第8話 西印旛沼か検見川浜

 しばらくして、伊智那は酒を飲みに帰ることにした。麗しの印旛沼のために一応は控え気味だった日本酒が必要だった。彼女は酒がなければ正気を保っていられないのだ。

「どうして諸君は! 素面で世界を受け入れられるのか!」

 湖面にエンジン音が響き渡る。

彼女の重低音を聞いたのは、遠く古い内海の、澄みきった水源だけだった。



 条はふわふわの綿に包まれながらも、姉がバイクでどこかに出かけたことを知った。早朝から出かけるなんて滅多にないので、行き先は簡単に想像がつく。何か、それが喜ばしいことでも悲しいことでも、感情が高ぶると彼女は決まって水辺に行くのだ。西印旛沼か検見川浜。だいたいの目的地はこの二つだ。

「お姉ちゃん、私に興奮したのかな」

――そんなわけなかった。

 

 紫檀の座敷机にシャンパンが入っていた上品な箱が投げ出されている。何気なく見つめていると、ダイニングの方向から食器の音が聞こえてきて母が起きていることを知った。ぼそぼそと聞き取れない会話が漏れてくるので、きっと楓も起きたのだ。母はこの謎めいた少女の全てに相当なショックを受けたに違いないが、おそらく上手くやるだろうことを条は確信している。でなければ、伊智那や私を育てられるはずもないのだから。きっとそうだろうと。

 ダイニングに行くと朝食の用意が整っていた。お高い瓶の飲むヨーグルトや果物などを中心に、色とりどりで新鮮な料理が並んでいる。卵焼きやパンなども含めて、メニューとしてはいつも通りなのだが、何よりも種類が豊富だ。

「伊智那はどこに行ったの?」

「たぶん印旛沼」

「朝食はどうしようかしらね」

「もうすぐ帰ってくると思うから、獺祭の三十九でも出しておけばいいと思うよ」

「朝からお酒?」

「というより、今朝バイクに乗るために控えていた、その反動という」

「たった半日なのにね」

「お姉ちゃんの依存症を治すのは難しすぎるよ」

 母は冷蔵庫から日本酒を取り出した。

 丁度その時、伊智那が帰宅した。よろよろと自室に引きこもろうとするのを条は阻止して、朝食の席に招いた。

「ごめんお姉ちゃん、獺祭まだ冷たすぎるかも」

「別にいいよ」

 昨夜とは別人のように大人しくしている楓がおずおずと口を開いた。

「お姉さんは格好いい服も着るのね」

 伊智那はジャケットを脱いだので、ボトルネックのタンクトップ・インナーしか身に着けていなかった。

「バイクで出かけていたからな」

 確かに、和服で溶けている姉とは、髪形から足元まで別人かのように見える。

「いいなあ、私もバイクに乗りたいなあ」

 条にとってバイクは、姉が十八の時に免許を取った頃にはまるで興味がなかったが、今となっては最も強い憧れの一つだった。もちろん免許自体取れなくはないのだが、高校を卒業するまでは父母が許してくれないのだ。

「何か乗りたいバイクとかあるんだったか?」

「レオンアートのヴェッセル」

「スペインの?」

「そう」

「高速とか走れないぞ」

「その時はお姉ちゃんに乗せてもらう」

 条もまた、一目惚れのようなものだった。正直、機能や利便性はあまり考慮していない。これは初バイクなので、不便さも何も実感がないという側面もある。

 楓は全く話についてこられていない風だが、楽しそうに、にこにこ笑って聞いていた。

 そうして、父不在の食卓は片付けられていく。

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