第28話 倫理も幸福も主観

「――まずい!」

 玄関で濡れ鼠になった妹の一言で、僕は状況を理解する。先ずタクシーを手配した。


「どうか、なさいましたか?」

 はっと振り返ると、そこには不審の眼差しを持った橘使用人がいた。

 どうする? 今彼女の嘘を追求しても、こちらに打つ手がない。何故なら――

(楓が見当たらないんだ)

 妹にだけ聞こえた囁きに、彼女が不審がる前に。

「いえ、どうにも妹は忘れ物をしたようで、この雨の中走って戻ってきたようです」

「そうでしたか。それはそれは災難でしたね。是非お風呂に入られてください。ご夕食もございます。お嬢様も、きっと、喜ばれるでしょう」

「ああ、いやどうも。僕はいただきますが、妹は忙しい学生の身分でして、帰ってやらなければならないことがあるようです。でしょう?」

 妹は戸惑いながらも、自然に肯定してくれた。

「実は、そうなんです。課題をサボった自分を呪いたいですね。バスタオルだけ貸していただけませんか。包まってタクシーで帰りますから」

「ああ、待ってください橘さん」

 服のポケットから適当な糸くずを取り出して握り、橘使用人に近づく。

「髪に糸くずがついていました」

 髪に触れられた彼女はピクリと動いた。

 伊智那はわざとらしく糸くずをポケットに戻す。

「あ、捨てておきます、のに……」


 橘使用人はタオルを取ってくると云って奥に引っ込んだ。

「条、聞き給え。楓はおそらく地下室か上の階いる。入口がわからないが、何とかする。まだ殺されていないことを祈ろう。それと、夕食が用意されているが絶対に手を付けるなよ。やつは僕までも殺す気なんだ。だから今すぐ帰れ」

「待ってお姉ちゃん、入谷礼華は? 襲撃者も屋敷にいるの?」

「いや、それは誤解だと思う。橘使用人こそが、襲撃者だろう」

 それはまさかと顔に書いてある。

「彼女の髪はウィッグだったんだ。さっき確かめた。最初からそうじゃないかとは疑っていたけれど、大事なことじゃないと思って見逃していたよ。僕たちは男装した彼女に襲われたんだ。男装した時の髪型の方が、リアルだったというね」

 こつこつと足音が戻ってくる。

「こちらのタオルをお使いください」

「ありがとうございます」

 僕は予め手配していたタクシーがもうつくとか何とか云いながら、妹を押し出す。

「ちょ、お姉ちゃん、まっ――!」

 勝手に鍵を掛け始めた僕に、橘使用人がいよいよ警戒の色を強めた。

「さて橘さん、地下室は、どちらに?」

 この一瞬、彼女は僕を睨みつけるようになった。僕は敵だ。

「なんのことですか」

「いえね、このつくりの建築だと地下室があるのが妥当だと思うのですが……」

 出まかせだ。建築など詳しくわからない。しかし、地下室という単語を出した瞬間、彼女の目が、全身が、右を見た。微妙な変化。だが、その先に、さっき屋敷内をうろついた時に不自然だと感じた場所がある。そのような場所は数か所あった。ただし、彼女からみた右方向には、一カ所しかない。

「い、いえ。うちに地下室はありません。確かに西洋的な建築ですが、あくまで西洋風ですから、そういうこともあるのでしょう」

 あきらかな動揺がみてとれる。でも、地下室への扉の鍵は彼女しか知らない。開けてもらう必要がある。

「すみません。失礼しました。さて僕は先に夕食をいただきましょう。冷めてしまう」

「そうですね。どうぞお先に。私は濡れたバスタオルをしまってきます」

 助かった。いや悪手だったぞと嘆息する。夕食についてこられて目の前に居座られたら、毒入り(かもしれない)の夕餉を食べなければならなくなるところだったのだ。

――これでもし彼女が地下室に戻れば、楓がまだ生きているということだ。

 夕食に向かうフリをやめて、彼女を密かに追いかける。心なしか足早の彼女は、おそらく不安なのだ。僕が意味ありげなことを云うから、不安なのだ。靴下にカーペットという幸運にも恵まれて、音を立てずつける僕に彼女が気づく素振りはない。絵の一枚足りない廊下に入る曲がり角で、耳を澄ました。

――ガチャリ、と開錠された。一般的な錠に思える。

今だ。

 扉が静かな音を立てて開いた瞬間、影から飛び出した。

 全力で走って三歩もすると気づかれたが、もう遅い。

「失礼!」

 閉じる寸前にドアノブを乱暴に引き、元軍人の筋肉で戻される前に太ももを向こう側にねじ込んだ。内出血でひどいことになりそうだとよぎる思いをかき消して、橘使用人に手を伸ばすも、彼女は何かを察したように背を向けて階段を降り始める。コンバット・ナイフを取り出す彼女に追いすがって脚を払い、縺れ合いながら地下室に転がった。

「楓!」

 打放しコンクリートの部屋の真ん中に大理石のテーブルが置かれ、人形のような少女と、老年の男性が寝かされている。花々で飾られたそこを中心に円を描きながら、僕は後退する橘に歩み寄る。少しも目線を逸らさないでも目に入る絵画の数々に、ひとつの悍ましい推測が浮かび上がった。

