前編

 朝から妙な幻覚を見るのは、きっと食生活が偏っているせいだと上田和哉うえだかずやは結論づけた。一人暮らしをし始めて早二年。その間ずっとコンビニ弁当やインスタントで栄養摂取していたのだ。始めてみればどうと言う事もない荒れた食生活も、ついに彼の身体に影響を及ぼし始めたらしい。


(………これは夢だ幻覚だ。寝直せばきっと目の前から消えるはずだ)


 寝ぼけ眼に映る幻覚を直視するのがどうしても嫌なため、上田は再び瞼を落とし、その幻覚から背を向けた。


 しかしそれにしてもたかだか六千円の安物ソファーがこんなにも心地良いとは思わなかった。普段はベッドできちんと寝るようにしているが、昨晩の深酒が祟って、そのまま寝入ってしまった。


(ああ、そうそう。まだ酔ってるんだ。だから幻覚が見えるんだ。)


 適当に納得できそうな事を頭の中でリフレインさせ、自己暗示を掛ける。そう、訳の分からない幻覚を直視してなるものか。


 と、その瞬間、耳元になま暖かい空気が触れた。


「ふぅー………」

「うどぁっ!」

「ああ、おはよう和哉」


 耳を押さえて飛び起きると、幻覚が爽やかな挨拶を寄越してきた。ひょろりと長い身長に、銀縁眼鏡。そして何年経っても変わらない軽薄な笑顔。中学時代から付き合いのあるこの男、名を相村風人と言う。


 上田としては非常に認めたくない事だが、この目の前の腐れ縁は幻覚ではないようだ。そしてその腐れ縁は、息を吹きかけて起こす等という、男にやられたら末代まで祟りたくなるような起こし方をしてくれた。


「朝っぱらから何の用だ馬鹿」


 未だに残留し続ける耳元の嫌な悪寒を手のひらでもみ消すように触りつつ、彼は悪態と共に相村を睨め付けた。


「朝?もう昼の一時だよ。世間様で言うところの真っ昼間だね」

「喧しい戯れ言をペラ回すな倒錯者。つーかな、一つ訊くがどうやって俺ん家入ってきたっ!?」


 よくよく考えてみれば、昨日買い出しから帰宅した後、きっちり鍵を掛けている。オートロックはもちろんの事、二重ロックまで完備しているこのマンションの一室に、鍵を持たぬ第三者がこうも容易く侵入できるはずもない。


