中編

 空調の効き過ぎた室内で、カタカタとプラスチックを弾く音が二つ協奏する。


 エアコンの室内温度設定は17度。風量調整は微風だが、長時間この部屋にいると間違いなく冷房病になるだろう。だがここを生活の中心に据えている人間にとってはどうでもいい話で、そもそもここまで気温設定を低くしてあるのは無駄に熱量を吐き出すパソコン対策のためだ。


 部屋最奥の執務机。ガリガリと苦しげな音を立て続けるHDDに嫌気を感じ、部屋の主である男は吐息とともに本革の椅子に身を沈めた。およそダメな研究者と言う人物像をこれでもかと正確に体現した男だった。ボサボサの髪、伸ばし放題にしている無精髭、手垢まみれの分厚い眼鏡に極めつけは何年日にあたっていないのか分からないほどの白い肌だ。服装こそスラックスにカッター、その上から白衣とまともだが、一週間は洗っていないのだろう。首の部分が黄ばんでいる。


 年の頃なら三十路過ぎぐらいだろう。首から下げた身分証には、国立霊素粒子研究第二研究所副所長阿南一真あなんかずまと書かれていた。彼は白衣のポケットからタバコを取り出し、机の上に投げ出してあったライターで先端を炙って煙を深く吸い込む。


「さて、と………伊藤いとう君、今何時?」


 問いかけた先、部屋の隅で女性が同じようにノートPCのキーボードを叩いていた。こちらは研究者のテンプレートに適応していない。ただ、アップにした髪とタイトスカートからして研究者と言うよりはやり手のキャリアウーマンに近かった。伊藤、と呼ばれた妙齢の女性は右手首の時計に視線を落とした。


「17時前―――正確には16時47分ですね」


「じゃぁ、そろそろかな」


 紫煙を燻らせ、阿南は口角を釣り上げる。その笑みに意味を求め、首をかしげる伊藤に彼は肩をすくめた。


「『イデア計画』。まだまだ未完成なエイドスシステムを根幹に置いた、アルベルトの大馬鹿野郎が生涯を掛けた実験が、さ」


 あぁ、と伊藤は得心する。


 自分と彼が帰属する研究所には二つの派閥があり、トップ同士付近が反目している。そして今日は、その内の一人が心血を注いで研究した成果が試される日なのだ。


「部長、やはり気になりますか?」


 ライバルからその場に呼ばれながらも固辞し、自室で傍観を決め込む部長と呼ばれた男はくっくと喉を鳴らす。


「そりゃそうさ。僕は相蘇女史側の人間だし、エイドスの基礎設計には少なからず関わっているからね。派閥争いに負けた今でもその選択をミスったつもりはないよ」


 二人が所属する研究所は国営だが―――いや、故にこそと言うべきか―――大きく分けて二つの派閥があった。今は亡き初代所長である相蘇義勝の後を継いだ実娘相蘇佐奈のハト派と、外来産研究員であるところのアルベルト・A・ノインリヒカイトが率いるタカ派。実験とは開拓である、と至言を残す程に外来産らしくフロンティアスピリッツ溢れるアルベルトに、島国農耕民族代表である保守派はほとほと手を焼いた。バイタリティがあるのは認めるが、それで全てが上手くいくならば初代所長、相蘇義勝は実験事故で死なずに今も生きて元気に所長をやっていたことだろう。自分達は、少なからずそうした危険があるものを題材に研究しているのだから。


 だがそうした向こう見ずなバイタリティは時折奇跡を起こす。例えば―――日和見主義である二代目所長が永世中立を宣言していたのにも関わらずタカ派の強行実験に賛同を始めたりとかだ。おそらくは、彼は小物故に最後の方まで反対していただろう。十年前の実験事故は今でも禍根を残している。そこから何も教訓を得なかったわけでもないだろうし、それでも賛同したということは上から圧力が掛かったか、金を積まれたか―――真偽は邪推に過ぎないが、結果から言えばデメリットをメリットが上回ったのだろう。でなければあの日和見主義がああも積極的になるはずがない、と阿南は考える。


