第29話 ――山王楓へ
「主人の……お嬢様の子供……?」
激流のように変転していた景色が止まり、静寂が音を立てて流れ込む。条は息も絶え絶えに、しかし喉を絞るように力強く訴えた。
「楓は! 妊娠しているの!」
大理石の前に大きく手を広げた条をみて、伊智那はあることを思い出している。
「そうか。楓の体調が常態的に芳しくなかったのは……」
「つわりだよ。気づいたんだ。よく、くっついていたからさ……」
橘の手からライターが離れて、油に落ちた。火は消えている。影のように控えるエルシィがさっと拾って後ろに下がる。
「本当に……」
「本当だよ。でもそもそも、可能性があるってだけで、お嬢様を殺すなんてことはできなくなるでしょう? 貴女は。楓よりも、ずっと、今も入谷礼華を見ている貴女には」
泣き崩れる声に呼ばれたように、楓が大理石のテーブルから身を起こした。
真っ黒なドレスをまとって、タイツの擦れ合う音を静かに立てて、隣に眠る入谷礼華を見下ろす。
「――ねえ、条」
彼女が口にしたのは三崎条の名だった。
「どうしたの、楓」
「私、夫を殺しちゃった」
「思い出したの?」
「ええ」
「死にたいの?」
条の言葉に、楓はびくりと身を震わせる。
「いいえ。いいえ。あの人の子供を産まなきゃいけないし……それに、生きなきゃいけないの……。いいえ、いいえ。だって、だから、死ぬことも、生きることも、何に対しても、何もできないのでしょう? あの人は、私に、生きてほしいみたいだし、だって――」
楓は静かに涙を流し続けた。
「どうして、主人は、いつも避妊をしていたのに……」
出る幕のなかった伊智那は、油まみれの使用人を見ることはなしに、呟く。
「楓が夫を殺したとき、犯し殺したとき、妊娠したんだ」
根拠があるわけじゃなかった。というよりも、明確な嘘だった。つわりが始まるには、妊娠してから一か月以上必要だ。
「…………」
体温の残る大理石を背に、手を取られて、煌めくタイルの上、階段の前で歩みを止める。
「桃花。私は、幸せだったわ。ねえ、もう一度幸せになるまで、何年かかるかしら」
「幸福から姦しい条件付けを分離させなければ、なんて仰っていましたよ」
「桃花は?」
は、はは、と糸が切れたような笑顔を見せた。
「無理でしたよ。まったく」
階段を上る二人に伊智那が見惚れた時、残っていたエルシィが躊躇うように動いた時、しかし光は下からやってきた。
衝撃を受けてよろめいて、手から紙束がなくなっている。
地下室は予定されていた通りの炎に包まれた。階段を上る火と並走するように転がり出た三人は、屋敷の正面玄関にたどり着いて初めて地下室を振り返った気がした。使用人、橘桃花の身体から発した火炎は、どんな細工をしていたのか、二階まですぐにたどり着いたようだった。一番に指をかけた時点で、屋敷のすべてを諦めなければならないことは、火のように明らかであった。
彼女はきっと、主人のすべてを焼却したかったのだ。
それでも、哀しいことに、あの悪魔のような男が愛したのは、楓一人で。
「警察署に連れて行って」
彼女は、いつも身に着けていた箱のようなペンダントを初めて開いた。
入っていたSDカードの中には、
告発書と、ラブレター。
身の毛がよだつ犯罪記録か、螺旋の愛か。
――山王楓へ。
探偵少女ロリータをひろう 存思院 @alice_in
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