「楓の倫理観は意図的なものか」

 背景には、裸体の少女が踊り、時に性別問わず交わっているものもある。インドの寺院を思わせるが、ここに神秘は感じられない。

「その通りです」

「そうか」

 楓はよく見ると微かに胸を上下させており、息がある。眠らせているのだ。

「入谷礼華は死んでいるんだな」

「そう云ったではありませんか」

「墓はなかったようだが」

「墓は此処です」

「どうして楓を殺す? 主人に対する贄か?」

「お嬢様の幸福のために」

 彼女の話を要約するとこうだ。入谷礼華は小児性愛障害を抱えていた。幼い女性に対する欲情は日に日に増すばかりで、抑えられそうにないと悟った彼は、どうすれば相手を傷つけずに欲望を達成できるか考えたらしい。丁度その頃、筒井靖と山王楓から妊娠について相談を受けた。彼女らの事情と、後々子が女性であると知った入谷は、これを好機と考えた。元より「幼ければ好み」と思っていた山王楓を、幼くするこの上ない方法だと思ったと。

「それで、結局どうして楓を殺すんだ」

「決まっています。お嬢様はこれ以上幸福のままではいられません」

「君は今まで彼女が――」

「幸福でした! 主人も、お嬢様も、間違いなく幸せでした。笑い、怒り、すれ違いながらも、他の家族と同じように愛情をもち、生きていられました。外出することだってできたんです。私たちの監督のもと、少しばかり制約はあっても、旅行にだって行けたんです。自由が他人より制限されていたことと、子供が縄跳びをするくらいの気軽さで、社会的色付けのないセックスがあったこと、それだけなんですから……」

 それでも、入谷礼華が少女を都合のいいように創り出したことに変わりはない。

「楓を都合のいい道具にしただけじゃないか!」

「それの何が悪いと云うのですか。だいたい、幸福が人生の意味ならば、お嬢様は恵まれています。自由を語るなら翼を生やしてから出直してくださいませんか。価値観なんて全部後天的なものに過ぎないでしょう? 自由意志なんてものは存在し得ないんですから」

 僕は、倫理も幸福も主観がというほかならぬ自分自身の言葉を思い出す。

「だから、ここでお嬢様にはお眠りいただかなければなりません。お屋敷の中では幸福でも、社会では生きていけないのですから」

「それは入谷礼華の意志か?」

 長い沈黙があった。

「……………………違います!」

「なら――!」

 突如として投げられたナイフが髪を掠めて飛んでいく。伸脚をするように低姿勢をとって躱すも、既に橘は床に灯油を十分に撒いていた。近づけないほど、十分に。

 ナイフが彼女の手を離れたことでできた一瞬の隙に可能だったことは、周囲を観察することだけだった。その結果わかったのは、彼女というより、屋敷が焼身自殺を遂げようとしているようだということだ。至る所に可燃性の油や木材が置かれている。最悪なことに、彼女がナイフを投げた位置は入り口の目の前だ。どうやら出口はそこにしかないらしい。そう思っている内にも彼女はライターを片手に階段を上り、灯油の線を引いていく。

「屋敷中に燃え移るように準備は整えています。主人の名誉のため、お嬢様の名誉のために、貴女にもここで死んでいただきます」

 何もできないまま油の臭いが充満した地下室にあって、入谷礼華の冷たい死体も、夏の雨も意味あるまいと諦めた。逃げ出す前に僕は焼け死ぬだろう。

「テーブルに、楓と入谷と花束、そして、その紙の束は何だ?」

「…………」

「教えてくれたっていいじゃないか。僕は確実に死ぬ。もうわかっているさ」

 橘使用人は実に云い表し難い表情を浮かべたが、いくらか警戒感も薄れたように見えた。もっとも、だとしても打つ手などありはしない。

「主人は、いつからか――きっと老衰のせいで――ご自分の行いに罪悪感をもたれはじめました。よく私たちにお嬢様の将来が不安だと零されるようになったころ、この告発書を書き始めたのです。全ての経緯を記した、この紙の束を。そして或る日、ついに、主人は楓の求めに応じませんでした。一瞬です。お嬢様の愛は憎悪に裏返り、だって世界全てでしたから、殴り、いつもご自分で飲まれる睡眠薬を飲ませて、犯して、殺したんです。主人はきっと、指先ひとつだって抵抗しなかったのでしょうね」

 投げられたナイフの油に落ちる音に振り返る。もう警戒も無意味だ。一枚だけ雰囲気の異なる、低俗に、しかし純粋なエロスをまとったアクリル画には、どうしようもない傷跡が残っていた。

「僕は今、おとなしく殺されるか、全力で最後に抵抗するか迷っているんだ。決断のために、ひとつ、おかしな点を訊かせてもらおう」

「ええ、どうぞ」

「子宮破裂は、母よりも、赤ちゃんの方が遥かに死亡率が高いんだ」


――ライターは点火された。僕はテーブルの告発書を掴んで、入口に向かって突進する。



 まんまと締め出された! 雨の中、長いお屋敷の外周を見て回っても、侵入できそうな箇所はない。こうなれば構ってはいられないと、大きな石を窓ガラスに叩きつける。派手な音を立てて入口と化した窓によじ登って、指が切れるのも構わず、向こう側に落ちる。


「はぁ、はぁ……二階?」

階段を飛ぶように上る。

 しかし、静寂。

「――地下室!」

 微かな叫び声を聞いた気がして、それに賭けて、下る。丁度ベルを鳴らしたエルシィ姉さまは霊園について事情を察し、引き返してきたようだ。頷き合って、あとは走る。片端から扉を開けて、開けて、気づいた。灯油の臭いだ。

 言語化するよりも早くその扉にたどり着いた。ぬらぬらと光る階段を滑り降りて、火をもって私をにらむ橘使用人に叫んだ。


「貴女は! 主人の子供を、楓の子供を殺す気ですか!」

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