第5話

「でも、どこから出るっていうんです? そもそも、この列車は止まらないわけでしょう? 駅に着かないんだから、ドアも開かないし──」


 男は、自分でそう言って気付いた。


 ──ドアが無い。


 なぜ今まで気が付かなかったのか。自分の観察力の無さに、辟易する。


「じゃあ、あとは簡単だな」


 老人は、にやりと笑って言った。


「何がですか。諦めろってことですか? 自分から言っといて無責任なんじゃないんですか?」


「違うよ。窓だ」

「窓?」


 そう言われて、男はすぐ横にある窓に目を向けた。窓に映る自分の顔は、かわいそうになるくらい、疲れ切った表情をしていた。


──俺ってこんな顔だったっけ。


 しばらく自分の顔を眺めていると、老人が心配したように言った。


「おい、大丈夫か? ぼーっとして」

「ああ、大丈夫です。それで、窓から飛び降りろってことですか?」

「ああ。そうだ。ドアも何もないんじゃあ、窓からしか出られないからな。逆に言えば、窓が出口ですって言ってるようなものだ」

「ほんとに大丈夫ですかね……」


 男は疑心暗鬼になる。しかし、飛び降りることを渋っていても、結局は自分も人形になってしまうだけなのだ。


 男は、窓の外を今一度眺めた。相変わらず、幻想的な景色だ。


「綺麗だよな」


 老人が言った。


「砂と夜空しかないけど、ほんとに美しい眺めだ。質素ではあるが、いや、だからこそ、神秘的だ」


 男は、無言のまま老人の話に耳を傾ける。


「人間と同じかもしれないな」


 その台詞に何か感じるものがあって、男は老人の方を振り向いた。


「ごちゃごちゃしてる風景は、私はあまり好きじゃないんだ。この景色みたいに、簡素でシンプルな方が美しいと思う。多分、人間もそうだ。記憶とか、思い出とか、そういうものがない方が、純粋で美しいんじゃあないかな。歳を取ると、赤ん坊が、『かわいい』というよりも、『美しい』と感じるようになるんだ。多分、そういうことなんだと思うよ」


 それは違う、と男は思った。人間は、記憶があってこそ人間だ。思い出が、人間を作る。


 老人の台詞は、記憶を失ったまま死んでいく己に対しての慰めのようにしか聞こえなかった。男は自分の意見を老人に言ってやりたかったが、老人の状況を考えると、どうしても口が動かなかった。


 男は結局、そうですね、と小さく呟いた。


「一つだけ、頼み事をしてもいいかな」


 老人はそう言うと、座席の横に掛けていた鞄から、おもむろに赤いマフラーを取り出した。よく見ると、『幸子』と漢字で名前が刺繍されている。


「……幸子」


 男は、思わずその刺繍を見て呟いた。


「鞄の中に、これだけが入っていたんだ。多分、私の奥さんのものだと思う」

「それじゃあもしかして、あの人の──」


 二人は、前方の老婆の方を見た。

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