 しかし相村は軽く笑って。


「それはね和哉。ほら、一ヶ月ぐらい前に僕、呑みに来ただろう?」

「ああ。人妻に逃げられたからやけ酒とか言って夜中の二時にたたき起こしてくれたなこの熟女キラー」

「まぁまぁ。親友のよしみで許してよ。で、その時、途中で買い出し行ったでしょ?僕」

「ああ、一人で俺の柿ピー食い尽くしやがって。しかもお徳用二袋!」

「まぁまぁ。親友のよしみで許してよ。で、その時、君ん家の鍵をこっそり拝借して合い鍵作った次第さ」

「そうかそうかそりゃ犯罪だこのおとぼけ警官!さっさと合い鍵寄越せっ!」

「まぁまぁ。親友のよしみで………」

「許すかっ!」


 取りあえず手近にあったビールの空き缶をぶん投げてやる。だが相村は笑いながら軽く避けるだけだ。


「まぁ、冗談は置いておいて。実際の所はこのマンションの管理人さんにこれ見せて開けて貰っただけなんだけども」


 そう言ってスーツの上着から取り出したのは、天下の桜大門。要するに、警察手帳だ。


「………。妙な事言ってないだろうな?」


 中学爾来からの付き合いだ。この馬鹿の性格は知り尽くしている。どうせある事無い事、いや、無い事無い事吹き込んでくれたに違いない。


 しかしその期待を裏切るように。


「あのね。流石の僕も親友を貶める事をする訳無いよ。ただ………」

「ただ?」

「昨今この周辺を賑わしてる幼女誘拐犯の容疑が掛かってる、と」

「そりゃ完全に貶めてるだろっ!」


 喚いてみるが、既にどうする事も出来ない。後で誤解を解くのに苦労するな、と上田は半ば投げやりにため息をついた。


「で?一体何しに来やがった?まさか遊びに来た訳じゃないんだろ?」

「いや。遊びに来ただけ」

「いっそ殺してやろうかと思うがどうだろうか」


 微笑みさえ浮かべて手にするのは手近にあった空の一升瓶だ。重さも強度も丁度良く、まさしく目の前の馬鹿を殴殺するためだけに存在するかの如くだ。そしてラベルに『ひとあばれ』と書いてあるあたり、実にこちらの心情を悟ってくれる酒瓶である。


「い、いやだなぁ和哉。冗談じゃないか冗談。さぁ、そんな物騒なラベルの酒瓶は何処かに放っておいてまずは話し合いのテーブルに着こう?」


 流石にこちらも十年来の付き合いだ。あまり派手に遊びすぎると血を見る結果になると言うのはよく分かっている様で、先程の態度とは一転、相村は上田をなだめ始める。


 しかし、当の本人は微笑みを絶やさずに。


「気まぐれ裁判官の俺としては、処刑人も兼ねるダブルヘッダーな訳だが。こうした結論を出すのも良いと思う」

「えっとつまり?」

「判決。被告人相村風人は………………………無罪で死刑」

「そりゃ横暴だよ!」


 そうでもないよな、と上田は自己完結した後、酒瓶を元の場所に戻す。起き抜けに騒いだせいか、若干貧血気味だ。彼は適当な糖分を摂るため、テーブルの上に散らかったつまみを一つ口に放り込む。


「それで、本題は?バ会話しにした訳じゃないんだろ?」

「その様子だと、本当に今起きたようだね。君との漫才は非常に楽しいけど、確かに本題を話さないとね」


 説明が面倒だな、と相村は続けると周囲をきょろきょろし始めた。


「動きが挙動不審だぞ国家の狗」

「君の毒舌は何年経っても変わらないね。それよりテレビのリモコンはどこ?」


 上田は一瞬訝しげな表情をするが、同じように周囲を見渡して、自分が足で踏んづけている事に気づく。足をどけてそれを手に取ると、相村に投げて寄越した。


 それを受け取った相村は上田の座るソファの正面に置かれた液晶テレビに向かい、スイッチオン。


 最初に映ったのは昼ドラだ。しかしそれに目をやる事さえなく、彼はチャンネルを変える。すると、次に映ったのは何かのニュース番組だった。


「………緊急特番?」


 画面の左上にそう書いてある。一体何のだ、と疑問に思うと同時、画面上のキャスターが口を開く。


『………事件発生から既に三時間が経過しておりますが、依然新たな動きはなく、強盗犯は建て籠りを続けています』


 強盗犯、と言う単語に上田は一瞬、胸が支える。もう二年も昔の事だというのに、まだ振り切れていないのは、感傷かそれとも傷心か。


 どちらにせよ、こういう時ほどこれ程までに自分が弱い人間であると痛感する事はない。


 既に終わった事だ。とは言えいずれ時が癒してくれるだろうと楽観する自分がいて、生涯背負わねばならないと悲観する自分もいる。


 完全な二律背反。


 それに苛まれる自分は、一体どんな顔をしていたのだろうか。不意に、相村が声を掛けた。


「………大丈夫かい?」

「………………………ああ」


 正直気分は頗る悪い。しかしそれでも頷いて見せたのは、ちっぽけな矜持があったためだ。例え十年来の親友でも、弱みは見せたくない。


「………それで?こんなものを俺に見せて、どうしようってんだ?」


 普段なら、相村もここで軽口を叩いていただろう。だが、案件が案件だ。これから起こる事に彼を引き込む以上、無駄な揺さぶりはしない方が良い。彼に行って貰うのは、非常に緻密でデリケートな作業なのだから。