 結果として、相蘇佐奈の一派は本殿である第一研究所を追い出され、しかし貴重な霊素粒子研究の第一人者を在野に放つことを好としなかった国家によって第二研究所の所長へと立場を固められた。まるでお座敷犬と庭飼い鎖付きの図式である。


 無論、相蘇佐奈に付き従っていた阿南や部下も同じだ。


 いずれにしても、馬鹿な話だ、と部長は嘲笑する。それ見て、伊藤は首を傾げた。


「では、上手くいかないと?」

「どうだろうね。確率は半々だ。ただ、僕や相蘇女史が反対したのはリスクがデカすぎるからさ。言わせてもらえば、50%が失敗だなんて分が悪すぎる。その上で実行するだなんて―――正気の沙汰じゃないね」


 とかく僕は今の環境を失いたくないのさ、と阿南は嘯いた。その上で、言葉を並べていく。


「いいかい?この日本って国は環境さえ整えてしまえば研究者にとっては天国さ。尤も、整えられなければこれ以上にない地獄だがね。ともあれ、国か企業か―――あるいはそのどちらもを味方につければ金は唸るほどあり、これが本当に施設内の食堂なのか疑いたくなるほど飯は美味く、道を歩いても銃片手にタカリに来るノータリンがいない程度には治安もいい。加えてピリピリした宗教観が無く、結果として信仰と妄執を履き違えたテロがないのが良い証拠だね。そして何より馬鹿と偏見で凝り固まった低能が多く、我々の研究を理解しているのは極々一部で、理解がなくても利益が出るならそれでいいという利己的な連中が大半だ」


 五十年程前にこの国は大戦に負けた。それの良し悪しはともかくとして、この日本という不思議な国は何ともまぁ堕落した。即物的な面では確かに成長はしただろう。今日日、この国は島国でありながら全世界でトップクラスの経済力を持っていることを自負しているし、あるいは他国も認めている。


 身体は満たされた。では心はどうか。決まっている―――腐敗したのだ。手足をもがれ、しかし生きていくには最低限の保証を『手厚く』されたが故に、後は何処までも腐り落ちる。


 日本という国は農耕民族であるが故に、英雄思想をあまり持たない。自我がないわけではないが、集団を重きに置くので他の誰かがやるならばそれでいいのだ。互いの役割を弁え過ぎている、と言うべきか。ともかく、必要以上に役割分担をしてしまったが故に、そして互いに過干渉を避けたがゆえに、外交や戦争ですら『自分達の役割ではない』と大体の国民が決めてしまった。


 危機感に対して相対的に鈍化した結果が―――よく言われる、平和ボケと言う奴だ。だからこそ、この国は開墾好きな研究者にとっては色々やり易いのだ。


「だから霊素粒子研究って意味不明の分野でも研究は捗るのさ。あぁ、認めよう。確かにアルベルトはこの分野にかけては天才的だろう。奴がいなければ相蘇博士が遺した理論は完成に至れなかった。だが―――生まれ育った国柄、と言うべきかね。奴はご都合主義と楽観主義が好きすぎる」


 奴には想像力が足りない、と彼は吐き捨てた。


 失敗は成功の母と言う言葉があるが、阿南はこの言葉を何よりも嫌っていた。その言葉を吐けるのは、やり直しが効くことを前提としているのだ。コンマ一ミリの誤差も許されず、背後には破滅。その絶望的な状況に立ったことがない人間は―――いや、安易に奇跡やご都合主義に頼ることに慣れた人間は本人が思っている以上に失敗に対する想像力、言うならば慎重さを欠いている。


 それを知るからこそ、阿南は未来予知にも似た高精度の予測をする。


「では、部長は実験は失敗すると?」

「多分ね。僕は今、確率は半々と言ったが、個人的な見解を混ぜればまず100%失敗する。何故かって?理由は簡単さ。―――あの大馬鹿野郎は焦りすぎた。研究者にあるまじき姿勢さ」


