前編
小笠郡と言う地域がある。
三大政令都市に指定された一県の隣県下にある東西に山間、南部数キロに太平洋を臨める郡で、近くには東名高速道路が走っており他県に渡るにも足さえあればそう苦労はしない。都会に溢れている違法駐車など何処吹く風で断然走り易い土地を南に向かって制限速度ギリギリで走る車が一台あった。
ガンメタリックのスポーツカーだ。
「車を買ったとは聞いたけど………随分気合の入ったの買ったんだね。ドリフト族っての?」
2ドアクーペではあるものの、後部シートが存在しているためそこに窮屈そうに収まった少年―――長嶋は硬いサスに揺られて言葉を選びながらそう言った。
「いや、まだ練習中。四輪ドリフトは難しいし。まぁ先輩が弄ってた32をそのまま譲って貰っただけだからな。先輩は若さに任せて34をフルローンで買ってたし。本当は俺にも乗りたい車は他にあるんだがね―――どうにも、手が出せん」
落ち着いた声音で答えたのは運転席でステアを握る少年だ。
茶色がかった髪が軽く見られがちだがそれは地毛で、少し眠たげな瞳が印象的な―――言葉を極端に選ばなければ美少年である。よく幼馴染三人で街に出た時真っ先にお姉さんに逆ナンされていたのを長嶋は忘れていない。恨んでいるとも言える。こっちにも少しは回せと何度全裸土下座で申し出たことか。
少年の名は
俳優志望の長嶋と同じ社会人で、今はとある劇団に所属しつつ引越し屋のアルバイトで生計を立てているらしい。
「儂はあの迫っ苦しいスポーツカーよりかはこっちの方がいいがなぁ。五月蝿さはどっこいどっこいだが、2シートという選択はありえんぞ。いくらなんでも狭すぎる」
直管とは言わないものの、車内にいても僅かに腹に響く排気音に対して文句を言ったのは助手席のシートに身を預ける少年だ。何も手を入れていない癖に、妙に艶のある黒髪と白い肌に細身と中性的な顔立ちが相まって時折性別を間違われ、青筋を立てている。
名は
秋山と同じく長嶋の幼馴染で養護施設にいた頃は同じ年ということも相まって常につるんでいた。
「馬鹿言うな。2ドアクーペ、そしてロータリーは男の浪漫だ。それに一応、リアシートもあるぞ。乗れるのは小人だろうが」
飛崎の苦情に対して秋山はさもありなんと言い捨て、長嶋はロータリーという言葉が記憶に引っかかったため拾う。
「あー、何だっけ、アフリカ何とかの後継機………?」
「武雄、お前はどういう覚え方をしているんだ。FDだFD。RX-7FD3S。お前が言ったのはサバンナRX-7FC3S。アフリカじゃない。いいか?RX-7ってのはだな―――」
「あぁ、そうそれだ。そのFDってのにしなかったの?」
長くなりそうだったのでざっくり話を切って先を促したがこれを言った後に失敗だったと思うことになる。
「だから車体価格自体がまず高いんだ。アンフィニの初期型でもいいかなとか考えてたら今年の始めに5型が出てな。スペックと言いルックスと言い、全てが過去最高に洗練されている。無論、馬力だけで言ったらこのGT-Rの方が上だ。最大こそは280馬力でボアアップしなければ直線では勝てそうにないが、そもそもスポーツドライブと言うのは馬力が全てじゃない。いいか?いくら馬力が素晴らしくても、だ………」
「あぁ、はいはい君の車好きは嫌って程知ってるけどさ、いくら車体価格が高くてもローンでも組めばいいんじゃない?確か、未成年でも200万ぐらいまでなら大丈夫って言ってなかったっけ?」
つらつらと更なるウンチクと持論が展開しそうだったので続けて話題を先へと促した。
「先生の同意がいるがな。尤も、程度のいいのを探すと200万で収まらないし、何よりも保険代が問題だ」
「保険って、任意保険?」
「この車でさえフルで入ったら年間二十数万だと。馬鹿だな」
割って入った飛崎の呆れに、げ、と長嶋は嫌な顔をした。下手すると新卒三年目の自分の月収より高いんではなかろうかと思う。
「仕方ないだろう。今年免許とったばかりだし、法律上はまだ若葉マークいるんだよ―――ダサいから外してるが。因みに見積りを出してもらったらFDの場合、対人対物全て無制限にしたら年間五十万超えたぞ」
「とても月収二十万行かない人間が買える車じゃないね………」