 そこまで冷静に考えてから、相村は違うな、と自らの虚飾を剥ぎ取った。


 ただ単純に、上田の心に広く、そして深く刺さった十字架をえぐり取る事は、悪親友として出来ないのだ。口でなんだかんだ言いつつも、十年来の腐れ縁であり親友であり悪友であり相棒でもあった男だ。下手な身内よりもずっと大事だろう。


 だから、相村は慎重に、しかし要点をまとめて説明する事にする。


「見ての通り、三時間前に、都内の中央銀行で強盗事件が起こった。それだけならばともかく、対応が早すぎて犯人を屋外に出す前に包囲してしまった」


 通常ならば、それの方が良かっただろう。問題なのは、犯人の数だ。人質を取ったのが少数単位の犯人ならば包囲し、疲弊したところを一瞬で取り押さえる。そうした作戦が常套なのに対して、対多人数だとその真逆を用いなければならない。


 要は、戦力の分散である。


 一カ所に固まった武装集団を相手に、いかな油断を突こうとも一瞬で取り押さえるのは不可能。となれば、個別に散らし、各個捕縛しかない。そして散り、逃げるとなると自然、人質の数も少なくなる。例えその場で逃がしてしまったとしても、日本の検挙率を鑑みれば、その捜査網に引っかかるのも時間の問題。


 つまり散らせば散らした分、リスクも減るのだ。


「人質は三十人以上。犯人グループは十人以上。そして要求は逃走車の用意だけ」

「つまり、金はもう手に入れたって事か」

「今、一時的に中央銀行のサーバーはダウンさせてるから、その場で振り込み、とかは出来ないようにしてる。つまり」

「犯人は、現金を持って逃げる」


 そこを押さえれば、被害はほぼゼロに近い。丸く収まる。だが。


「逃がしたら駄目なんだ。これがね」


 全てが、ではないのだ。上田は一瞬訝しげな表情をしたが、すぐに思い至った。


「テロ行為、か」

「そう言う事。上層部はそこに気づいていても、危うく要求を呑もうとするとこだったけどね。まぁ、そろそろ選挙も近いから事なかれ主義に走るのもしかたないけどさ」


 犯人が一人ないし数人程度ならば、それは単なる強盗事件で終わる。だが、武装し十人単位になるとそれは最早テロ行為と見て相違ない。それが例え、宗教的な名目やプロパガンダが無かったとしても、だ。


