白と黒

鼻唄工房

第1話

 ふっと沈んで、目が覚めた。


 パーンと軽快な音で汽笛が鳴っている。男は大きく欠伸をして、身体を伸ばした。血液が全身に巡り、なんとなく視界がクリアになる。まるで列車が男を歓迎するかのように、汽笛の残響が、心地よく男の耳をくすぐった。


 ふと横を向いて、窓の外を眺める。月の光を纏って、砂が白い。地平線の向こうまで広がるそれを見ると、どこか自分がちっぽけに思えてしまう。夜空と砂。黒と白。モノクロームなその景色は、現実離れしていた。砂以外なにもない。が、そのシンプルさ故に、洗練された印象を抱く。


 そのまま景色を楽しんでいると、やがて列車の前方から、うっすらと煙が流れてきた。どうやら今の時代には珍しく、蒸気機関車のようだ。


 男は、この景色の中を蒸気機関車が走る姿を想像してみた。絵画みたいだ。透き通った夜空の下、砂漠を蒸気機関車が駆け抜ける。自分がその絵の中にいると思うと、少し良い気分になった。


「おい、君」

 

 突然、隣からしわがれた声が飛んできた。男は驚いて、はじかれたように振り向く。そこには、全く見覚えのない老人が座っていた。黒と白のチェック柄のセーターに、茶色のコートを羽織り、黒いハンチング帽を被っている。その黒い帽子は見事な白髪と相まって、丁度窓から見える景色と同じような感じだった。


「君、名前は?」

「あぁ、私は、えーっと……あれ?」


 名前が、思い出せなかった。


 当惑した。名前は、自分の根幹を担う重要な要素に違いない。そんなものも思い出せないなんて。さすがに名前を忘れるのは寝ぼけているせいにできない。男はこれまでの人生で経験したことのない現象に、あからさまに狼狽えた。

記憶喪失。そんな言葉が脳裏をかすめる。男は頭を抱えて、必死に記憶をほじくり返した──が、一文字目すらも思い出すことはできなかった。


「まぁ、分からんよな。意地悪な質問をしてすまんかった」


 男は皮肉を言われたのかと思って、老人を怪訝な目で睨んだ。


「そんなに怒らないでくれ。決して馬鹿にしたわけじゃないから」


 老人はそう言うと、少しだけ眉を上げた。


「それにお前さんだけが名前を忘れた訳じゃない。かく言う私もだ」

「え? そうなんですか」

「ああ。一応言っておくが、私がぼけてる訳じゃないぞ。ちゃんと思考ははっきりしとるからな」

「はぁ」


 老人は、男の様子を気にもとめず、顔を近づけてきて言った。


「君は他のことも全然思い出せないか?」


 男は頭をひねる。他のこと……。


 自分の名前、年齢、職業、家族、故郷──色々と頭の中に浮かべてはみたものの、何一つとして思い出せるものはない。記憶がないと、自分が自分ではないみたいだ。


「何も……思い出せないですね」

「やっぱりそうか……」

 

 老人は落胆したように上を見た。


「ということは、おじいさんも?」

「ああ、同じくだ」


 老人は自嘲気味に言った。

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