第12話 ひとつのair
雑居ビルの隙間を昭和風の看板や透明ビニールシートが雑然と区切る、半屋外の中華料理屋。うら若き三乙女が喧々囂々、侃々諤々、その結果は場末のボロ店だ。伊智那はともかく、条も楓もお洒落にばっちりメイクをしていたのでよく目立つ。楓は涙袋に大粒のグリッターをきらめかせているし、条は赤いアイシャドウがよく映えていた。だからだろう。おばさまが注文を訊きに来た時、こんなことを云った。
「お綺麗なメイクが落ちちゃわないか心配ね」
伊智那がラーメンと半カレーを、条はワンタンと半カレーを、楓がのり玉ラーメンをそれぞれ注文した直後だった。
「湯気で落ちるタイプじゃないし、すぐ帰るので大丈夫ですよー。男もいないですし」
条は密かに「男がいた場合」を妄想してみた。
(真面目な後輩の男の子がこの場にいたとして。三人の女性に囲まれてさぞ落ち着かない彼は何を注文するかな。お姉ちゃんがおめかししていたら私には目もくれないかもしれない。真っ赤なアイラインをあんなに鮮やかに自分のものにできるのはお姉ちゃんくらいだもん。――今はほぼすっぴんだけど――大陸風の美人さんが自分の目の前で油っぽいスープを飲んで、汗をかいて……ぐへへ……ぐへ……?)
「どうしたのお姉ちゃん?」
白昼夢から目覚めると、姉と楓が少し不可解な目をしていた。
「いや、店員のおばさまが、奥に引っ込む直前に『カレー辛いけど大丈夫?』って」
そういえば、カレーライスやカレーラーメンは括弧付きで(激辛)とある。
「半カレーに(激辛)はないし大丈夫じゃない? お姉ちゃんも辛いのそこまで苦手じゃないでしょ?」
「まあそうだな。半カレーだし」
しばらくして、荒々しいどんぶり三杯とカレーがやって来た。
「「「いただきます」」」
美しい泥沼ではしゃぐ気分でスープを飲み、麺をすすり、香りを楽しむ。やたら上品に見られる三人も、今は大して見栄えなど気にしていなかった。
「これは、なんか一種懐かしい気がするよ」
「条はあまりこういう場所に行かないからな。楓はラーメンとか食べたりする? ああいや、覚えていないならそれでいい」
「んー。なんとなくね、どなたかにつくってもらって食べた気もするわ。でも、こういうお店に来たのは初めてだと思うわね」
姦しく歓談するのもこの場には実に相応しかった。
――のだが。
半カレーだった。
「何これ辛ッ!」
条は思わず水を飲む。
「やめろカプサイシンは油溶性だ。水は意味がないぞ!」
伊智那は涙目になっている。
「そんなに辛いのですか?」
伊智那は楓のレンゲにカレーをすくった。意地悪にも多めに。
「――んっ!」
楓は水に手を伸ばすも、思い出してグラスを握りしめるに留まる。
三人は轟沈した気分だった。これが「半」でなければ、などと思う暇もない。そんなものは関係ないのだ。轟沈である。一口目で沈んだのだ。半も全もあったものか!
「残したら罰金だよ!」
突如として、おばさんが般若の笑みで語り掛ける。
「なんて……!」
「罠じゃないか……」
「ごめんなさい私は手伝えそうにありません……」
伊智那は考えた。
(実際のところ、辛さを感じるまでにはラグがある。味わったから一口目で悶えたが、味わうことがなければもっと食べられるだろう。三口、五口と食べて悶える。辛さが引くまで耐える。口がもどったらまた食べる、の繰り返しで完食はできる……!)
「条、先ずはワンタンを片付けるんだ。味わうんだぞ」
条は姉と自分が戦いの場に立ったことを悟った。(残さない!)
「わかったよお姉ちゃん。このスープはおいしいんだ」
意味ないと知る水のグラスは既になくなった。繰り返すうちに苦しみは一層増す。一度にかきこめる量も減ってゆく。おばさんの感心したような目だけが憎かった。それを闘志に、銀のスプーンを握りしめる。光沢の落ちたそれを握りしめる姉妹と、一人とっくにラーメンを平らげたお嬢様は、それでも奇妙な連帯の中にあった。――しかし真実とはこの瞬間に、まったく少女が三人寄り集まっているだけなのだ。
本当にまったく、それだけである。
この時こそ、ひとつのairが決定づけられた。
雑踏から差し込んだ薄明りが無粋な蛍光灯を無視して空の器を照らし出す。倒れ伏す姉妹と、疲れたのか、眠たいのか、同じように元気のない楓がいる。店員のおばさまは満足げな顔をして聞くに堪えない鼻歌まじりのご機嫌であった。
「アルバイトの兄ちゃん、あのカレーの大盛りを三分くらいで平らげていたような……」
「他人と比べることに本質的な意味なんてないんだ……僕たちはよくやったよ……」
「お二人とも、格好良かったですよ」
「それはないだろうに……」
腹に達成感を抱えて、支払いは伊智那が済ませ、三人が千葉駅に戻る。風向きからか混じる潮風が排気ガスを押しのけ押しのけ、熱くなったアスファルトを撫でる。下がることのない温度が巻き上がり、人にも鳥にも暑い晩夏の熱気が旋転を重ね、構内の冷房などお構いなしにその質感だけを届けた。やはり、涼しくとも夏は夏でしかないのだ。
「僕は中央駅で待っているから、合流して歩いて帰ろう」
「わかった。また後でね」
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