 そしてテロに屈するという事は、つまり後続を許すという火種になりかねない。

要するに、日本はテロに屈する国となり、全世界のテロリスト達が、見せしめのためだけに日本を土足で踏み荒らす想像を絶する未来が待っている訳だ。


 それだけはなんとしてでも避けねばならない。


 相村や上田がいち早くそれに気づけたのは、そう言う事が日常茶飯事で起こる世界にいたためだ。


「質問に答えてねぇな。俺に一体、何をしろと?」

「元S2Tに頼む事なんか、一つしかないよ。狙撃が必要なんだ。それも、二キロ先から標的をしとめれる狙撃手が」

「二キロだって………?」


 さしもの上田も絶句した。狙撃ライフルの有効射程範囲を数百メートル逸脱してる。届かせるだけならばともかく、正確に狙って仕留めるとなると絶技に他ならない。


「同じ元S2Tに頼むなら、佐藤のじーさんにでも頼めよ」

「確かに。君の師匠である佐藤翁なら適任だね。けど、翁は先月から海外旅行中だよ。なんでも、『ワイハでどっきり水着ギャルアバンチュール計画』を行うとかなんとか」

「発想が昭和も良いところだな。………あのじじい、明治生まれなのに」

「妖怪………いや、老兵は死なず、だよ」


 二人して老いて尚壮健なご老体の事を貶しつつ、吐息。その後に上田は何かを値踏みするように相村に視線をやった。


「まだ何かあるんだろ?俺を指名する理由が」

「強盗グループの主犯格の名前、まだ言ってなかったね」


 相村は一瞬、何かを思案するように天を仰ぎ見て、そしてからその名を口にした。おそらくは、上田が最も忌み嫌う名を。


「土田康生。………君の奥さん、美希さんを殺した男だ」


 首を縦に振った理由は二つ。どれも私怨でしかない。復讐と清算だ。彼女を殺した奴への。そして、彼女を見捨てた過去への。




 ●




 上田が中署の対策室に足を運んだ事は、過去に一度だけ。まだ彼が現役であった頃、とあるカルト教団が地下鉄にC4―――つまりプラスティック爆弾を仕掛け、多重爆破した事件の時だ。


 警察によって追いつめられた事件の首謀者、つまりカルト教団の教祖は今回と同じように人質―――それも年端のいかぬ子供―――を取って病院に立て籠った。その時も、自分はこうしてこの対策室に足を踏み入れ。


『………!』


 周囲にざわめかれた。


 内容は聞かなくても分かる。どうして彼が、とかそんな反応だ。当時は少数精鋭の特務部隊だったため、驚かれた。そして今回の反応は、それを辞めて隠居生活を送っていたのに何故、と言うところだろう。


 最早反論する気すら起きず、上田は呆れたようにため息をつくと、羽織ったコートの内ポケットからタバコの箱を取り出し。


「いちお、ここ禁煙だから」

「………わーったよ」


 相村に制され、所在なさ気に視線を揺らした後、上田はタバコの箱を元に戻した。相村はそれを満足そうに見やると、彼を少し後ろに伴って、対策室の中奥、官房長官が座る長テーブルへと進んだ。


 最初のざわつきが部屋中に感染拡大し、そこに至るまでの道がまるでモーゼの十戒の如く割れる。


 そしてそこに辿り着いた時、対策室は不気味なまでの静寂に包まれていた。


「長官。先程の宣言通り、彼を連れてきました」


 軽く最敬礼し、相村は人の悪い笑みを浮かべた。ちらりと周囲に目をやれば、その場にいた誰もが信じられない、という表情をし、絶句している。


 無理もない。この二年間、上田は隠者の如く細々と生きていた。


 当時の総理大臣の要請―――否、懇願ですら唾を吐いて蹴り、便宜上の自衛隊を抜けた上田を、旧知とは言え相村が引っ張り出したのだから。


「………ご苦労」


 おそらく、内心では周囲と同様、驚愕していたのだろう。だが、さすがはその地位に留まり続けるだけはある。胸の内の動揺などは一切出さずに、官房長官は鷹揚に頷いて立ち上がった。


「まさか、君が本当に表舞台に来てくれるとは思わなかったよ」


 笑みさえ浮かべて右手を差し出す彼に、上田は憮然としたまま握手には応じなかった。


「別に、あんた等のために来た訳じゃねーよ。俺には来る理由があった。そして報酬も後からくれるんだろ?要はギブアンドテイクだ。ビジネスライクで行こう」


 言外にべたべたと馴れ馴れしくするなと言い放って、彼は近くにあったホワイトボードに目をやった。


「現場の見取り図か?」

「そうだよ。ペケが打ってある場所が人質を監視している犯人の場所」

「人質全員の両手を頭の後ろで組ませて、その背後で銃を構えて見張ってるのか」


 成程、確かに有効な見張りの仕方だ。犯人が何処を見て、どこに銃口を向けているか分からない分、人質に過剰な恐怖を与える事が出来、反乱や脱出などと言った余計な考えを排除させる抑止力となる。尚かつ、見張りに余計な人員を割かなくて良い。


