第3話春夜辺

 岸の向こうには、宝物が埋まっている。

 僕は、静かな夜に、夢想にふけるような感覚で、弾いていた。

 ノックする音。

 僕は不意に、鼻をこすり、ある恋人のことを想った。

 ノックの音が五回して、誤解がとけないトラブルを、解決するために、部屋の戸を閉ざし、思い出を無視した。追い払うように。うざい母の声をかき消すように。

 ピアノ。ノクターンの寄る辺なき恋模様を思い描いた。

 目をつぶる。夜想に沈む。

 激しく叩き潰すようなピアノの安らかなスパーク。落ちていく。

 少し肌寒さを感じた。ある夜のことを思い出す。灯っていた。アロマのろうそく。肉体を重ね合わせた。幻を追いかけるように。涙が出てくる。セックスの記憶。あるいは、幻想。

 ドアをぶち破って、転がり込んできた。

 錯視。

 没入していくピアノ。いつの間にか、英雄ポロネーズの調べに変化していた。速い、速い、生き急ぐように、空想した。弾き続けた。

 目がくらむ。光を放つのはあの「スプリング・デーモン」だった。

 少し開けた窓の隙間からそっと夜風が入ってきて、カーテンが揺れる。ろうそくの火がそっと燃え上がり、くすぶるように、静かに、消えていく。閉じていく思い出。目を開ける。

 スプリング・デーモンが、僕にこう耳元で囁いた。

「君は、誰?」

 僕は答える。

 しかし、声が出ない。

 声を出さずに、ショパンのスコアで答える。

 音符の嵐に向かっていくイメージで勢いよく鍵盤を叩く。インプロビゼーション。脱線していく高揚感。ある種の冒険のようなものだ。

 スコアは宝石。

 完璧なレジェンド・シンボルを斬る勇者の剣。振るわれる音色の剣。

 悪魔は姿を変えた。

 純白のピアニスト。ホワイト・レディ

 指に春色のマニキュア。

 桜を思い起こさせる。

 僕の横に寄り添うように、座って、連弾をする。

 微笑のユニゾン。涙の、セクシャル・アート。

 スコアが元に戻る。求め合うように、ショパンを弾き続ける。

「愛」

 と呟いた。

 すると、白色のピアニストは、こう言った。

「……」

 聞き取れない。

 無言を埋める夜のスコア。

 暗闇を突き抜けていく真っすぐな音の先に、始まりがある。そう、信じている。

「好きなことは?」

 と僕が言う。

「私は、ピアノが好きなのよ」

「そう、僕もだよ」

 ロマンスの追想。

 僕は夜を一人で行く。

 ノクターンが終わった。

 すると、すべてが消えた。

 残ったのは、スピーカーだけ。

 僕はウィスキーの水割りを持ってきて、椅子に腰かけて、本を開いた。

 つまらない三文小説。

 スピーディーに、滑っていく。ストーリーセリングに、破顔する。

 すると、ノックの音がした。母の呼ぶ声がした。

 微睡から覚めるように、本を閉じた。

 ある日の夜のどこにでもある日常。

 僕はドアを開けて、部屋を出た。

 

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