽し、その未知に恐怖し、しかし何も出来なかった。


「嫁は何も言わずに、自分の名前を明記し、押印までしてその紙切れをそいつに渡すと、部屋を出てった」


 追う事は出来なかった。状況をうまく飲み込めなくて、何も考えが浮かんでこなかった。だがそんなときでも、仕事は向こうからやってくる。


 今日のような銀行強盗の鎮圧任務だ。人質を取り、立て籠もった犯人を狙撃する。今回のように二キロも離れていなかったし、視界も悪くなかった。


 狙撃の難易度で言えば、かなり低い部類だった。


「その引き金はそいつに預けられた。まぁ、いくら家庭環境が滅茶苦茶でも、そいつは一応プロだ。頭と身体は別個に動く。ゴーサインも出てた」


 だが、崩壊した思考と、任務に従順な身体を繋げる接点が、その現場にあった。


「最悪な事にな、人質の中に、そいつの嫁がいたんだ」


 その事実は、容易く彼の身体を硬直させた。過呼吸になり、構えた銃の銃口は震え、そして指先も震えた。


 とても狙撃など出来る精神状態ではない。配置を換えて貰おうと、通信機を取ったその時だ。


「スコープ越しにな、そいつは嫁が頽れるのが見た。騒がしい町中だってのに、銃声が耳を劈いたのも分かった」


 直後、SATが突入し、事態は収拾できたが、全てが終わって彼が対面したのは冷え切った身体の妻だった。


「更にオチまで付いててよ。遺品整理の時に見つけた日記によると、嫁は肺ガンだった。既に末期ステージ4で、後三ヶ月も生きれないと書いてあった。子供を宿しても、生まれるまで母胎が持たない、とも。だから、旦那と別れて一人で逝こうと決心したそうだ」


 未知を求め、家族をないがしろにした結果がこれだ。


 彼は自らに絶望し、嘆き、全てを捨てた。


 仕事も、銃も、俗世さえも。


 ただ一人、静かに廃れた日々をこなしていく廃人と成り下がった。


「だが、そんな馬鹿にもチャンスが訪れたのさ。恨み辛みをぶつけれる奴が脱走し、のこのことの照準線に重なりやがる」


 だからこそ、彼が首を縦に振った理由は二つ。どれも私怨でしかない。復讐と清算だ。彼女を殺した奴への。そして、彼女を見捨てた過去への。




 ●




 全てを語った後、今更のように電話越しの綾音は吐息した。


『いちお、殺しじゃなくて捕縛なんだけど』

「分かってる。どのみちこの距離じゃぁ、機会がなきゃ無理だ」


 この距離と照角では、弾丸の到達範囲は限られてくる。事実、現状スコープを通しても土屋康生の姿を確認する事を出来なかった。おそらくは、奥の方にいるのだろう。


『じゃぁ、あったらってこと?』


 問われ、上田は逡巡した。考えなかった訳ではない。もしも。そう、もしもその可能性があるのならば、自分はその時どうするのだろうか。


 躊躇うことなく引金を引けるのだろうか。


 それとも、あの時のように恐れ、戦き、硬直するのだろうか。


 分からない。分からないが、現段階ではあくまで可能性の段階で、決定的に生殺与奪権を与えられた訳ではない。


「………そうだな」


 だから、上田は適当に答える事にする。土屋康生を恨んでいる、と言う事は事実なのだから。


 しかし綾音は、それを本気と受け取ったのか。


『じゃぁ、さ』


 とんでもない事を上田に告げた。


「!?………お前」


 彼はそれを聞かされ、絶句した。人間、驚愕を感知すると時間の流れを遅く感じると言うが、一瞬、本当に周囲の空気が止まった気がした。


『出来るかどうか分からないし、その前に私が殺すかも知れないけど、うまくいったらどうぞご自由に』

「一体どういうつもりだ?」


 訝しんでその真意を測りかねる上田に、綾音はいつもの脳天気な声音のままだ。


『別にー。身の上話に付き合って貰ったしね。そのお礼?みたいな。さぁ、そろそろ時間だよ。じゃねー』


 それを機に、通話が切れた。


「………勝手に電話して勝手に切りやがって」


 無機質な切断音を聞き、携帯のディスプレイに視線を落としつつ、上田は独り呟いた。

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