 その上に、仮に正面突入を試みられても、見張りの前に人質がいるのだ。うかつに発砲などできようはずがない。


「見張りは一人………。つまり、人質に向かって真っ先に引き金を引けるのは実質一人なんだ。これを押さえれば」

「混乱に乗じて、残りを押さえられる、か。で、これが現場周辺の模型だな?………って、おい」


 それを見た瞬間、上田は絶句した。現場と思わしきビルの周囲に、高層ビルが建っている。現場で唯一狙撃の照角になりそうな、北西側の出入り口が、同じく北西側に建つビルによって阻まれている。


「狙撃をするなら、そのビルからでもいいんじゃないのか、って思える?」


 意地の悪い相村の問いに、上田は首を横振った。


「近すぎる。こっちから見れば逆光だから、下手をすればスコープの反射で感づかれる」


 あくまでもしもの仮説だ。極限状態にある犯人達がそれに気づくとも思えないが、だからこそ気づかれる可能性もあるのだ。その時、恐慌に陥った犯人の行動はまさしく推して知るべし、である。


「うん。だから、ここからの狙撃を頼みたいんだ」


 相村は頷くと、更に北西の先にある高層ビルを指さした。


「成程、それで二キロ先、ね」


 確かにそのビルから、現場を結ぶ線状に、障害物は北西のビルだけだ。それを鑑みて、上田は相村の言わんとする事を先読みする。


「三階………いや、二階の窓枠を全開にして、射線を確保する訳か」

「その通り。狙撃ポイントも二十三階建てだから、調整は効くだろう?」

「そりゃ確かに効くけどさ………。マジでやるのか?こっからの狙撃。冗談抜きで佐藤のじーさんくらいだろ。こんなの出来るの」


 模型を見ただけで分かる。途方もないほどの距離だ。今日の天候は比較的穏やかで、それによる影響は少なそうだが、それを差し引いても口にするのも憚れるほどの神業が必要とされる。


「いない人の事を言ったってしょうがないよ。それに、彼の弟子でも出来ると僕は思うけどね」


 そう言って、相村は軽く天井を仰ぎ見た。


「僕は忘れちゃいないよ。三年前の野外訓練。軍用のレーションがまずいからって、野鳥撃ち落として二人でバーベキューしたじゃないか」

「またろくでもねー事を覚えてるな」

「手持ちの銃弾はそれぞれ十発。その時の戦果は僕が二匹。君は空を旋回する鳥を九匹。それも、訓練を兼ねてって全て千五百メートル先からの長距離射撃だ」


 千五百メートルと言えば、狙撃系のライフル銃のおおよその最大射程距離だ。これ以上は著しく集弾性が低下するため、メーカーは保証していない。


「彼の第一次世界大戦での英雄、レッドバロンがリヒトホーヘンもびっくりだよ。そのうち三匹がカラスってのは止めて欲しかったけど」


 その奇跡的な戦果の結果、天然記念物指定の野鳥さえも、何匹かおいしく炭火焼きにして頂いた。


「動いている標的でさえその命中率だ。止まっているなら、何を況や、だろう?」

「じーさんなら十匹落としてたな」

「だからいない人の事を言ったって仕方ないって。それで、出来なくはないんだろう?」

「当たり前だ。だが………」


 狙撃は出来る。状況や天候に左右されるだろうが、届かせるだけならば何とか可能だろう。だが、基本的に狙撃手は戦術者だ。物事に可能性があるのならば、その全てを考慮して、次善策を用意する。


 この場合で言うのならば。


「撃った後はどうする?外れた場合の事も考えているのか?」

「勿論。………そろそろ到着する時間かな?」


 相村が頷いて、対策室の壁掛け時計をちらりと一瞥した時だった。


「すみませーん!遅れましたーっ!」


 入り口の方で、喧しいとか騒がしいとか姦しいとか、そんな声が挙がった。上田は眉をひそめるが、相村はやっと来たか、と呟いた。


「はいはいはい関係者ですからねいちおー。通して下さいねー!」


 そんな呑気な声を上げながら人垣を分けて来たのは、紺のブレザーに身を包んだ少女だった。長く伸ばした黒髪に、声に同じくこの場に似つかわしくない脳天気な笑みを浮かべている。しかし肌は白磁のように白く、肢体も華奢で、おそらく街を出歩けばどこからともなく声を掛けられるタイプだろう。


