外伝その1 ルナティック・ドーン
序幕
もしも運命と呼べる選択が目の前に現れた時、何を望み、何を手放すのか。
きっと想像力の足りない私はそのどちらも選べなくて、だから得るものは喪失だけだろう。
霊素粒子研究者 アルベルト・A・ノインリヒカイト
今は亡き生家が古式武術の道場ということで、幼い頃からある程度の武という技術を教えこまれていたためだ。しかしながら、この近代社会。もっと言えば平和ボケした20世紀末の日本に於いて、それは無用の長物であった。これが空手や柔道、ボクシングやレスリングと言った世界的にメジャーなジャンルなら、あるいは剣道等と言ったスポーツ性のあるものであったのならばまだ有用性があったのかもしれない。
だが、彼の家に代々伝わったのは戦国時代を起源とした戦場で生き残るための総合武術。一般的な立ち技から始まり、寝技、投げ技、果ては剣術棒術槍術弓術等々と見境がない。武芸百般と言えば聞こえはいいが、その汎用性―――言葉を選ばなければ余りにも節操なしだったため、江戸時代の駿府藩では
全ては戦場において生き残るため。
御留流に選ばれた誇りと、武の基礎理念を主軸に於いて世俗に流されず熟成し続けて来たために、その武家の嫡子である長嶋武雄は幼少から祖父に因って鍛え上げられ、少なくとも同世代の人間に喧嘩で負けたことはなかった。時代が時代ならば、彼はその腕一つで立身出世も出来ただろう。だが悲しいかな、時代は近代社会が20世紀後半。今にも21世紀になろうとしている近代社会で、歴史しか碌に誇るもののない武家など廃る一方であった。
事実、小さな地主として存在していた長嶋家もダム建設の憂き目に会い町ごと水の底に沈み、国から払われた僅かな資産に頼って生活しなければならなくなった。本来、地主ならば1平米辺りでの換算のため相当額の収益になるのだが、長くダム建設の反対をし続けた結果、別の場所にダムが建設され、更に町の過疎化も加速したためにその価値が下がり、いざ売ろうとしても二束三文、最終的に国相手の交渉も上手く行かないまま第二ダムとして町は沈んだ。
結果として祖父の手に残ったのは僅かな資産と、息子夫婦の忘れ形見である長嶋武雄だけだったそうだ。だが、その祖父も数年後に他界し、残された長嶋自身は児童養護施設に預けられた。
そこから更に数年、今年で十八になった長嶋は―――。
「―――暑い…………」
六畳一間、台所付き風呂トイレ別の自室で仰向けに寝転んでいた。
呪詛のように吐き出された言葉は、少しばかり切羽詰まっているように思えた。些か童顔と言えなくもない顔つきは、むんとした夏季における日本特有の熱気に比例するように汗ばんでいるし、平均的な身長ではあるものの鍛え込まれた肉体は皮下脂肪一桁台では無いだろうかと思う程に筋肉を浮き立たせていた。ではダルマのように膨らんでいるのかと問われれば否というべきだろう。しっかりと絞り、実用的に作り上げた機能的な筋肉はしなやかかつスマートだ。
尤も―――少しでも涼を取ろうと画策したのか、部屋の窓は全開、扇風機も最強、更にはトランクス一丁でぐてっとだらけるこの少年をスマートと呼ぶには若干の躊躇いを感じるが。
「やっぱエアコン壊れたのが痛いよなぁ………」
一昨日の話だ。
地球温暖化を肌で感じれるほど年々酷くなる一方の夏場の夜は、エアコンが無ければ正直な所まともに睡眠を取ることすらままならない。しかしながら日中肉体労働をしている以上、夜は身体をゆっくり休みたい長嶋としては夏場に関してだけは電気代など知ったことか、と半ば開き直って点けっぱなしで就寝するのだが、その日は寝苦しさで夜中に目が覚めた。
寝ぼけた思考を巡らせてみれば、部屋が異常に暑いことに気づく。直ぐにエアコンが切れている事に思い至り、タイマーをセットした覚えは無いぞ、と訝しげに首を傾げながらもリモコンを弄ってみるが点かない。すわ電池が切れたか、と安さの殿堂で買い置きしていた電池と交換してみたが起動不可。どうやらエアコンもこの暑さでは仕事をしていられないらしく、電気という給料を供給されているのにも関わらず雇用主に対してのストライキをよりにもよって真夜中に決行したようだった。
有り体に言って故障である。
「ボロいからなぁ、この寮………」
中卒、加えて養護施設出身者に対する風当たりは近年、社会の風潮的に改善されつつはあるものの、それでも色々と辛いものがある。
それは長嶋にも言えることで、少ない稼ぎで部屋を借り続けるのも難しいため、独身寮のある会社に就職したのだが―――まぁ、よくあることだが、寮というのは大抵ボロい。何処ぞの車関係の大企業ともなると寮に食堂が付いてたり小さいながらも体育館やテニスコートとかはてまた大浴場にサウナとかがあったりもするが、彼が就職した会社は小さく、この寮にしても社長が持っているアパートを貸し出しているだけに過ぎない。それでもこれはまだマシな方で、酷い所になると文字通りタコ部屋みたいな寮があるので長嶋は現状、そこそこ満足していた。
築39年とそろそろ大台のこのアパートではあるが、まだまだ壮健のようだし住めば都と言う言葉もある。実際、トイレ風呂別であったり共用で無いだけ随分レベルが高かったりする。
それはともかく、だ。
