第14話 明らかな外傷の跡
山王楓とは、特段仲良しというわけでもなかったように思う。よく家に招かれ、いつも二人きりで紅茶を飲んだとしても、だ。私はその訳を知らなかったし、彼女の趣味もわからなかった。茶葉もメイクも一流の彼女は、控えめでも艶やかで、一つ上の先輩の恋人と噂されていた。その先輩は名を筒井と云った。テコンドーの選手らしくて、大人しそうな顔をしながら、少し「なめられると」相手が誰でも殴りかかっていたらしい。女子は怖がっていたけれど、楓は彼のことが本当に好きらしかった。あと名誉のために付け加えると、同じく韓国武道を鍛錬するものとして、ハプキドー使いのⅮ君は彼の乱暴を批判していた。武道は戦いの技術ではないと、よくわからないことを云っていたのがやけに印象に残っている。
「それで、母さんの友人だった山王楓に、何があったんだい?」
夫はあれ以来、自室か会社に引っ込んで滅多に顔をみせなくなった。こうして夜に少し話すだけでも、どれだけこの件について考えてくれているかわかるというもの。さぞ肩身の狭い思いをしていることだろう。
「その前に、先生、入谷礼華先生について話すわね。今私たちの家にいる方の楓ちゃんも知っているみたい」
今まで多くの担任教師と出会った。ある女性は見るからに緊張している面持ちで夢だった教壇に立つ意義を熱く語り、体育系の大学を出て母校に戻って来た男性は「君たちと楽しみたい」と強調していた。その中で異彩を放っていたのが、入谷礼華先生だ。自分はずっと海外にいたけれど、思うところあって日本の大学に入りなおした。担任教師とは責任を感じるが、精いっぱい努めたい云々。目立つのはその草臥れた顔や筋肉質の腕そのものより、明らかな外傷の跡が無数にあることだった。
「外傷?」
「うん。このあと話すけど、軍人さんだったの」
伊智那がはっとした顔をする。
彼の担当科目は英語だった。決して若いとは云えない年とはいえ、ミステリアスな渋いイケおじとして女子に高い人気を得た先生は、最初こそ男子に嫌われていたけれど、或る質問が切っ掛けでその評判も様変わりした。その日、何とも形容し難い目つきで自虐気味に「私に学識はないんだ。でも、本場の英語とはこうだ」と云った。自身の発音を恥じる男子生徒に、R.P.アクセントは武器かもしれないけれど、丁寧なフランス訛りは一種のブランドだし、インド訛りにはクラシカルな云い回しが保存されている。日本訛りでも何を恥じることがあるのか、と、ぽつりぽつり説明したのだ。その場で各国のアクセントを実演してみせたものだから、当然の如く「どうしてそんなことができるのか」と訊かれることになる。
「私は――」
「『フランス外人部隊にいたんだ』、か」
伊智那が先読みして割り込んできた。どうしてわかったのだろう。
「その通りよ」
もうその日の授業はフランス軍の話以外許さないというクラスの暗黙の総意によって、教科書のページが進むことはなかった。入谷先生は元フランス軍人らしい。このセンセーショナルな噂は、事実であることもあって、瞬く間に――下校のチャイムまでに――学年中に広まった。彼はこのことを今まで秘密にしていたらしい。
以来、彼の授業は驚くほど治安がよくなるし、みんな真面目に授業を受けるし、といった具合で英語の成績が伸びに伸びた。
「授業の残り十五分が雑談にならないと暴動が起きたけどね」
二人が笑った。
「話の上手い先生だったんだなあ」
今思うと、先生は話す内容をかなり選んでいたはずだ。私たちがショックを受け過ぎず、戦場に憧れも抱かず、そのような塩梅になるように。そういうことができる先生だった……。
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