第4話

 男がしばらく黙り込んでいると、唐突に老人が口を開いた。


「虚しいよな」

「んえ?」


 あまりに突然だったので、変な感じで返事をしてしまった。


「彼女のこともそうだが、自分のことすら何も思い出せない。こんなに虚しいことがあるか?」


 男はとりあえず同意したが、ぼんやりとしか理解出来なかった。


「まあお前さんはまだ若いから、そんなに虚しいとは感じないかも知れない。でも、私の歳くらいになると、虚しいんだよ。といっても、何歳までかは思い出せないんだがね。自分の手を見てなんとなく分かる。私は死ぬ寸前の老人だよ。分かるかな? 『死ぬ寸前』だ」

 

 老人の顔に、悲哀の色が浮かぶ。


「今までいろんな人に会って、いろんなことをしてきて、いろんなことを積み重ねてきたと思うんだ。なのに、何も覚えていない。私の人生は、一体何だったんだろう。記憶に残らないくらい、薄いものだったんだろうか」


 唇が震えて、目に涙が溜まっていた。そのまま涙をこらえるかのように、老人は下唇を噛みしめた。


「なんにしろ、全部記憶を失うと、今まで生きてきた意味が全て捨てられてしまったような気分になるんだ。この列車で私はずっと一人だったから、余計にそんなことを考えてしまう。君はどうだ?」


「僕は──怖いです」


 とても正直な感想だった。


「そうか。そうだよな」


 老人は頷いて、言葉を続けた。


「一人でこの列車の正体を考えていて、一つ思ったことがある」

「なんですか?」


ためらいがちに、ぽつりと重大な事を言うように、老人が呟いた。


「この列車は、幽霊列車なんじゃないかな」

「幽霊列車?」


 この老人は、何を言っているのか。やはりぼけているんじゃないか?


「変なことを言っているのは分かるが、まあ老人の戯言だと思って聞いて欲しい」

「はあ、分かりました」


 黙って時間が過ぎていくよりはいいだろうと、男は頷いた。


「ありがとう。君は優しいな」


 老人は微笑んで続ける。


「まず幽霊列車というのは、君も知っているだろうが、あの世へ連れて行ってくれる列車のことだ。『連れて行ってくれる』のか、『連れて行かれる』のかは分からんがな」

「幽霊列車……ゲゲゲの鬼太郎とかで出てくるやつですよね?」

「そうそう。それで、私たちは今、生死の狭間にいるんじゃないだろうか」


 自分たちが死にかけている? 男は突拍子もない老人の考えにたじろぐ。


「と、言うと?」

「例えば、君は今、全身動けるだろう?」

「ええ、そうですね」


 この人は何が言いたいのだろうか。


「対してあのおばあさんはもう全く動けない訳だ」


 なるほど。なんとなく分かった。


「つまり、彼女はもう死んでいて、私は危険な状態にいるけどまだ一応生きているってことですね?」


 男は声のボリュームを一段階大きくして言った。


「そう。そういうことだ。だから私は今、半分死んでいるってことだ」


 老人は、冗談のように言った。


「それって、冗談になってないですよ」


 老人はふふ、と笑って、さらに続ける。


「私はもう下半身が全く動かない。もう死を待つのみなんだと思う。でも、君は違う。まだ動けるんだ」


 老人は語調を強めて、男の方を真っ直ぐに見ている。


「まだ……動ける」

 

 老人は、男の方を掴み、目を見開いて言った。


「そうだ! 君はまだ間に合う。この列車から脱出するんだ!」

 

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