禊の弾丸
86式中年
序幕
事件発生より二時間後。
重苦しい雰囲気の中、対策室の面々は渋面を付き合わせていた。状況としては、この上なく最悪。打開策も誰一人として出す事叶わず、刻々と時間だけが無為に過ぎていく。
解決が出来ない訳ではない。
ただし、犠牲を問わずに限るだけだ。
例えばそれが何らかの損害………突き詰めて言えば物損だけならば、上座にいるやけに座り心地の悪いパイプ椅子に腰掛けた防衛庁官房長官が、現場周辺で待機しているSATに突入を指示すれば良いだけだ。
それが出来ずにいる理由は一つ。
想定しうる被害が、物損だけではなく人命にまで及ぶ可能性が極めて高いためである。
有り体に言えば、人質がいる訳だ。だがよしんばいたとしても、一人二人ならばどうにでもなる。
自衛隊はともかくとして、日本の特殊部隊の能力は、その人員こそ少ないものの全世界的に見て某国のSWAT、あるいはSASに匹敵する。
国内空港で起こるハイジャックなどに関しても、現在の日本で深刻的な被害を出した事さえない。
それほどまでに優秀と言える。だが、その優秀さを以てしても、銃器で武装した銀行強盗集団相手に安易に手が出せないのは、人質の数が三十を超えていて、且つ武装集団の人数も十を下らないからだ。
そう。防衛庁の官房長官まで引っ張り出して、この中警察署のけして広いとは言えない対策室に大の大人が百人以上詰め込まれているのは、たった一つの強盗事件のためだ。
事の始まりは四時間前に遡る。
とある収監所にて火災が発生し、無期懲役の囚人が脱走した。おそらくは外部、内部共にの手助けがあったため脱走できたのだろうと、ほぼ確定できた。
何故ならば、その二時間後、脱走した囚人が銃器で武装し、あまつさえ集団で中区中央銀行を襲撃したからだ。
普段からそうした緊急事態に対するマニュアルがあったのだろう。事件発生とほぼ同時に警察に連絡が入り、駆けつけた警察官達は犯人達を逃がすことなく取り囲む事に成功した。
だが、いくら袋のネズミだからと言えど、そのネズミが時限爆弾でも抱えていればおいそれと手が出せない。
その爆弾こそが、銀行員、来客を含めた三十名以上の人質である。
そして、既に二時間もの時間が無駄に過ぎていた。
犯人の要求は、逃走車四台の要求だ。
それを鑑みるに、金はうまく手に入ったのだろう。後は逃げるだけ。
「………最早、一刻の猶予もない」
誰しもが沈黙した中、若干かすれた声で官房長官が口を開いた。
「人質を諦め、突入するか………要求を呑むかの二択」
その決断だ。結局の所、今回に限って言えば突入は不可能だ。犯人が一人二人ならばともかく、十人以上いる中、人質を護りそれらを一瞬で制圧せねばならない。
閃光弾を使ったとしても、一瞬で突撃し取り押さえられる人数は決まっている。その隙に人質に銃を突きつけられれば終わり。挙げ句、敵が対閃光弾用のゴーグルでもしていればその作戦も無為になる。いずれにせよ、分の悪い賭だった。そして分の悪い賭を、犯罪歴史に乗るような大事件でするのはただの馬鹿だ。
「要求を、呑む」
誰しもが、その決断を英断と認めた。どんな理由であれ、この現代社会で尊重されるのは人命だ。それを無視した救出作戦などあろうものか―――と言うのは、建前だ。
彼等の本音は別にある。何より選挙が近いのだ。ここで血が流れば野党とマスコミはこの事件を好材料として現政権を叩きに回るだろう。
そう、これは仕方のない事―――。
「ははは。じゃぁ、テロに屈する気ですか?」
その瞬間、対策室が凍り付いた。そして、声の主に視線が集中する。
向けられた先は対策室の末席、一番後ろだ。銀縁の眼鏡を掛けた、少しひょろ長い男だ。年の頃なら二十代半ばだろう。彼は自分に視線が集中しようとも、軽薄な笑みを浮かべたままだった。序列的に、中署の刑事相当。だが、官房長官はその刑事の名を知っていた。
かつて、ある人物に名を連ねた者。そして、一般刑事に紛れた、刃の担い手。
「君は………!」
「突入しても良いんじゃないですか?難しいとは言え、出来ない事じゃないでしょう?」
「何を馬鹿な事を!人質が三十人いるんだぞ!?」
官房長官の絶句を追い抜かして激昂したのは、何を隠そう中署の署長だ。流石に、自分の所の部下が不穏当発言をすれば、自らの沽券に関わると思ったのだろう。これ以上何かを口にされる前に、怒鳴りつけて事を収集しようと思ったのだろう。
だが、男はへらへらと笑みを貼り付けたまま、彼は対策室の一番前、現場の見取り図が書かれたホワイトボードを見やる。
「人質が三十人、ね。それを見張っているのは一人。なら、その一人を押さえ、その混乱に乗じて残る犯人を制圧すれば良いんですよ」
あっけらかんと、とんでもない事を言い放つが、そもそもそれが出来ないから攻めあぐねいているのだ。
「馬鹿な!そもそもそれが出来ないから………!」
「君に、何か策があるのかね?
何とか事態を収束しようと躍起になる署長を押さえ、官房長官はその若い刑事を見やった。
睨め付けるでもなく、どこか、懐かしいものを見るように。
「無ければわざわざ口を挟みません。―――あるからこうして発言してるんですよ」
そして男も、微笑みさえ浮かべて自信満々に答えた。
「中署一刑事ではなく、特殊戦技兵監査官相村風人として、
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