 少女は相村の姿を認めると、軽く片手を上げて。


「あ、風人さんすみません。いやー電車混み合ってて遅くなっちゃいました」


 参った参ったとばかりに手を振って笑う少女に、上田はジト眼で相村に視線をやった。


「………………おい。誰だこのガキ」


 しかし答えたのは相村ではなく当の少女で、上田の発言にも笑みを苦笑に変えただけだった。


「うっわ出会い頭に差別発言?おじさん、いい歳なんだからもっと柔らかく差別しようよ」


 訂正。口で反撃してきた。俺はまだ二十六だ、と内心思いつつ、少しばかり反抗心が芽生えてきた。


「………。風人。狂育的指導の名の下に俺は今からこのガキを若干酷い目に遭わせてやろうかと思うんだが、どうだろうか」

「和哉。気のせいかな?文字的にどうかな、っていう表現があったんだけど」


 呆れたように相村が口を開いて続けた。おそらくは上田が予想だにしなかった台詞をだ。


「まぁ良いけど、多分無理だよ?」

「は?」


 自己弁護すれば、自堕落な生活を送っている上田でも、かつては肉体派の職場にいたため、腕っ節には自信がある。そこらの不良少年はおろか、筋者でさえ同条件下なら後れを取る事はない。こんな華奢な少女ならば、何を況や、である。


 しかし、そんな疑問も相村の二の句で氷解する。


「特殊戦技兵。強化少年兵ブーステッドチルドレン計画。十数年前からチャーリー・マシューズが推し進めていた護国計画の話を知ってるかい?」


 上田もその話は職業柄、耳にした事があった。


 あらゆる国に所属せず、そしてあらゆる国に所属する―――戦災や天災、その他諸々の事情で、行く場所の無くなってしまった少年少女のみで構成された外国人軍隊。いずれ国連の切り札になるであろうと予想されたこの計画は、当初の構想から大きく逸脱した人体改造を行い始めた頃から、その全容を書き換える事となる。


 国籍を問わず年端もいかぬ少年少女―――つまりは素体の誘拐、拉致に始まり、昂精神剤の持続投与、薬品によるドーピング、暗殺技術を含む戦闘訓練、各種銃器、兵器の習熟。


 その全てを叩き込まれた彼等は、歴戦の兵士よりも遙かに短期間で、更には彼等をも上回る経験と技術を身につけた。


 現在も起こる紛争や戦争に介入し、両国、更には世界全体の治安を護るべくして設立された部隊は、最終的には極めて優秀な兵士育成部隊と化し、その能力の高さ、そして危険性から虐殺部隊、殺人人形と呼ばれるようになり、数年前解体を余儀なくされた。


 その後、行き場を失った少年兵達は、国連側に吸収されたと聞くが―――。


「私はね、国連に引き渡された後、この国を護国するように命じられたの。まぁ、元々それぐらいしか能がないし、いちお、母国だし。その上、年相応の事させて貰ってるんだから、文句は言えないわよね」


 少女は言うと、制服のスカートの端を手でつまんで見せた。年相応の事、とは学生生活の事を指すのだろう。幼子の頃から様々な技術を叩き込まれてきた彼女は、そうした生活を知らなかったのだろう。


「………で?役に立つのか?このガキ」

「和哉。僕はね、彼女………来島綾音ちゃんの監査官で一応、実質的な保護者にあたるんだ。特殊戦技兵のマネージャーって言った方がしっくり来るかな?」

「いつの間にそんな怪しげな副業してるんだよ」

「去年辺りからね。上層部うえからちょっと頼まれてね。それよりも、その僕が彼女の能力を保証するよ。半年前に成田空港であったハイジャック覚えてる?」


 問われ、上田は記憶を探る。基本的に一日中暇している人間なので、情報収集力はそこらの専業主婦並みだ。媒体は主にテレビだが、よく覚えている。カルト系の人間数人が離陸寸前の旅客機をジャックした事件だ。