 紫煙を深く吸い込むと、タバコの半分が灰になる。纏わり付く煙の刺激に反応して、瞳が潤う。吐き出す愚痴にも似た言葉も徐々に饒舌に、熱を帯びていく。


「そして僕は奴のケツ拭きの為この数年間、体勢を整える事に終始した。君はどう思っているかは知らないが、僕は何も相蘇女史に心酔しているわけじゃないんだよ。確かに彼女の派閥のナンバー2で、彼女の指示通り適合者を集め、あるいは作り、特殊機動隊を組織し、奴等に対して有効打になりうる兵装を作った。だが、これはあくまで僕自身の保険のために、だ。―――今思えば、その保険のために色々苦労したっけか」


 苦笑交じりの言葉尻に、伊藤は幾つかの偏屈共と苦労を思い出す。


田村寅次郎たむらとらじろう氏の交渉には骨を折りましたね」

「まぁ、あの頑固親父はああ見えて結構ミーハーだから、新しいものにはまず触れてみたいって衝動に負けたんだろうけどね、時間は大分掛かったけれど。―――でも一番骨を折ったのは何と言っても資金集めだよねぇ」

「予算の殆どを一研に持ってかれましたからね。我等二研は綾瀬重工にスポンサーを買って出て貰えなかったら、給料さえ出てなかったでしょうし」


 数年前に派閥争いに終止符が打たれてからは、第一研究所と予算のほとんどがアルベルトの手に落ちた。とは言え、研究所として施設も作った以上第二研究所もある程度の予算を確保できたのだが―――前例に無い研究分野の為、掛かる予算は途方も無い。結果として、国が確保できる予算の八割から九割を第一研究所に持っていかれた。


 所長である相蘇が国に民間協力を認めさせなければ、そして阿南が外交役として民間に交渉できなければ、ここは今もただ存在しているの場所となっていただろう。


「霊素粒子、ですか………」


 ぽつり、と伊藤が言葉を零す。


「こういうのは何ですが、私には正直、太陽光の方がまだ現実味はあると思うのですけれど」

「僕もだよ。ただ、出力とコストパフォーマンスや諸々、あらゆる面で太陽光を凌駕している。―――引っかかるのはまだまだ未発達な分野であることと、デメリットもあるということか」


 自然環境を利用したエネルギーと言うのは確かにクリーンではあるのだが、どのエネルギーもそうであるようにデメリットがついて回る。ざっと上げるだけでも太陽光、水力、地熱、潮力、海流、波力、風力などなどがある。これらエネルギーは確かに原子力や火力よりかは環境に優しくはあるが、凄まじい程に非効率かつ高コストだ。


 例を挙げるならドイツか。彼の国は20年間で7兆円もの負担を国民に強いて太陽光発電を普及させた結果、全供給電力の約2%を賄うことを可能とした。僅か2%である。その上、蓄電も出来ずまともに働くのは日中のみと来た。無論、彼等はそれだけではなく風力発電や他の分野にも手を伸ばしているが、それらを含めた所でどう考えてみても割に合わないのだ。その上、自然エネルギーは設置条件にも厳密なルールと、設置後の環境変化も考えなければならないことを考慮すれば如何に難しい分野なのかが推し量れるだろう。


 だが、だからといって何時までも安易に主電力発電である原子力や火力に頼っている訳にもいかない。13年程前にチェルノブイリで起きた史上最悪の事故によって、ただでさえ反原発信奉者は声高になってきている。これからも同じエネルギーを使用し続けることは難しいだろう。だからこそ、知らぬ人間から見ればオカルティックなこの分野でも多少なりに予算が回ってくるのだ。


「まぁ、デメリットを加味しても必要な研究ではあるよ。化石燃料は何時まで保つかわからないし、昨今じゃ地球温暖化だのなんだのと世論も騒がしい。原発一つ立てるのだって一々周辺住民に気を使わなきゃならないし、核廃棄物の処理でさえ困ってるんだ。だから低コスト高パワーの新機軸のエネルギーと言うのは何時の時代、何処の国でも渇望されるものさ」


