第11話 ポスト・モダンと乙女の蜂蜜
二人が一緒に試着室の出入りを繰り返しているとき、一本の電話がかかって来た。
条にとってそれは一応仕事の件だったので、取らざるを得ない。
「あ、もしもしお姉ちゃん? 今ちょっといいかな?」
思いがけずあどけない少年の声だった。
「なあに? 迷子になっちゃった? お姉ちゃんのお家に来る?」
「ヴぇ? いぐ!」
ひどい声だ。演技はもういいらしい。
「もしもし、ふらむさん? あなたはお呼びではありませんよ。卒論でも書いていて下さい」
「嫌だよ。今は六浄豆腐とポルノ女優に忙しいんだもの」
「意味がわからないよ」
「まあいいよ! 今山形にいるのは本当なんだけどね」
「ん? 六条は京都ではないの?」
「いや、たしかに由来は京都だよ」
「色々あったのね」
「そういうこと」
このお姉さんは条がSNSで知り合った同人音声活動をしている大学生だ。声優養成所にも通っているらしく、鍛え上げられたその天稟の声を使って非倫理的な芸術活動に勤しんでいる。端的に云うと喘いでいる。あろうことか、彼女は三田の大学で名を馳せる倫理学徒でもあり、近々ヨーロッパの大学のマスターに進むことが決まっていた。曰く、学問は外面と文法と暇つぶしらしい。条は作品のイラスト製作を有償で受けたり、反対に依頼をしたりする内に彼女と仲良くなったのだが、このような一面を知った時は衝撃どころではなかったのを覚えている。学部の懸賞論文に載った彼女の研究成果を読むまで、三田の大学生ということすら冗談だと思っていたのだ。
「ごめん、今買い物に来ているから長話できない。『ポスト・モダンと乙女の蜂蜜』の件なら、夜にでもお願い」
「ポスト・モダンと乙女の蜂蜜」
――自由恋愛主義の神話は揺らぎ、甘い幻想の共有は終焉を迎える。パパ/ママ活の流行によってブランド・イメージの危機に陥ったお嬢様学校は、原因を探り、健常な恋愛観を取り戻させるべく一人の美少年を女子として入学させることを決めた。少女の姿をした少年は、新しい形の青春を受け入れるか?
ふらむ × o-Jo-chanでおくる、新感覚哲学的学園恋愛ADV
という触れ込みの、条とふらむが精力的に取り組む短編同人ノベルゲームは、二人の知名度もあってなかなか予想外に注目を浴びていた。尤も、作者の認識としてはエンタメでも社会派でもなくプランク、或いはファッショナブル・ナンセンスである。
「あ、ごめんごめん。歌の依頼について話がまとまったってだけ。夜にかけなおすね。じゃ」
「あとでねー」
条は急いでスマホを鞄に突っ込んで試着室に戻った。楓が頭だけをカーテンの外に出して、「はやく来い」と目で訴えていたのだ。
「お待たせ。あれどんな感じになった?」
「ふふん。こんな、感じよ!」
一式を買うことになりそうだ。
条も条で、アップル・スキンのスニーカーとやらを買い、ついでとばかりにこちらもヴィーガン・レザーのチェルシー・ブーツを姉のために選ぶ。
「もしもしお姉ちゃん、さっき電話くれた? あとお姉ちゃんの靴のサイズいくつだっけ?」
知らぬ間に"Declined Call"の履歴があったので、通話で訊いてみることにした。
「ああ通話の件は大したことじゃないが聞いてほしい。迂闊にも云い忘れていたのだが、僕は今朝印旛沼に行ったときに尾行に遭ったんだ」
条は背景の雑音から、伊智那が外の、しかも街にいることに気づいた。
「尾行に?」
「そうだ。車にな。なんとも嫌な感じがする。もしこれが――」
伊智那は声を潜めた。
「――山王楓に関わる、のならばやっかいだ。相手は全うじゃないから」
「なるほどね。お姉ちゃんは大丈夫だったのね?」
「もちろんだ。しかし、今後、特に楓と一緒に外に出かけるのは控えるべきかもしれない。少なくとも警戒しなければならない」
条は噂話を思い出した。
「そういえば、近所の佐藤さんがね、『派手な服の女の子を探す別嬪さん』に会ったって云っていた」
「わかった。それは手がかりでもあるな。これから帰るのか?」
「お昼食べてからね。帰りはどうするの? お姉ちゃんも電車?」
「いや僕はバイクで来たから…………」
条はその不自然な途切れ方の奥に、姉の悔しそうな、恥ずかしそうな顔を垣間見た。
「心配して来てくれたんでしょう?」
にやにやとする条を楓は不思議そうに見ている。
「中央駅に迎えにいくから、帰る時は云ってくれ」
「いやいや。お姉ちゃんもお昼一緒に食べるんだよ」
「お姉さんも来るのかしら?」
口をはさんだ楓は思いのほか嬉しそうだった。
「いや僕は」
「ありがとう。お姉ちゃん」
「………………五階の靴屋であっているか?」
条は素直な笑顔で頷いた。
「うん。あってる!」
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