「あれ解決したの、彼女だよ」

「今回とはシチュエーションが違う」


 その話を振られた辺りから予想は出来ていたので、切り返すのは早かった。確かに、上田の言うとおり今回は規模が更に大きい。人質の人数は減ったもの、武装面と人数では大幅に強化されている。一瞬の油断が命取りになるだろう。


 しかし反論したのは綾音自身だった。


「だから私なんでしょ?日本に来たBCブーステッドチルドレンはまだ他にもいるんだけど、対集団戦に特化したのって、私しかいないもの」

「こちらも全力でバックアップする。だから大丈夫。君は狙撃に集中して」


 二人に悟られるが、元々言葉以上の反抗の意志はない。いずれにせよ、ここで議論をしていても事件は解決しないし、相村が脳裏で描いている以上の妙案を持ち合わせている訳でもない。


 だとすれば返事は一つだ。


 「………作戦内容を説明しろ」


 吐息混じりの上田の答えに、相村は頷くと模型に視線をやった。


「時間はそれほど残されていないから、手短に説明するね。まず、要員の配置から。和哉はさっき見せた現場二キロ先のビル………まぁ、階数は君に一任するけど、確実に射抜けるであろう場所を考えて選んでね」

「観測手は?」

「ごめん。時間無くて用意できなかった。自力で頼むよ」

「無茶言ってくれる。神業射撃に、観測手も無しか」

「重ね重ねごめん。でも、万一外しても大丈夫なように策はあるから」


 こうした全体的な作戦立案は古くから相村の役目だった。だから、上田はそれ以上何も言わない。その沈黙を肯定と受け取って、相村は口早に指示を下す。


「それで、綾音ちゃんは第一の突入して貰う訳だけど。現場ビル四階の通気口から、一階の天井裏まで出れるようになってるんだ。そこで一時待機」

「はい」


 頷く綾音の表情に、先程までの脳天気な雰囲気は無く、真剣な瞳は決然とした意志を秘めていた。やはり、見かけはどうあれ、相村が保証するだけはあるらしい。


 「他のSATの要員は正面に半数、裏口に数人、後は二階へと続く階段とエレベーターを塞ぐ。これが初期配置」


 次いで、相村はホワイトボードの方へ視線を移した。マジックを手に取ると、空いている場所に文字を書き連ねていく。


「作戦は今から丁度一時間後。犯人が指定した刻限の五分前に始める。まず、狙撃手が人質に銃を向けている犯人を狙撃。それと同期して、突入班が閃光弾を天井から投げ込む。この時、狙撃が外れた場合を考慮して、第一突入班は人質方面の確保を優先。その確保と同時に、反対側の第二突入班も突入を開始する」


 中核に綾音を据えた、三部隊による多重展開だ。事が事だけに作戦時間は極限られているし、確かに同時、並列展開しなければ間に合わない部分も出てくるだろう。


「犯人グループが立ち直る前に全て制圧するのが理想だけど、狙撃が外れた場合、その余力は無いだろうから、その時の第二突入判断は綾音ちゃんに委ねるよ」


 もし狙撃が外れた場合、人質の確保を綾音。そして強襲役を第二突入班へと変形させる、と言う事だ。


「そして万が一、突入中に人質が囚われた場合、速やかに武装解除して犯人の言うとおりにする」


 この時には既に大半の犯人が行動不能になっているため、例え逃がしたとしても少数。テロという枠から、強盗誘拐犯という枠に格下げになる。


 後は日本の検挙力を持って捕まえればいいだけの話だ。最後の文字を書き終えると、相村は傾注する全ての要員達に向かって宣言した。


「作戦概要は以上。それでは各自、健闘を期待します」

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