雇用状況、住居状況ともにそこそこの満足をしている長嶋ではあるが、しかしながらそろそろ手を加えねばならない部分も出てきているのも事実。最たる例は水回りだ。風呂を沸かすのにも時間が掛かるし、この間は寮全体で水もお湯も少しづつしか出ないと言う状況に陥った。幸い、業者に連絡して共用費を使って1万円そこそこで事なきを得たが、今回のエアコンにしても21年のヴィンテージ物らしく、もう限界なのだろうと結論せねばならなかった。
「明日まで掛かるって………その間に、死ぬ………」
長嶋も社会に出て三年目。そろそろ尻の殻も取れてきた時期で、そこそこの蓄えはあった。だが借家である以上、勝手に寮の備品を付け替えていいか分からず、しかし事態は急を要するので取り敢えず修理だけ依頼したのが昨日。修理は即日終わり、一時期は平穏を取り戻したのだが昨夜に再び反旗を翻し、煙まで吹き出すという最早革命的な壊れ方をしてくれたためまたもや熱帯夜に睡眠時間を奪われる結果となった。更に不運なことに朝一番に電気屋に電話したら、予約がいっぱいで明日まで掛かると言われ泣きたくなった。
幸いにして、今日から三日ほど予定があるために有給を取っていたので、暑さに耐えつつの断続的な睡眠を取ることは出来たが日々仕事で溜まりまくった疲労を回復するどころか寝る度に蓄積しているような気がしてならない。
「あー………三時、か………レン君達、まだ来ないよな………」
壁にかけてある粗大ゴミから拾って再利用している時計を見て、長嶋は呟いた。今日の夕方頃に、同じ児童養護施設で育って東京へと出ていった同期が里帰りと称してこちらに来るのだ。
ふと、正月に彼等に会った時のことを思い出す。一人は学生、一人は社会人だ。
学生の方は、本人の才能と―――それから『血縁』を学校側に買われ、奨学金制度を利用して都心にある音楽高等学校へと進学していった。
社会人の方は、長嶋と同じく中学卒業とともに働きに出てはいるが、仕事の合間にとある劇団に籍をおいて俳優見習いとして忙しい日々を送っているそうだ。
それぞれ方向性は違うが、自分の夢に向かって邁進している。
「………僕は、どうなんだろうか」
翳すように、右手を見る。
引き締まった身体には不釣り合いなまでに大きくゴツゴツしたその拳は、普段からの習慣で作り上げてきたものだ。一般に拳ダコと呼ばれるそれは、素手でありながら手甲であり鉄甲である。長年日課のように一定回数巻藁を殴り続け作り続けたそれは、ある意味で一つの凶器だ。
しかしながら、彼は何かの目的のためにここまで鍛えた訳ではない。ただ、祖父に教えられたことを愚直に守り続けているだけなのだ。彼にとって、唯一の肉親とも言えた祖父は何年も前に他界している。そして祖父は、死の間際まで長嶋に『武』の何たるかを説き続けた。だから彼は、この先生きていくのに特に必要もない技能を磨き続けている。
それだけが、今は亡き祖父との絆だと信じて。
「夢、か………」
特技、と言えるのは身体能力の高さを生かした総合格闘だ。しかし前述した通り、この現代社会でその手の技術は需要も供給もそう多くない。よしんばそれを生かした仕事―――プロボクサーなり格闘家を目指した所で、それは祖父から受け継いだ自分のファイトスタイルをルールに合わせて変えなければならないのだ。それをしてしまうのは、祖父を裏切るような気がしてどうしても承服しかねた。だから結果として長嶋は社会の歯車としてまとまることにしたのだ。
だがあの二人を見ていると、心の何処かがざわついてしまう。
自分はこのままでいいのか。このままただ日銭を稼ぐだけの機械として社会に埋もれたままが正しいのか、あるいは間違いなのか。職場の先輩は『それが大人になるってことだ』と言っていたが、それは何かを諦めた人間の言い訳ではないのか。
では、諦めていないと仮定して、自分は何を目指せばいいのだろうか。
いつも一緒に居た親友二人には、夢がある。
一人はピアニストになって、有名だった両親の跡を継ぐ事。
一人は俳優になって自分と母親を捨てた父親を見返す事。
健全か不健全かはこの際問題ではない。何かを目指して日々を努力する人間は、それだけで気力が満ちている。目的があると言うことはそれだけで素晴らしく、目的がない人間にとっては眩しく映る。少なくとも長嶋にとってはそうで、だから彼はそれに憧れて―――しかしどうしていいか分からず途方に暮れ、停滞するのだ。
多分、やる気はある。そうした人間に憧れてはいるし、自分もそうなりたいのだと心から思っている。燃焼すべき情熱は常にアイドリング状態で、だがこの情熱を何処に向ければいいのか分からないのだ。
空っぽだ。
長嶋武雄という少年は、空っぽなのだ。
飢えず、さりとて満たされず―――ただ日々に埋没するだけ。それを迎合はしない。だが、拒絶も出来ない。透明な楽園に囲われ、向上心を失う。生物が進化を命題に連綿と世代を重ねてきたのならば、それはあまりにも堕落。
だが自分は―――。
「あー………うじうじしてるなぁ、僕。やめよ、こう暑いのにこんな事考えてても、余計萎える」
口に出して、長嶋は思考を切り離す。体を動かさなければ、どうにもネガティブに毒されそうだ。
時計を見る。約束までにはもう少しあるが、ひとっ風呂浴びて寝汗を流して合流場所に行けばいい時間だろう。彼は吐息して、身を起こす。将来を決める行動もこの身体のように本能レベルで動けばいいのに、と嘆息しながら。
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