第6話
老婆は相変わらず、全く動かない。
「このマフラーはあの人の物かもしれないし、そうじゃないかもしれない。なんとも言えないな」
老人は、寂しそうに言った。
「私はこれを、彼女に──私の奥さんにどうしても渡したいんだ。それが私の人生の、最後の使命だと、自分で勝手に思っている」
「じゃあ、僕は一体これをどうすれば」
「持って行ってほしいんだ」
男は一瞬意味を掴みかねた。
「もし君が無事にここから脱出できて、元の場所に戻れたら、私の奥さんを探して、これを渡して欲しい。もし、本当にあのおばあさんが私の妻で、もう死んでいたら、お墓を探して、供えてやってほしいんだ」
老人は、真っ直ぐすぎる目で男を見ながら言った。
男は、不安そうな顔で老人を見返した。本当にそんなことができるだろうか。名前しか情報がないのに、一体どうやって探す?
老人は、そんな男の懸念もお見通しのようだ。
「もちろん、不可能に近いことは分かっている。邪魔だったら捨ててくれてもいいし、自分で使ってくれてもいい。でも、できれば──できれば、彼女に届けて欲しいんだ」
老人は、眉尻を下げて懇願する。
「絶対に届けます」
男は、強い口調で返答した。彼を好きになっていた。多分彼がいなければ、自分は不安に押しつぶされていたに違いない。それに、彼の状況に少し同情する部分もあった。素直に、彼を喜ばせてあげたいと思ったのだ。
「君は優しいな。よろしく頼むよ」
老人は目に涙を浮かべて。優しく微笑んだ。
「さあ、もう行くんだ。急がないといけない」
「え? でもまだ僕全然動けますし、もうちょっとだけあなたと喋りたいですよ」
「駄目だ」
老人は突っぱねた。
「どうしてですか」
「景色を見てみろ」
男は窓の外を見る。そこには、先ほどの砂漠とは打って変わって、ただひたすらに水が広がっていた。
「海?」
男は驚いて、窓に両手をついて外を覗き込む。
「いや、川じゃないか」
老人は、顎に手を当てながら言った。
「川?」
「もっと言えば、三途の川かもしれない」
「はあ、これが……」
途方もない大きさに圧倒されて、恐怖を抱く暇が無かった。
「もしこれが本当の三途の川なら、渡りきってしまえばおそらくもう戻れないだろう」
老人は深刻な顔で言った。
「今しかない。さぁ、早く」
「分かりました」
男は強く頷くと、窓を思い切り開けた。意外にも、鍵は掛かっていなかった。
風が、勢いよく流れ込んでくる。男はマフラーを受け取って、窓の枠に足を掛けた。
「じゃあ、行きます」
「ああ。マフラー、落とさないでくれよ」
老人が冗談っぽく言う。
「落とさないですよ。絶対に届けますから、安心してください」
「ありがとう。君と話せて、いい冥土の土産になったよ」
老人は微笑んで、手を振った。
男も手を振り返して、身体を窓の外に放り投げた。
落ちる間際に見えた老人の顔は、とても穏やかで、いい笑顔だった。
男は水に落ちる。その冷たさに一瞬縮こまるが、身体が全部飲まれてしまうと、すぐに水の温もりを感じた。身体が浮くことはなく、なぜか息苦しさを感じることもない。男はそのまま、ゆっくり沈んで、沈んで、沈んでいった。
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