「まぁ、普段仕事と劇団を行ったり来たりしててろくすっぽアパートにも帰らないから、金だけは無駄に溜まっていくんだけどな。飯は適当に済ませばいいし………」
よく生活できるねと思ったが、そう言えばこの男は関心のないことにはとことん無頓着だった、と長嶋は思い出す。何しろ秋山自身が俳優を目指しているだけあって、ルックスには定評がある。当然、学生時代は女子に人気が高く、そのあまりのモテっぷりに長嶋が口にしたハンカチを何度噛み破いたか覚えていないほどだ。しかし彼はよりどりみどりの状況で、彼女の一人も作らなかった。よもやそっちのケがあるのかと飛崎と共に尻をガードしていたものだが、何のことはない。その時所属していた演劇部が楽しくて仕方がなく、異性に必要以上の興味を覚えなかったのだ。
「去年までは単車だったよね」
「寧ろコスパは
「何か儂を出汁にされた気がするが。まぁ、それについては感謝してるさ。いくら都心と言っても、夜中の二時三時に電車が動いているわけじゃねぇからよ」
飛崎の含みのある言葉尻に長嶋は眉を跳ね上げて反応する。秋山のモテっぷりのついでに思い出した。このもう一人の親友は都会へ出て真っ先に彼女を作ってさっさと初体験を済ませた
「で、こっそり寮を抜けだして彼女の部屋でラブラブランデブーな訳だ」
「なぁタケ、お前さん言い回しが昭和のオヤジ臭いぞ………?今は平成なんだが?」
「生き方から喋り方から趣味までジジ臭い君に言われたかないよ。で?どうなのさ、噂の女教師とは」
そう、何と言っても許せないのは飛崎のお相手は彼が通う学校の新米教師なのだ。人が汗水垂らして働いている間にこの男は青春バンザイで年上お姉さまときゃっきゃうふふとは何とも度し難い。リアル女教師プレイとか何事だ爆ぜろ、とシート越しに長嶋が恨み節で睨むと飛崎は顔を逸らして。
「別に、どうもない。フツーだフツー」
この話題を逸らそうとするが、そうは秋山が許さなかった。
「聞けよ武雄、レンのやつな?今日のことで………」
「ば、馬鹿野郎コウ!それは言わねぇと約束したろう!?」
「ふふふふふレン君?僕達三人での秘密はナッシングだよ?さぁ―――吐くんだ!」
「だからお前さんは言い回しが一々昭和臭いと………!えぇい首に腕を回すな!!ちょーく!ちょーく!」
シートの裏側から腕を回し飛崎にチョークスリーパーを掛ける長嶋を尻目に、秋山は四速から三速へとシフトダウンしてエンジンブレーキを掛けフットブレーキで調整し、車体を減速させつつ赤信号に備えてから言った。
「今日のことで、喧嘩したんだと」
「コ、コウ!この裏切り者―――!!」
「一人でこっそり彼女作って早々に童貞捨てたお前に言われたくないな」
そのルックスを以てすれば彼女の一人ぐらい作ろうと思えばすぐに作れるはずの男が楽しそうに言って敵に回った。それに対し、既に臨戦態勢にあった長嶋はにんまりと笑みを浮かべて追求する。無論、この間にも首に回した腕に飛崎側からタップされているが当然無視。
「で?で?で?何で喧嘩したの?」
「タケ、お前さん嬉しそうだな………!?」
「よく言うじゃない。人の不幸は蜜の味って。―――童貞の嫉妬を舐めない方がいいよ?やーい、ざまーみろっ!」
締めあげながらケタケタはしゃぐ長嶋に、儂は時々お前さん等の友情を疑う時があるぞ、と飛崎は苦い顔をしながら諦めるように深く吐息した。
「今日、実はデートの約束していてな?」
「あぁ、うん、話は見えた。つまり、ブッキング。私と友達どっちが大事なのって修羅場った訳だ。で、君は喧嘩別れのままでこっちに途中まで来てて、車内でコウ君に相談している内に不安になってサービスエリアかどっかから彼女に電話して、埋め合わせをするとか言って溜飲を下げさせた訳だ」
たった一言で全ての状況を見抜いてみせた長嶋に、飛崎は閉口した。
「………。時々、お前さんの洞察力は侮れんなぁ………」
「ふふふ、妄想という場数だけは踏んでるからね?」
「つまりシミュレーション上の童貞の戦闘力は無限大だ。実戦はまた別だが」
うるさい君だってそうじゃないか!と長嶋が声を上げ抗議を開始し、ようやく拘束から解かれた飛崎は大きく吐息する。相変わらず異性のことになると醜い争いをする、と胸中で苦笑してから襟を正した。
「まぁ、ともあれ、そんな感じだ。帰ったらいろいろしなきゃならんが、順調といえば順調だわな」
