第7話 グラファイト・ブラックのレブル

 翌朝、伊智那は不自然にはだけて下着が露出した上半身(然れども薄い綿の布団は丁寧にかけられていた)をみて、やけに幸せそうな顔で眠る妹にあきれた――

「お姉ちゃん、大胆だね……」

「――っ! いや、これは」

――はずだったが、出来心に負けて同じことをしてしまった。そして目を覚ました妹に見つかった。至近距離で服を乱し合い、抱き合う二人。

 その後すぐにまた眠ってしまった妹を綿布に包んで、伊智那は朝風呂に浸かった。家中が静寂に浸っていた。起きている者は彼女を除いて他にいないようだった。

「僕は、この状況に興奮しているのだな」

 まさしく、朝一番に湯船にお湯を張るなどということは、滅多にないことであり、非常を楽しんでいるに違いない。そう思った。

 椿油でケアした髪を乾かし、編みこんで、密かに自室から持ち出したライダース・パンツやライダース・ジャケットを着る。普段の適当な和装とあまりにも雰囲気の異なる自分が鏡に映って苦笑した。ヘルメットとは別にミリタリー・ベレーも持っていく。これを被れば、多少の髪型のズレも誤魔化せるだろうといつも彼女は信じている。

 伊智那はなるべく静かに外に出て、グラファイト・ブラックのレブルを起こした。インワード・ベースのような重低音が小気味よく、まだ早朝の田園まで響いている。デザインと乗りやすさの評判だけで選んだバイクだったが、伊智那はすっかり音までも愛していた。初恋の愛車はもう誰が何と云おうと最高に違いない、これは事実である。何故ならば、各人の事実とは主観的に独断してよいものなのだから――と。

 意味もないことをとうとうと考えていると、ふと不自然な視線を感じた。さてはエンジン音がうるさすぎたかと申し訳ない気持ちでグローブをつけ、跨って道に出る。牧場のある暗い道を通り過ぎ、牛と草と田畑に、曖昧な朝日を攪拌したような空気を泳ぐように進むと県道に至る、のだが、県道を目前にして一台の車に追いつかれた。そして、視線が背後に張り付いた。強烈な、しかし不干渉の視線である。

「監視されているような、嫌な視線だ……」

 牧場や田畑の在る所であるから、早朝から人がいるのは別におかしくはない。それでも総毛立ち、壊れた弦楽器の不協和音が脳内で鳴り響くような警告を受ける。

 この奇怪な監視と追跡は、伊智那が県道から国道二九六号へと抜けて、最終的に印旛沼へたどり着く直前まで行われた。

(目的地を知りたがっていた? 印旛沼とわかったら興味を失ったと?)

 レブル五〇〇をちょっとした土産物屋の駐車場に停めて、伊智那は劇画調に待ち構える体勢でいたので拍子抜けした。恐怖より興味だと闘志を燃やして覚悟を決めていたのに、これでは一方的に情報を抜き取られた気分である。ナンバープレートは記憶したが、何もされなかった以上役に立たない情報でしかない。

「これは考えるまでもなく山王楓に関わるのだろうな、まあ」

 実際のところ、近所に聞こえる三崎の長女の評判はよろしくないから、隣人が不審の目で見るのはままあることであった。ただ、これを考慮しても今回は異常であったと云えよう。ただの迷子ではないという予想は的中しつつあるのだ。気を引き締めなければならない。困難のうち最もやっかいなことは、それ自体に気づかないこと、次いで知らないことだ。

「僕は山王楓と彼女に纏わる物語を少しも知らないし、何が不味いのかも解らない」


――反転液晶メーターは加速を示している。


 伊智那は鹿島川を渡った先でコンビニコーヒーとサンドウィッチを購入し、わざわざ西印旛沼を至近距離で見られる位置まで移動して食べた。朝焼けは流れ去って青空である。千葉一番の湖沼と向かい合ってベンチに座り、左膝を上に組む。数十冊もありそうな読みかけの本の中から適当に連れてきたのはとある瞑想詩集であった。神秘的な詩人によくあることだが、彼らはそれを、スケッチ/クロッキーするだけで説明しないのだ。だから、読み手が受け取るのは無理解か再解釈だけであろう。

 伊智那はパラパラと何気なしに開いて一点に指を当てた。

(昔、条が教えてくれた占い……)

「悪魔。悪魔はどなったり、ののしったり、喧嘩したりする声だけしか聞かない。だからあなたは静かに楽しみながら悪魔を愚かしき者とすることができるのだ」

 右手の人差し指は明確に指示した。

(誰かが云っていたな――)

「私たちの認識と機能は限られている。

それが如何に幸福なことか」

(ならば、悪魔も幸福だ)

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