第2話

 自分のことが何も分からない。奇妙な感覚だ。しかも、隣の老人も記憶喪失だときている。やはりここは、相当現実離れしているらしい。


 ここは一体どこなのか。この列車はどこに向かっているのか。そもそも自分はなぜ、この列車に乗っているのか。そして、自分と老人はなぜ記憶喪失なのか──男はまとまりがつかないまま、隣の老人に向かって、矢継ぎ早に質問をぶつけた。


「その質問全部に一言で答えるとすれば──」

「──すれば?」


 老人は少し間を置いて、男の目をみて言い放った。


「──分からん」

「なんじゃそりゃ」


 二人の間で、細波のような笑いが起こった。堅物そうな見た目とは裏腹に、意外と明るい人柄なのかもしれない。男は少し、老人にいい印象を持った。


「はは、冗談だよ。私はこの列車に乗って長いから、周りを観察していれば少しくらい分かることはある」

「長いって──おじいさんは、一体どこから乗ってるんです?」

「どこからとかは分からん。覚えてないからな。でも、私がここで目を覚ましてから、多分一ヶ月ぐらいは経っているような気がする。まぁ確認できる時計もないから、正確なところは分からないがな」

「嘘でしょ」

「いや、これは本当だ」


 頭が痛くなった。しかし驚く前に、もう一つ確認することがある。


「この列車は、その間に止まりましたか? 例えば──駅とかに」

「いや、ずっと走ったままだ」


 老人が食い気味に答えた。頭の痛みが増した。これが本当なら、自分は大変な状況にいるのかもしれない。こういう時は親とか子どもの顔を思い浮かべて助けを懇願するのだろうが、その思い出す顔が思い出せない。男は先が見通せない不安から、大きな溜め息を吐いた。


「まあまあ、今のところ死ぬようなことはないから、とりあえずは大丈夫だ」


 老人は笑顔で言った。なかなか楽観的な発言だ。そんな感じで大丈夫だろうかと思ったが、この老人のおかげで少し気が楽になった。


「あなたが横で良かったです。気が紛れます」

「それは良かった。実は私もずっと一人で座ってたから、話せる人ができて嬉しいよ」

「そうだったんですね」


 そこまで話をして、男は少し疑問に思った。


 自分がこの列車に乗り込んだ瞬間──というか、存在し始めた瞬間、この老人からは自分がどう見えたのだろう? 急に現れたのか、それとも、ちゃんと自分は真ん中の通路を通って、おじいさんの前を横切り、この窓側の席に座ったのだろうか。


 そんな疑問がなぜか老人には伝わったようで、こちらから質問をせずとも答えてくれた。


「私がまばたきした隙に、急に君が横に現れたもんだから、驚いて心臓が飛び出るかと思ったよ」

「まじか……」


 一番可能性が低いと思っていた回答が返ってきた。何もないところから急に現れる。そんな馬鹿なことがあるのか? どうやら、ここでは『常識』が通じないらしい。『常識』というのは、所詮人間が作ったものに過ぎないと痛感する。


 男はさらに質問を重ねた。


「さっき言ってた、『少し分かったこと』って?」

「ああ、それはな──あそこの席を見てみろ」


 老人は、通路を挟んで二つ前の座席を指さして言った。男も言われるままに目線を向けると、そこには白い花柄のブラウスに、ピンクのベストを着た小綺麗なおばあさんが座っていた。


「ちょっとおかしいと思わんか?」

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