「ふーん、つまんないの」
「つまらんとか、お前さんなぁ………!」
「ピアノの方はどうなのさ」
こっちはこっちで色々大変なんだぞ、と後部座席を睨む飛崎に対して長嶋は急に話題を変えた。
「まぁ、前に話したとおりだ」
「じゃぁ、留学の話は本決まり?」
「うむり」
数カ月前にした電話のやり取りで、卒業後イギリスに留学するかもしれないと話に出ていたがどうやら順調に進んでいるらしい。長嶋はそれに満足そうに頷くとそっちはどうなのさ、と運転中の秋山へと会話を振る。
「俺の方は―――聞いて驚け、舞台に上げてもらうことになった」
一瞬、空白が生まれる。その後、真っ先に我に返ったのは飛崎だった。
「いやちょっと待てコウ、儂、今初めて聞いたぞ!?」
「そりゃ今言ったからそうだろう」
わざと黙ってたんだし、と秋山は笑って。
「三人揃ったら言おうと思ってな。まぁ、端役も端役だが」
「でも凄いじゃないか!コウ君の入ってる劇団って結構大きい所でライバルいっぱいで舞台に上がるのも何年掛かるかわからないって言ってたじゃない!?」
「まぁな。本当は出演決まってた人がいたんだが………別の仕事中に怪我したらしくてな、急遽代役で俺にお鉢が回ってきたんだ」
俺は丁度団長達が額を集めてる所に居合わせただけで運が良かっただけなんだ、と複雑な表情を浮かべるが長嶋は運も実力の内だよ、と言葉を投げて後部座席に身を預けた。
「そっかー………やっぱ二人共、頑張ってるんだよなぁ………」
元々、二人には才能があった。確かにそれを見つけるまでの過程は決して幸福に包まれたものとは言えないが、若くして自らの才覚を自覚し、努力を惜しまなかったが故に開花は人一倍早かったのだ。そこに運が巡れば、いつまでも万年若手でいるはずがない。
風が吹き始めている。勿論逆風ではなく、追い風だ。
それを本人達ではなく他人である長嶋が感じているのは不思議だが、得てしてそうした流れを知るのは第三者なのかもしれない。だからそれを理解した時、長嶋はいつも感じるのだ。まるで迷宮の中で一人置き去りにされたかのような―――妙な寂寥感を。
子供じゃあるまいし、と嘲笑うには二人との距離が近すぎた。なまじ兄弟のように育ってきたためどうしても気持ちが急く。これが例えば一人だけなら―――残されるのが長嶋と、二人の内の誰かだったとしたならば、素直に応援できたかもしれない。だが才能を開花させたのは二人。残されるのは長嶋一人。同性、同い年、同じ釜の飯を食ったからこそ覚える嫉妬心と焦燥感。
いや、長嶋にも才能はある。だが、時代に合っていないのだ。二人に比肩しうるような功名心を満たすならば、彼の拳は意味を見出だせない。無駄だと知りつつも鍛えたこの拳や身体は、スポーツをやるためにあるのではない。無論、近代格闘技そのものを見下すつもりはないが、同じ土俵で競う技術ではないのだ。彼が習熟した技術の基本骨子はあくまで合戦を生き残るためのもの。突き詰めれば殺しの技術だ。
一拳一殺、一刀一殺、一槍一殺、一弓一殺、一閃一殺―――是即ち、一挙一殺。
そこに不意打ち禁止や急所攻撃禁止などの不文律等ありはしない。合戦に於いては一期一会。確実に殺せる一挙動にて一殺を得て次へ。一対多を主軸に置き、使えるものは何でも使う。だからこそ、彼の技術のルールは現代格闘技のルールと常に競合するのだ。
彼等には夢がある。
では、自分にはどうだろうか。
「タケ………?」
いっそプロレスのヒールにでもなるか、と内心で自らを卑下する長嶋に、訝しげな飛崎の声が掛かった。どうやら急に静かになったので不思議に思ったらしい。またうじうじと悩み込んでしまった。こんなことではいけないな、と長嶋は苦笑すると話を変えるために窓の外へと視線を向ける。
「あ、もう着くね」
見慣れた景色が目に映る。少し閑散とした住宅地。もう少しで世話になった養護施設が見えてくる。
「そうだな―――顔見せる前に寄ってみるか?」
「寄るって、何処にだよ?」
唐突に秋山が提案し飛崎が首をかしげるが、長嶋は直ぐにピンと来た。
「決まってるじゃない。―――僕らの秘密基地だよ」
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