 もっと安全で、もっとクリーンで、且つ現行の発電力に最低でも比肩し得るものでなければならない。阿南達はそれを研究し続け―――最近になってようやく、取っ掛かりを掴みつつあったのだ。基礎理論と小さな実験を重ね、未だ試験段階ではあるものの光明は見え始めていた。後必要なのは、耕した道を踏み固めていくだけの時間。


 しかし、世の中は待ってくれなかった。故にこそ彼は悪辣に吐き捨てる。


「だから問題なのは安全面。でも時間を掛ければ充分に取り計らえる問題を、上にせっつかれて早漏野郎が愛撫も無しに勝手に腰を振り始めた。待っているのは………君も大人なら分かるだろう?そう―――暴発さ」


 あぁ想像力が無い馬鹿が多いせいで世界が敵色だ、と厭世的な笑みを浮かべる阿南セクハラ上司に伊藤は疑問を差し挟む。


「こちらに六部隊も残したのは、それが理由ですか?」

「そうだね。ここの守りは問題無いだろうが、万が一と言う可能性があるし僕らも公務員である以上は出来うる限り近隣住民ぐらいは守らないとね。それから、ここが一番大きいんだけど―――相蘇女史が作った資料に基づいた個人的な想像、かな」


 予感がある。それは世界を巻き込み、変容させる大事件だ。


 今はまだ勘でしか無いそれを、阿南は心の底から信じていたし伊藤もそうなるのではないか、という不安を覚える。この男はあらゆる面でだらしなさの極みにいるが、それと引き換えに―――いや、それらさえを未来を想像することに特化している。


 それは通常、予測や経験則といった現状ある情報を複雑且つ高度に精査して組み合わせ推理するものだが、この男の場合、冗談ではなくその想像力が、直感が、未来予知に近いほどの高精度を誇る。以前、研究者を辞めて探偵にでもなったらどうですか、と苦笑交じりに言ってみたことがあるが、その時阿南は『僕は自分の想像を超える現象に出会いたいだけで、猫探しや不倫相談みたいな想像すれば誰でも届く仕事なんかしたかないね』と一蹴した。


 だからこそ、伊藤は重ねて問いかける。


「それは―――」


 しかし言葉の前に、執務机の電話が鳴り響いた。


「僕だ」


 阿南は伊藤の言葉を片手で遮って、受話器を取り電話の向こうの相手と二、三言葉を交わす。


「そう、か。ではまずは第七機動隊のB分隊の何人かを適当に見繕ってそこに派遣してくれ。残りは研究所の警護。ああ、大至急だ。ICEの起動も許可する」


 そして受話器を置いた直後だった。


 何処かで、小さな音がし始めた。音源は何処からかは分からない。まるで直接鼓膜を振動しているかのようだ。言うならば耳鳴りのようなそれを、伊藤はどこかで聞いたことがあった。あれは確か、年に一回はやる健康診断でだ。聴力検査の時に、耳に流れる音のように最初は小さく、徐々に大きく。


 違いがあるとすれば―――音の大きさに、際限が無いことか。


「所長、これは―――!?」


 耳を塞いでも鼓膜を震わせる音は、既に航空機のジョットエンジン並の大きさへとなっていた。聞こえると言うよりは、最早鼓膜への直接的な暴力に近かった。自分の声さえ聞こえなくなる中で、しかし伊藤は阿南の嬉しそうな声を確かに聞いた。


「―――来るぞ、伊藤君。僕の想像し得た未来の中での最悪が。ははっ!ざまぁみろ、だ!奴は賭けに!!」


 正確には声は聞こえない。ただ、唇の動きと彼の表情がそう告げていた。


「アルベルト、お前の失敗さえも僕にとっては想像できる範疇だ、大馬鹿者め。そうとも―――世の中、そんな甘かないのさ」


 そして、世界が変容する。

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